帝都初恋剣戟譚 弐

ある男の破門


……戻ってきちゃった♡


というわけで、またお願いします。



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 西暦二〇〇二年 四月十日 午後一時——




 至剣流剣術宗家、嘉戸家の邸宅は、東京都新宿区市ヶ谷にある。


 その敷地は広大。


 敷地中央にそびえる屋敷を中心にして、木の根のごとく八方へ渡り廊下が伸び、別館が存在する。


 その中の一つが、この大稽古場だ。


 その辺りの町道場がウサギ小屋に思えるほどの、広々とした床と、高い天井。それらを構成する木材は経年で黒くなってはいるが、そこからは劣化ではなく貫禄すら感じさせる。


 今、その広大な稽古場では稽古は行われていなかった。不気味なほどに音が少ない。おまけに薄暗い。高窓から見える空の風景は鉛のような鈍色で、外で激しく降り注ぐ風雨がばちばちと窓ガラスを殴る。その微かな音だけが大稽古場に常に響いていた。


 けれど、無人ではなかった。


 窓の外で稲光が激しく明滅。大稽古場の最奥の、香取鹿島両神の掛け軸がかかった床の間の前に立つ、四人の影を照らした。


 遅れてやってきた重厚な遠雷が、大稽古場の床と天井をビリビリと揺さぶった。


「——今、何とおっしゃった」


 人影の一人が、呆然とした声で言った。


 まるで、悪い意味で信じがたい言葉を聞かされたような。


 何とは無しに病院で検査を受け、医師から大病を宣告されたような。


 そんな語気で、その男は言った。


 齢三十三でありながら、枯れ枝を思わせる男だった。


 栄養不足のようにこけった細面。浮き出た頬骨。口元の大半を占める無精髭。櫛も通されていない、肩まで伸びた長い髪。

 身に纏う稽古着は、散々着古されたことで色が薄くなりボロボロになっている。まるで着る物にも困った物乞いのようだ。

 体格は長身痩躯。ところどころが骨ばっており、稽古着から覗く胸元にはうっすら肋骨が浮き出ている。

 ……しかし、病身のような弱々しさは一切感じられない。

 筋の浮かんだ足は木の根のごとく稽古場の床を掴んでしっかり立っている。

 細い腕は一見すると枝のようだが、よく見ると剣を振るための筋が異常に発達している。

 顔に穿たれた一対の双眸は、まるで猛獣が身を潜めた木のうろのごとく、剣呑な輝きを底光りさせていた。


「……聞こえなかったか。では、もう一度告げよう」


 その男と向かい合うのは、羽織姿の一人の老夫。


 少女並みに小柄だが、身の内に強固な芯を宿しているような立ち姿。分かる者の目から見れば決して油断ならない武芸者であると一瞬で察せる佇まいを、何気ない挙動の中でも常に崩さずにいる。細く開けられた瞳の奥底には、業火を極限まで小さく圧縮させたような眼光が覗く。


 その老夫——嘉戸唯明ただあきは、目の前の男へ名指しで宣告した。




鴨井村正かもいむらまさ————貴殿は今日限りで、破門とする」




 敷地内に立つ白樺に雷が落ちた。鼓膜を引き裂くような轟音が大稽古場に響いた。


 「神鳴り」という語源の通り、ちっぽけな人々を畏怖させ、すくみあがらせるほどの音。


 しかし、四人の誰一人として、それに一切の怯えも見せることはなかった。


 特にその男——鴨井村正にとって、唯明の宣告の方が、雷よりも衝撃的だった。


 雷鳴の余韻が空気に溶けきった途端、村正は目の前の至剣流家元に反駁した。


「何故でございますか家元!? 俺が、一体何をしたというのですか!? 何故っ、破門、などと……!?」


 儀礼的フォーマルな一人称を忘れて「俺」という素の一人称が出てしまうくらい、村正は取り乱していた。


 ——村正が『至剣』を習得したのは、つい最近。今年の3月末のことだ。


 気狂いのように天高く雄叫びを上げるくらい嬉しかった。


 九歳の頃から始めた、至剣流剣術。


 江戸時代から四百年ほどの歴史を誇り、今や国内の正式門人数が百万人を超えるという大流派。 

 五十存在する型を練り上げ、その末に『至剣』という己だけの最強剣技を会得する事を理念とする。


 村正は、剣の道に己の全てを捧げてきた。


 友を作らず、好いてくる女も袖にし、家族からも距離を置き、ただひたすらに『至剣』を追いかけ続けた。


 全てを捨て、己の剣を磨くこと二十四年。


 ようやっと、村正は己の『至剣』を掴み取ることができた。


 滂沱ぼうだの涙が一日止まらぬほどに嬉しかった。もう死んでもいいとさえ思えた。


 村正は、至剣の習得を嘉戸宗家に伝えた。


 すると、すぐに返事が返ってきた。「四月十日 嘉戸家に来られたし」と。


 ようやく、恋焦がれ続けてきた奥伝目録おうでんもくろくを手にし、免許皆伝を勝ち取れると思っていた。

 

 嘉戸宗家の歴々や、救国の英雄である望月もちづき源悟郎げんごろうのような、免許皆伝者と肩を並べられると思っていた。


 四百年続く至剣流の歴史に、「鴨井村正」の名が刻まれるのだと、信じていた。


 しかし、告げられたのは「破門」という、あまりにも残酷な二文字。


 あんまりだ、という思いでいっぱいだった。


「何故ですっ!? 家元っ!! どうかお答え願いたい!! 家元よっ!!」


 だから繰り返し、必死で問い詰めた。


 そんな縋るような様子を前にしても、唯明は顔色一つ変えず、淡々と告げた。


「貴殿が得た『至剣』が、


 危険だから——聞くにくだらぬその理由に、村正は勢いをさらに強めて反論した。


「危険で何がいけないのですか!? 確かに現代において、剣術や武芸とはもはや戦の要ではありませぬ! 哲学の側面で学ぶことが大きい! しかしやはり根元は殺人剣! 危険であって然るべきではないのですか!?」


 家元は、書かれた文字を読むような一本調子でさらに答える。


「それは否定せぬ。私も同感だ。しかし、その前提で考えても、貴殿の至剣は危険極まるのだ。人を楽に殺せるだけなら良い。しかし貴殿の至剣は人を殺すどころか、使

 

 細い眼の奥に凝縮された眼光が、村正をまっすぐに射抜く。


「断言しよう。——貴殿はいつか、その技を邪悪に用いるだろう。まして、友をどころか家族さえも捨てて至剣を求めた、貴殿ならばなおのこと」


 村正はごくりと喉を鳴らした。


「我々は来る者を拒まない。しかし、我々には至剣斎が築き上げた遺産を毀損せずに継承するという責任もある。それを邪魔する可能性のある人間を、置いておくわけにはいかぬのだ」


 村正の心中に、黒いモノが渦巻く。


「だから、至剣流宗家現家元である嘉戸唯明の名において、何度でも言おう。——貴殿は破門だ。貴殿に渡す予定だった奥伝目録も破棄し、すでに渡した目録も全て没収、または無効とする。教伝資格も剥奪する」


 再び、窓が激しく瞬くとともに、稲妻が落ちた。


 あらゆる音を塗りつぶすほどの轟音。


 その轟音すらも引き裂くほどの声量で、村正は憤怒を発した。


「家元よ!! それほどまでに俺の至剣が怖いか!! それほどまでに俺の至剣が妬ましいか!!」


「……去れ」


「ならば見ているがいい!! 俺が培った至剣の恐ろしさを、今にこの帝国の者共に知らしめ、震え上がらせてくれようぞ!! 貴様らには何もできぬ!! 貴様らの至剣はせいぜい目の前の人間を殺す程度のもの!! 家元よ、貴様の言うとおり、俺の至剣は眼前の剣客どころか、この社会そのものさえ破壊出来る最強の至剣なのだ!! 貴様らの崇める流祖、嘉戸至剣斎しけんさい美達よしたつすら超えるほどのなぁ!!」


「去るがいいっ!!」


 その短身から発せられたとは思えぬほどの、唯明の一喝。


 村正は一瞬怯みを見せたが、すぐに親の仇を見るような目で睨め付け、大稽古場を去っていった。


 情念をまとったその後ろ姿が見えなくなるのを確認すると、唯明は呼びかけた。


「——寂尊じゃくそん雷蔵らいぞう


「「ここに」」


 唯明の後にずっと控えていたもう二つの人影——嘉戸寂尊と嘉戸雷蔵の二人が同時に返事をした。


「見ての通りだ。鴨井村正は、私の名のもとに今日破門となった。我が至剣流および嘉戸宗家との関係を完全に絶ったのだ。鴨井がこれから何を起こそうとも、我々嘉戸宗家は関知しない。良いな?」


「御意」


 その了解の声を発したのは、威圧感を隠しもしない太い声のみ。雷蔵だけだった。


「寂尊、何か意見でもあるのか?」


 唯明の問いかけに、寂尊は静かで抑制された声で答えた。


「……破門には異論ありません。しかし父上、鴨井村正のあの至剣……アレを野放しにするのは少々危険かと。アレは悪用すれば完全犯罪どころか、この国を混乱に陥れることも不可能ではありません。——現在この帝都には、元ソ連軍人や在日ロシア人、共産主義者などを主な構成員とした犯罪組織が暗躍しており、内務省も手を焼いているとのこと。その組織の一部は、ソ連崩壊後に新たに建国された新ロシア連邦の当局と繋がりがあったと聞いております。もしもその露冦ろこうどもに、村正の至剣が渡ってしまえば……」


「分かっている。……寂尊よ。お前は確か帝都大学にいた頃、樺山かばやま勇魚丸いさなまる海軍大将の御子息と親しかったな?」


あゆむのことでしょうか」


「そうだ。樺山歩殿は確か今、内務省の官僚をやっていたな」


「それがなにか」


「——言伝ことづてを、頼みたい」

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