勝ち虫は翔ぶ

「…………なんという、なんということだ」


 大稽古場中央で今なお繰り広げられている剣戟に、嘉戸かど唯明ただあきはその細目を大きく見開いていた。


 未だ傷一つ無い輝秀てるひで。逆に秋津あきつ光一郎こういちろうは今にも力尽きて倒れてしまいそうなほどの酷い重傷だった。


 しかし、そんな重傷者に、無傷の輝秀が押されている。


 輝秀は必死さと憤りの混じった形相のまま、剣技を連発させていた。手心を全く加えていないことは、親としてすぐ分かった。


 しかし、切紙きりがみすら貰っていない半人前であるはずの光一郎は、そんな皆伝者の研ぎ澄まされた太刀筋を軽々とあしらい、なおかつ反撃すら仕掛けていた。


 輝秀がいかに嵐のごとき速さと鋭さで剣を放とうとも、その太刀筋の中にあるほんの微かな弱所を正確に突き、剣技そのものを強制的に終わらせ、そこから流れるように攻めに転じる。どこまでも自然で、どこまでも正確な剣腕。


 今のところ、まだ輝秀は一撃も食らわずに済んでいるが、それもいつまでもつか分からない。


 そして秋津光一郎は、反撃が浴びせられるようになったからといって、浮かれた様子は一切見せていない。


 ただただ、追いかけ続けるのみ。


 己の剣を勝利に導いてくれる、己にしか見えぬ蜻蛉勝ち虫を。


 他のせがれ二人に目を向ける。


 寂尊じゃくそんもやや目を見開いて驚愕を見せていたものの、唯明に比べると落ち着いていた。……そもそも光一郎を「危険が匂いがする」と最初に言っていたのは寂尊だ。その勘は正しかった。


 雷蔵らいぞうはというと、


「なんなのだ、これは……!! あのような未熟者が、『至剣』を得るなど……許されるのか…………!?」


 眉間のしわを増やし、歯を食いしばりながら、大きく見開かれた目で光一郎を凝視していた。驚愕だけでなく、怒りも感じている様子だった。


 ——唯明も、そんなふうに憤る次男の気持ちが分かった。


 情報によると、秋津光一郎が至剣流を本格的に学び始めたのは、一ヶ月ほど前だそうだ。


 武芸者として稀代の才覚を誇る望月螢もちづきほたるでさえ、『至剣』を得るまで三年かかったのだ。


 それを、あの少年は、一ヶ月で。


 そこまで来ると、もはや天才とか天恵とかといった言葉でさえ適当ではない。


 これは——『至剣』に対する侮辱。


 長年の研鑽の果てに、ようやく開眼できる『至剣』。

 嘉戸宗家が伝承を改変してでも、自分達だけの付加価値にしておきたかった『至剣』。

 秋津光一郎という少年は、生きて呼吸をしているだけで、その『至剣』を「児戯じぎ」だと嘲笑っている。


 輝秀のあの憤りようも、そこに起因するものなのだろう。


「……偉大なる祖先にして開祖、至剣斎しけんさいどの」


 唯明の口が、我知らず独り言を呟く。


「これは……我々への報いなのですか…………流派の隆盛のために正伝を捻じ曲げた、我々嘉戸一族への……」










「くくくくくっ………………ぎゃ——っははははははははははっ!!」


 香坂伊織こうさかいおりは呵呵大笑した。


「おいおいおいおい、やべぇ、マジかよ!? 嘘だろおい!? とんでもねぇことしちまったぞあのおチビ! ふはははははっ!!」


 思わず右腕の怪我を忘れて手を叩いてしまうくらい、面白かった。叩き合わせた時の痛みから怪我を強制的に思い出し、伊織は顔をしかめる。


 もう形勢不可逆なはずだった。


 切紙以下のボロ雑巾が、無傷な皆伝者に勝つなど、不可能なはずだった。


 だが、その不可能が今、覆った。


 少年が起こした「奇跡」によって。


 この状況をどうにかできている時点で、光一郎が今使っている技が『至剣』であることは確定だ。


 至剣流剣士の行きつく先。己だけの最強剣技。それが『至剣』だ。


 最速で『至剣』を会得した至剣流門人は望月螢だったが、その記録が今、更新された。


 自分は今、「伝説」を目の当たりにしている。


「…………太っ腹なこった、嘉戸至剣斎どの。嘉戸宗家と至剣流を嫌悪していた俺に、こんなスゲェもん見せてくれるなんてよ」







「…………すごい」


 望月螢は、うわごとのように呟いた。


 輝秀と互角に渡り合い、そしていよいよ押し返しそうになっている、光一郎の姿。


 剣技に精通している身であるなら、一目で「神技」と分かる太刀筋を、まるで息をするように繰り返している。


 輝秀も負けじと技を繰り出すが、光一郎の勢いは少しも揺らがない。


 押し切られるのは、時間の問題といえた。


「コウっ……!」


 エカテリーナが両手を握り合わせ、目を輝かせる。


「頑張って……勝ってっ……!」


 懸命に祈り始める彼女だが、螢はそのような願いをしなかった。


 からだ。


 この勝負——光一郎が勝つ。


 螢の長年の勘が、それを確信していた。


 彼にだけ視える蜻蛉勝ち虫が描く、「

 そこに剣を通わせることで、その剣に「必勝」を付与する剣技。

 それが、光一郎の『至剣』の正体だ。


 『蜻蛉剣せいれいけん』——名付けるならば、そんなところか。


 『級長戸辺ノ太刀しなとべのたち』は高度な目眩しだが、やはりただの目眩しに過ぎないため、『蜻蛉剣』とは明らかに相性が悪い。


 どんな狡知も、『蜻蛉剣』の前では、全く意味をなさないだろう。


 脇目も振らず、ただ「必勝」へ向かって、どこまでも愚直に駆け抜けるのみ。


 秋津光一郎という少年の生き様を現したような、剣。


「……すごく、綺麗」


 我知らず、そう呟く螢。


 心音が、一瞬、熱く跳ねた。















 勝負はまだ続いていた。


 光一郎はなおも、金の蜻蛉を追いかけていた。


 勝利を追いかけていた。


 四肢にへばりつく疲労や痛みも忘れ、一心不乱に。


 その過程で輝秀の剣をいなし、反撃を加えることなど、もはや二の次といえた。


「くそっ!? このっ!! くそぉぉぉっ!!」


 手加減無しに剣技を発してくる輝秀。


 しかしもはやその勢いは衰えていた。


 剣技をさばき、反撃に発した光一郎の太刀筋が、輝秀の体をかすめることが多くなっていた。


 直撃が増えるのは時間の問題といえた。


 光一郎は、己の勝利を疑っていなかった。


 輝秀はもはや「敵」ではなかった。


 単なる「通過点」に過ぎなくなっていた。


 この勝負などより、はるか先……いつか来る螢との再戦に思いを馳せていた。


 勝って、勝って、勝ち続けた果てにある、己の恋の成就を。


 ——勝つ。

 ——勝って、先に進む。

 ——その先でもまた勝って、また勝って。

 

 そしていつか————


「おのれぇっ!! 侮辱もいい加減にしろぉっ!!」


 『迦楼羅かるらけん』を避けられた輝秀が、光一郎を憎悪の眼差しで捉え続けながら、次の技へと移行する。


「『至剣』は我らが至剣流の最高奥義!! 正しい階梯を正しく登った果てにある剣の極地なのだ!! 貴様のように四つしか型を使えん半端者に、振るう資格などないのだっ!!」


 しかし、当たらない。


「貴様は至剣流の汚点だ!! 存在そのものが、至剣流への侮辱なのだ!!」


 防ぎ、躱し、さばき、


「殺してやる!! 至剣流宗家である俺がこの手で、貴様の存在を抹消して——がっ!?」


 


 光一郎の木刀の切っ尖は、輝秀の肋骨の隙間に喰らいついていた。


 怯む輝秀。


 途端、金の蜻蛉が、突然荒ぶった動きを見せた。


 わけも考えず、無心でそれを追いかける光一郎の剣。


「ごっ!? が!? ぐほぉっ!?」


 その過程で、輝秀が光一郎の攻撃を何度も受ける。


「ぐぁっ!? ぎっ!? がぁっ!? ぐぅっ!?」


 ようやくまともな攻撃を浴びせたが、光一郎はそれにさしたる感動も抱かなかった。


「ぐっ、が、あぐっ、うぐっ、がふっ、ごぉ!?」


 ただ、蜻蛉を追いかけるのみ。

 

「————なめるなぁぁぁっ!!」


 金の蜻蛉が大きく後退。光一郎の剣も体ごと大きく後退。


 直前まで光一郎がいた位置を、大きく疾く振り下ろされた『迦楼羅剣』が飲み込んだ。


 遠間を取った二人。


 顔面に痣を作った輝秀が、端が切れて血の出た口で、憎々しげに言った。


「よくもやってくれたなぁっ……!! お前だけは許さん…………絶対に殺してやる……!!」


 光一郎はやはり聞く耳を持たない。ただ、己の剣尖に留まった金の蜻蛉を見つめるばかり。


「……あっ」


 だが、光一郎の足腰から力が抜け、片膝が地に付いた。


 立とうと踏ん張っても、なかなか腰が上がらず、またドスンと落ちた。


 両脚が、震えていた。


 体力の限界を無視して動き回り続けたツケが、今になってやってきたのだ。


 輝秀が、痣のついた優男の容貌を妖怪のように破顔させた。


「体は正直みたいだねぇ、秋津光一郎。やはりそうだ。お前などにとって、『至剣』は過ぎた力だ。言うなれば、お前は『至剣』を振り回していたのではなく、んだよ。……やはり、お前は半端者だ。俺達皆伝者には及ばない」


 言うと、輝秀は歩み出した。それと同時にその姿が煙のごとく像を崩した。


 『級長戸辺ノ太刀しなとべのたち』。


 疲労という桎梏しっこくによって移動の自由がきかなくなった光一郎に、目眩しの『至剣』でとどめを刺そうという腹づもりであった。


 先の読めない太刀筋。光一郎はうまく動けない。


 こんな状況下では、満足な防御など出来るはずもない。


 けれど、光一郎の『至剣』は、未だ健在だった。


 金の蜻蛉は、なおも光一郎の剣尖を止まり木としている。


 まだ、勝負は終わっていない。


 煙の剣士が、加速した。


 光一郎を己の間合いへと納めた瞬間、その煙の太刀を振り下ろしてきた。


 鋭く迫る煙刀は、ボワボワとあちこちに揺れて拡散して不定形で、軸が感じられない。全く読めない。


 だが、金の蜻蛉は全く惑わず、上へ飛び立った。


 光一郎の剣尖もそれに追随した。




 かんっ!




 そんな快音が響いた瞬間、煙の剣士とその剣が、姿


「なにっ……!?」


 輝秀は、信じられないものを見るような目をして、光一郎の木刀を凝視していた。


 光一郎は、振り下ろされた木刀の刃の部分に、己の切っ尖をピンポイントでぶつけて、跳ね返したのだ。


 極限の状況の中での、神がかった防御。


 輝秀は木刀を上へ弾かれ、それに腕を引かれて、胴体を曝け出していた。


 刹那——金の蜻蛉が、力強くはねを震わせた。


 剣尖から急降下し低空飛行。そこからきつく弧を描くようにして上昇していき、輝秀の顎へ真下から急迫。


 光一郎は最後の力を振り絞り、剣尖でそれを追いかけ、




 思いっきり打ち上げた。




 勢いよく天井を仰ぎ、足を小さく浮き上がらせる輝秀。


 着地した瞬間、その足は床を踏みしめることなくふにゃりと力を抜き、そして派手に倒れた。


 仰向けのまま、微動だにしない輝秀。


 倒れた音が、大稽古場になおもこだまし続ける。


 反響が止まった後、水を打ったような沈黙がしばらく続いた。


 全員、その状況を分かっていても、それを受け入れることに心理的抵抗を持っていたからだ。


 ——光一郎が、輝秀を倒した。


 見習い剣士が、免許皆伝者を剣で打ち負かした。


 手加減無しの勝負で、勝った。


 まだ四つしか型を練っていない剣士が、『至剣』を使い、勝利を納めた。


 目で見て理解していても、あまりにも現実感が薄く、現実と承認するには抵抗があった。


 しかし、そんな「しばらく」の間も、輝秀はいっさい無反応だった。……失神していた。


 それが全てを物語っていた。


 やがて、




「勝負あり!! 勝者は————秋津光一郎!! そして、『望月派』だ!!」




 伊織が立会人として、この三本勝負の勝者を告げた。


 それを聞いた光一郎は、足腰と、剣を握る手の力をどっと緩めた。


「……勝った、の」


 今更ながら、光一郎は己のしてみせたことに、驚愕を覚えていた。


 だが、それ以上に、とてつもない安堵感、そして達成感を覚えていた。


 伊織が歩み寄り、光一郎の肩へ左手でそっと置き、ねぎらうように微笑んだ。


「ああ。お前の勝ちだよ、トンボ小僧」


「香坂さん……」


「よく頑張ったな。……お前、マジですげぇよ。心の底から尊敬する」


 ぼんやりとそのねぎらいの言葉を聞きながら、光一郎はふと、木刀へ目を向けた。


 剣尖には、もうあの金の蜻蛉はいなかった。


「……ありがとう」


 光一郎がそう静かに感謝を告げた瞬間、


「コ————ウっ!!」


「いってぇ——!?」


 まるでラグビーのタックルのように飛び込んできたエカテリーナに抱きつかれ、散々打ち据えられた全身が痛みを訴えた。


「ばかーっ!! あんたほんっっっとにばかーっ!!」


「いててててて痛い痛いエカっぺ痛いんですけどぉっ!?」


「でも良かった!! よかったよぉぉっ!! もぉぉっ、コウのばかばか大ばか————っ!!」


「だだだだだだだだだ!?」


 嬉しさで泣き出すエカテリーナだが、光一郎は抱き締められた激痛で泣きそうになる。


 そこへ螢が出てきて、エカテリーナの両肩を持ってあっさり引っぺがした。


「ちょっ、なにするのよっ?」


「コウ君が痛がってる」


 入れ替わる形で螢が光一郎の前に立ち、しゃがみ込んで、その痣と血まみれの顔をそっと胸に抱き寄せた。


「え……」


 予想外の出来事に、光一郎の思考が止まる。


 螢は弟弟子の後ろ頭へ手を回し、さらさらと優しく撫でた。


「ちょっ、あんたねぇ!?」


 エカテリーナが抗議の声をあげるが、構わず螢は光一郎を撫で続ける。


 光一郎は恥ずかしさやら嬉しさやらで赤くなる。血の巡りが速くなり、鼻血の量が少し増えた。


「その、だめ……ですよ、ほたるさん」


「嫌なの?」


「い、いやじゃ、ないですけど……鼻血とか、付いちゃいますよ。制服に」


「換えがあと二着あるから大丈夫。それよりも、今は、頑張った良い子を褒めてあげるのが第一」


 螢はなおも柔和に撫でる。まるで息子を褒める母親のように。


(…………牛乳みたいな、いい匂いがする…………これだけでも、頑張って正解だったんじゃないかな……)


 照れを通り越し、心身を弛緩しかんさせた光一郎は、夢見心地を堪能していた。


 比べるのは極めて失礼だが、エカテリーナに比べてかなり薄い胸だ。しかし、それでも暖かい体温と、落ち着いた鼓動、ミルクっぽい体臭が、光一郎の心を安らがせた。


 今なら、背中に手を回してぎゅーってするくらいなら、許されるんじゃないか——緩みかけた思考の中でそんな不埒な発想が生まれ、光一郎はその赴くままに己の両腕を動かしかけた。


 だが、光一郎はそこで大事なことを思い出し、勢いよく顔を上げた。


「螢さん……まだです。まだ、やることがあります」


「やること?」


「はい。望月先生の、ご容体を……見に行か、ない……と」


 そこで、光一郎は、強い眠気を覚えた。


 体と意識が、地の底へ沈んでいくような感覚。


「おいっ?」

「コウっ!?」

「コウ君!」


 だが、その沈んでいく感覚はとても心地良く、光一郎は抵抗もせず、あっさりと心身を闇の奥へ委ねたのだった。




>>>>>>>>>>>>>>>>>



 次回完結予定。


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