基礎、そして学祭


 こうして、何だかんだで卜部うらべさんと和解できた僕は、撃剣部の稽古にも気兼ねなく熱を入れられるようになった。


 いや、和解できたっぽいのは卜部さん一人だけで、氷山ひやま部長を除く他の部員達からはそこはかとなく一線を引かれてる感じはある。だけど少なくとも険悪な感じではない。必要最低限の受け答えくらいはしてくれるし、嫌がらせの類は一切されないので、部活動には支障が無い。


 ——おそらく、エカっぺが入部を辞退した時の言葉が、彼らに効いているからだろう。


 「天覧比剣てんらんひけんを本気で目指しているなら、秋津あきつ光一郎こういちろうという即戦力を好き嫌い抜きで受け入れてみろ」と、あの子は言ったのだ。


 もしも僕を排斥したりすれば、自分達は天覧比剣に本気ではないという事を露呈してしまうことになるだろう。それは撃剣部員である彼らにとって恥なはずだ。だから僕には何もせず、淡々と受け入れることを選んだのだ。


 もしもエカっぺがいなかったら、こうもうまく溶け込めなかっただろう。彼女には感謝しかない。


 だがそれだけではなく、卜部さんが僕に対する態度を軟化させたというのもあるだろう。


 以前までの卜部さんの態度は、僕を嫌う人達の最たるものだった。いわば「秋津光一郎大嫌い連盟会長」みたいな感じだった。


 そんな彼女が僕に多少でも優しくなってくれたことで、他の部員にもその態度が波及したのかもしれない。


 ……いや、波及しただけではない。


 卜部さんの復帰以降、部員の態度の変化は、僕に対してだけでなく、卜部さんに対しても変化した。


 男子部員の間で「なんか最近の卜部、可愛くね?」と密かに話題となったのだ。聞き耳を立てたので知っている。


 僕の見解では、卜部さんは元々可愛らしい顔の造作をしていた。けれど今まではことさらに強張った表情ばかりとっていたため、どことなく近寄りがたさがあった。その表情の強張りが最近ではだいぶ取れて、元々の可愛さが表面化したのだ。……それを指摘すると、卜部さんは真っ赤になって怒るけど。


 まぁ何にせよ、僕の撃剣部員としての活動は、ようやくマシになって進み始めたというわけだ。


 稽古はなかなかにキツいが、日を追うごとに体が慣れてきた。しかしその慣れに甘んじず、そこからさらに今一歩進もうと奮闘する日々。苦しいが、充実した苦痛。


 とはいえ、僕が取り組むべき稽古は、撃剣だけではない。


 毎週土曜日、日曜日に、望月家で至剣流の稽古がある。


 こちらにも真剣に取り組まなければならない。


 そして今日、四月二十七日。土曜日。午前。


「——まだ少し「受け」の太刀が硬いぞ、コウ坊。素早く行うのも大事だが、「滑らかに球体を描く」という基本原則を忘れてはならん」


「は、はい……!」


 望月先生からそうご指摘を受け、それを胆に命じた。


 それから、次に控えていたエカっぺと交代した。


 望月先生が「うち太刀たち」として、「仕太刀したち」であるエカっぺへ向かって左右交互から木刀を振る。

 エカっぺ仕太刀はそれを、内側から仮想の球体をなぞるような太刀筋で受けていく。それでいて、常にその切っ尖は望月先生打太刀へ向け続ける。

 八回目の太刀を受けた瞬間、エカっぺ仕太刀は身を進め、切っ尖を望月先生打太刀の喉元近くで寸止めした。

 そこでその型は終わり。


 そう——『綿中針』の型である。


 この型は、防御から即座に反撃する技である。


 さらに『四宝剣』という、至剣流における最も基本的な四つの型の一つでもある。


 『石火せっか』『旋風つむじ』『波濤はとう』『綿中針』——至剣流のその他の型は、これら四つの型の理論や動きを主軸にして成り立っている。

 ゆえに、この『四宝剣』をしっかりと学んでおけば、残り二十の型の習得や上達もおのずと速くなるのだ。


 この『四宝剣』の存在は、には伝わっていない概念である。


 嘉戸かど宗家と、そして僕達『望月派』しか知らない。


 そして嘉戸宗家と違い、望月先生は包み隠さず教えてくれる。


「——受けの太刀筋がまだ硬いな。もう少し強張りを無くすんだ」


「はい!」


 やや息切れ混じりに返事をするエカっぺに、僕は内心で微笑ましく思う。……稽古を始めたばかりの頃、僕がされていたのと同じ指摘だったからだ。


 そうして、また僕と入れ替わった。今度は僕が仕太刀となる。

 

 ——こうやって、僕とエカっぺは、かわりばんこで『綿中針』を稽古している。


 しかしながら、エカっぺはまだ初期修行者だが、僕はすでに切紙きりがみ免状を授かっている。学習段階は僕の方が上なのである。


 なので同じ『綿中針』という型の稽古の内容にも、必然的にがあった。


 型を行う「速さ」が違う。


 エカっぺに比べて、僕に向かって発せられる望月先生打太刀の斬り返しのスピードは速めだ。そしてそれを受けるために、必然的に仕太刀の防御も速くせざるを得なくなる。


 しかし速いだけではいけない。『綿中針』の基本原則である「円く、柔らかく受ける」を守らなければならない。それがなかなか難しかった。


 ——そう。『四宝剣』は、どれだけ高い領域に行こうとも常に練り続けるべき大切な型だ。


 至剣流は、『四宝剣』に始まり、『四宝剣』に終わる。


 全ての型の基礎であるため、これを練ることは、すなわちその他二十の型を練ることにも繋がるのだ。


 さらに言うなら、この『綿中針』の型は、『四宝剣』の中でも最も使い勝手の良い型だ。


 「円く受けてすかさず突く」がこの型の用法だが、実戦では必ずしも反撃が刺突である必要はない。

 この「円の受け」は、あらゆる構えや動きに即座に転じることのできる、交差点のような太刀筋だ。

 相手の剣を受けたと同時に好きな構えへ移行し、そこから刺突ではない別の技を発する事も出来る。 

 「正眼の構え」「陰/陽の構え」「裏剣の構え」「稲魂の構え」……防御と同時にほぼ全ての構えへ瞬時に移れる、便利な型なのだ。


 とはいえ、その優れた点にばかり甘えていればいいかと言われると、そう簡単ではない。

 至剣流は日本一知名度の高い剣術だ。

 その型とその使い方も、日本中に知れ渡っている。

 ゆえに相手は、必ずや至剣流の型の性質を逆手にとった戦法を取ってくるだろう。

 今やっている『綿中針』で例えるならば、相手は己の望んだ構えを取るような攻撃を仕掛けて自分を思い通りに動かし、狙い通りの構えをとったことで生まれた隙をすかさず突くだろう。

 全ての方位を堅牢に守り切れる完璧な構えなど存在しない。その構えごとに「隙」が必ず存在する。

 だから構えは複数あるのだ。


 剣の世界は奥が深い。

 ゆえに一筋縄ではいかないのだ。









 そうしてしばらく稽古を続け、やがてお昼になった。


 エカっぺ、僕という順番でシャワーを浴びて着替えた後、ほたるさんが用意してくれていた(ここ重要!!)お昼ご飯をご馳走することになった。


 メニューは昨晩の残り物らしい根菜類の煮物と、タケノコご飯、そして螢さんの手作りであるというふきのとう味噌。


「美味しいです!」


 僕はそう元気よく感想を述べた。お世辞にあらず。マジで美味しい。結婚してください。


「よかった」


 向かい側の席でそう静かに述べた螢さんの今の装いは、割烹着。料理の邪魔にならないように、その長くて綺麗で良い匂いのする黒髪は後頭部でお団子になっている。


 ああ、いいなぁ、螢さんの割烹着。いつもの可愛らしさが抑えられて、代わりに人妻みたいな色気と母性とたおやかさが上昇している。是非ともお嫁さんになって欲しい。いや、お母さんでも良い。膝枕しながら耳かきとかしてもらいたい。お料理をしているその後ろ姿を見ているだけできっとご飯三杯は余裕でいける。


「ああ、いいなぁ、こんなご飯毎日食べたいです」


「ありがとう」


 螢さんはそう感謝してくれた。その表情は一見普段と変わらぬ無表情に見えるが、僕の観察眼は誤魔化せない。……彼女の真っ白で綺麗な頬の下にある表情筋が、ほんの少しだが笑みを形作っている。


 なんだろうか。あの日……そう、十一月の「三本勝負」で嘉戸宗家に勝ってからというもの、螢さんはああいう不可視の微笑みを僕に見せてくれる事が多くなった。


 これは、少しは心を許してくれている……と考えて良いのだろうか。


 いずれにせよ、前よりは彼女との心の距離が縮まったことは間違いない。


 けれど、そこから自然に相思相愛、なんていうのは希望的観測が過ぎるだろう。


 螢さんは「自分を負かした相手としか交際も結婚もせず」という公言を、いまだに取り下げていない。でなければ、先日の首藤泰樹すどうやすき氏の勝負を受けてはいなかっただろう。


 僕の剣の修行は、これからも続くのだ。


 だけど今は、愛する女性の手料理の味に感動し、舌鼓したつづみを打つことにしよう。


「……あたしも、ふきのとう味噌、作ってみようかしら……」


 僕の隣に正座してご飯を食べているエカっぺが、難しい顔でそうブツブツと呟いているのが聞こえた。


 螢さんはその綺麗な黒い瞳をぱちぱち瞬かせ、エカっぺに告げた。


「レシピあるけど、持っていく?」


「いいの? ……いや、いいわ。ふきのとうの旬はもう過ぎてるし」


「そう」


 そんな風に話す二人を、僕はぼんやり眺めていた。……エカっぺといい螢さんといい、女の子って料理するのが好きなのかな?


 ちなみに望月先生は螢さんの隣だ。騒がしい僕ら子供と違い、黙々と食べている。


 そうして完食した後、食器洗いを手伝うことに。

 僕と螢さんとエカっぺの三人で取り組んだので、食器洗いはあっという間に終わった。


 それから再び居間に戻り、各々の位置に座る。


「——そういえば、もうすぐ創設祭があるんだった」


 着席して早々、螢さんが脈絡無くそんな事を口にした。


 真っ先に反応したのは望月先生だ。


「おや、もうそんな時期だったか」


「ん。もう中等部も高等部も、各クラスで出し物を決めて動いてる」


「なるほどな。して螢、お前のクラスは何をやるんだい?」


「『英国風えいこくふう女中喫茶じょちゅうきっさ』だって」


「……それはまた面妖めんようなものを」


 すっかり親子の話に移行しているのを見て、僕はそろそろ説明を欲した。


「あのー……創設祭って、なんでしょうか?」


「コウ知らないの? 葦野女学院ヨシ女でやる学祭よ。ヨシ女では年に一度、創設日である五月十日を含んだ週の土日に創設祭を開催するの。いつもは関係者以外立ち入り禁止なヨシ女だけど、創設祭の期間中だけは、学生が配る招待券をもらった人であれば基本的に誰でも入れるのよ」


 なるほど、ヨシ女の学祭だったのか。


 エカっぺの解説に僕は納得するが、


「でも、学祭って多くの学校が秋くらいにやりますよね? だけどヨシ女は春にやるんですか……珍しいですね」


「学院創設日を祝うのと、できたばかりのクラスの団結力を学祭を通して高めるためというのの、二つの意味合いがある。各クラスごとに色々な出し物をやっていて、普段学校の敷地内に気安く入れないというのもあって毎年結構な数の人が来場してくる。ちなみにチケット制。学生一人につき五枚まで配布できる」


 螢さんはそう言って、五本の指をパーにしてくる。ちっちゃくて白いお手手が可愛い。


「へぇー……」


 僕はのんびりと関心の声を漏らし、そして「ハッ」と気がついた。


 非常に重大な事に。


「……先ほどの望月先生との会話を聞く限りでは、螢さんのクラスの出し物は『英国風女中喫茶』とのことですが…………それは一体どのような?」


 女中。女中さん。

 それはすなわち……家事全般を担うために雇われる、お手伝いさん。

 メイドさんである。


 螢さんは答えて曰く。


「題名の通り。女中……つまりメイドの格好をして、来客にお茶やお菓子を振る舞うコンセプトカフェ。クラスの皆は育ちが良いから、お茶の美味しい淹れ方とか、お茶に合うお菓子とか、そういう知識が豊富。きっと素敵なおもてなしが出来る」


「…………ちなみに、螢さんも、接客を?」


「ん。わたしも女中服を着る。なかなか可愛らしい服」


 トンカチで脳を直接殴られたような錯覚を覚えた。


 ——ほたるさんが、めいどさんになって、おきゅーじする。


 これほど破壊力のある言葉が、今まであっただろうか?




 想像してみる。

 キュートでクラシックな女中服に身を包んだ、螢さんの姿。

 その気品と可愛らしさにあふれた立ち振る舞いを。

 綺麗な黒髪と一緒にそのフリルで彩られたスカートをはためかせ、僕の方へ振り向いて、笑顔で告げる。『おかえりなさいませ、ご主人様。今、お茶をご用意致します』。

 純白のクロスの敷かれたテーブルの一席に腰掛け、紅茶を待つ。

 しばらくして、カップとティーポットを乗せた銀色のトレーを片手に持った螢さんが優美に歩み寄る。カップに紅茶を注いでくれる。

 僕が紅茶を一口飲み、美味しいと言う。

 すると螢さんは、手元のトレーで恥ずかしそうに口元を隠し、ほのかに頬を赤らめて、消え入りそうな声で言うのだ。

 『お褒め頂き嬉しいです……ご主人様のために、心を込めて淹れました』




 ……………………いい。


 やばい。想像だけで鼻血が出そうだ。


「コウ、鼻の下伸びてる。きも過ぎ」


 エカっぺの辛辣な一言に、反射的に口元を押さえる僕。


「そ、そ、そのっ、螢さんっ!?」


「ん?」


「そ、そのっ、創設祭の招待券っ、どうか僕にも配ってもらえないでしょうかっ!?」


「ん。最初からコウ君も誘うつもりだった」


「ほんとですかっ!? で、で、でででではっ…………そのっ、えっと、あのっ…………え、絵のモデルになってくれませんかっ!? 女中服姿でっ!!」


 たどたどしくも必死な懇願。


 案の定、隣のエカっぺが引いたような顔をしている。ずっと静観していた望月先生も、苦笑を禁じ得ない様子。


 は、恥ずかしい……でも、これは僕にとって重大事項だ。女中服の螢さんという、超レアな螢さんを我がスケブに永久保存するチャンスなのだ。


 螢さんは少し考える仕草を見せてから、言った。


「写真撮影は禁止だけど、絵のモデルなら、空き時間の時にできなくもない」


「本当ですかっ!? じゃ、じゃあっ…………描かせてくださいっ!!」


「……コウ君、女中服、好きなの?」


「え、いや、そういうわけでは…………その、女中服を着た螢さんが好きなわけで……」


 言いながら僕は赤面する。螢さんへの好意は隠さず発露しているが、こういう形で「好き」と言うのは少し申し訳ない気分になる……なんかよこしまな気持ちで言っているみたいで。


 とはいえ、彼女から許可は頂いたのだ。喜ぶべきだろう。


 螢さんの女中服姿のためなら、撃剣部と至剣流の稽古の掛け持ちだって耐えられる。


 創設祭が待ち遠しい。




 僕はその日、螢さんからご奉仕を受ける想像を何度もして、何度も多幸感を覚えた。


 想像だけでコレなのだから、本番はさぞのだろう。


 ああ、男って悲しい生き物だなぁ。

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