秋津
ああ。
もう、ここで終わりなんだ。
僕の剣の道も。
僕の恋路も。
この無駄に広い稽古場の中で、断たれるんだ。
全部、終わるんだ。
——悔しいなぁ。
悔しくない。
仕方がないことなんだ。
だって、僕じゃ、
まして、もうこんなにボロボロ。輝秀はあんなにピンピンしてる。
そう。これはもう仕方がないんだ。覆しようがないんだ。
——勝ちたいなぁ。
うるさい。
もう、どうしようもないんだよ。
みっともなく勝負にしがみついたって、結果は変わらないんだ。
——
黙れ。
——さっきから泣いてるエカっぺを、笑わせたいなぁ。
無理なんだよ。
——
大人になれ。
——螢さんを、悲しませたくないなぁ。
いいかげんにしろ。
無理だって言ってるだろ。
聞き入れろよ、受け入れろよ、現実を。
——無理して大人ぶるなよ。
——いったん現実ってやつに目をつぶってさ、本音を言ってみなよ。
——君も、本当はそう思ってるんだろう?
——負けたくない、って思ってるんだろ? 勝ちたいんだろ?
……負けたくないか、勝ちたいか、だって?
そんなの当たり前だ。
こんな終わり方は嫌だ。
こんな負け方は嫌だ。
勝ちたい。
勝って、螢さんの大事なモノを守りたい。
勝って、これからも僕は螢さんを追いかけていたい。
勝って…………先に進みたい!
——うん。知ってた。
——だって、僕は君なんだから。
——よく正直に言えました。
——だから、導いてあげるよ。
その時。
僕の木刀の切っ尖に——
暗闇で光るホタルのように、優しく、しかし己の存在をしっかりと示すように輝く、金色のオニヤンマ。
もう十月も半ばなはずなので、蜻蛉はほとんど見られない。
まして、金色の蜻蛉なんて、見たことが無い。
しかし、その金の蜻蛉は、確かにいた。
僕の切っ尖に留まり、翅を休めているのが、確かに見える。
ふと、僕の脳裏に、ある情景が思い出された。
それは、昨夜に見た夢。——僕が金色の蜻蛉となり、数多くの武人の刃の中を駆け抜ける夢。
金の蜻蛉が、
離れていく。僕の剣から。
どうしてだろう。
僕は——その金の蜻蛉を、切っ尖に留めておかなければならない気がした。
真上へ昇っていく金の蜻蛉を、木刀の切っ尖で追いかける。そのために自然と腰が持ち上がる。
左上へ軌道を変える。僕の剣もそれを追う。
金の蜻蛉は、ようやく切っ尖に留まってくれた。
それと同時に。
僕の木刀が、輝秀の振り下ろした一太刀を弾いていた。
「……は?」
その呆けた声は、輝秀のものだった。
呆けた声通り、呆気にとられた顔をしていた。
しかし、僕の関心は、ひたすら金の蜻蛉に向いていた。
金の蜻蛉が再び切っ尖から飛び立つ。今度は右へ向かった。
僕も剣の動きをそれを伴わせる。足が自然と動く。
少しすると、輝秀の放った『石火』の太刀が、直前まで僕がいた位置を斬った。
金の蜻蛉が輝秀めがけて突き進む。
僕の剣も突き進む。
輝秀は慌てて顔を傾かせるが、少しだけ遅かったようで、左頬を僕の切っ尖が
輝秀は数歩後退する。
「……この死に損ないが」
唾を吐くように言うと、輝秀は自身の像を煙のごとく崩壊させた。
『
剣士としての僕の唯一の取り柄である「眼力」が全く通用しない、最強の目眩しの剣。
しかし、それを前にしてもなお……僕の意識は、剣尖を止まり木としている金の蜻蛉に集中していた。
金の蜻蛉が、飛び立った。輝秀へ向かって突き進みながら、小刻みに、無茶苦茶にその軌道を変化させる。
僕は何も考えず、金の蜻蛉が描くヘンテコな軌道を切っ尖でひたすらなぞった。
煙の剣と、蜻蛉の剣が近づき、
ぶつかった。
「な——!?」
そうこぼした輝秀の驚き顔は、『天狗男』の証拠映像を突きつけられた時の、何倍もの驚愕を露わにしていた。
むべなるかな。
——防御不可能、予測不可能であるはずの『級長戸辺ノ太刀』を、受けられてしまったのだから。
あの剣技に散々叩きのめされた僕とて、驚くべきなのかもしれない。
けれど、僕は不思議と、全く驚いていなかった。
ただ、金の蜻蛉を追うのに夢中だった。
僕の剣を勝利へと導いてくれる、金色の「勝ち虫」に。
「————
輝秀が怒気を燃やし、剣を振るってくる。
僕は、金の蜻蛉を剣で追いかける。
両者の剣戟は、どちらも押し負けることなく拮抗していた。
最初はマグレかと思った。
輝秀が振り下ろした一太刀。木刀の中で最も力の働いていない剣の腹を、光一郎は打った。それによって弾いた。
苦し紛れに木刀を振り回していても、こういう幸運はある。
しかし、その幸運が三度も続いた。
輝秀が『石火』を放つ寸前、光一郎がその間合いから後退し、逃れた。
さらにその後生じたわずかな隙を、顔面を狙った刺突で埋めてきた。満身創痍に似合わぬその機敏さと的確さに驚いた輝秀は、つい反応が少し遅れ、頬を
その幸運の三連続を、輝秀は「己の油断のせい」と判断。
光一郎は
であれば、読まれない技……『級長戸辺ノ太刀』を使えばいい。
輝秀は己の『至剣』で、光一郎を迎え打とうとした。
しかし、打てなかった。
——また、受けられた。
受けられるはずのない剣技を、受けたのである。
長兄の寂尊ですら出来ないことを、この子供はやったのだ。
それが何よりの異常事態だった。
「————
己の『至剣』を虚仮にされた怒りと、そして焦りから、輝秀は手加減無しで剣を振るった。
肉体の知っている型を、これでもかと吐き出した。
しかし、光一郎はそれに押し潰されることなく、全て受けていた。
放たれる剣技の数々。個々の太刀筋の中で最も弱い部分を正確に打って剣の軌道をズラしたり、即座に死角へ移動して逃れたり。
「くそっ!! 何故だ!? 何故当たらないんだ!?」
あまりにも正確過ぎる動き、太刀筋。
勢いは決して激しくはない。しかし、その場その場における輝秀の動きや構えの「弱所」を極めて精密に突いてくる。
それを、もはや倒れる寸前である人間が行っている。
あり得ない。
「なんなんだお前は!? ボロ雑巾の分際でっ、こんなっ——!!」
輝秀の火を吹くような問いかけに、光一郎は無言。
ただただ淡々と、剣を振り続ける。
いや、そもそもこの子供は——輝秀を全く見ていなかった。
ただただ、己の切っ尖ばかりを見つめていた。
その切っ尖で何かを捕まえようとしているような、必死でありつつも、どこか遊びのある剣さばき。
まるで、虫取り網で羽虫を捕まえようとしている子供を連想させた。
そんな剣法に、長年鍛え上げてきた己の剣技が押されていることに、輝秀はどうしようもないくらい激した。
『
両手で木刀を構えた光一郎は、弾き飛ばされた。
たたらを踏むが、しかし倒れず、立ったままで持ち直した。
輝秀は荒くなった呼吸を整え、気を沈める。
距離を取れた——そのことに安心してしまっている自分に、心底腹が立った。
光一郎は、今にも眠ってしまいそうなほど細められた、しかしその奥底にしっかりと光を持った眼で、やはり己の切っ尖を見つめていた。
そこには、何もいなかった。
「お前は一体…………何を見ているんだ!?
僕の切っ尖には、まだ金の蜻蛉は留まっていた。
「……そうか。あんたには……見えないのか、
輝秀が呆然と「とん、ぼ……?」とそらんじる。
「そうだよ。……ここにいる金の蜻蛉が、全て、教えてくれるんだ。どういうふうに剣を振れば勝てるのかを。この蜻蛉を剣で追いかけている限り、僕は永遠にあんたには負けない。きっと、勝てる」
僕は息を吸い、訂正した。
「いや。違うな。……絶対に、勝つ」
金の蜻蛉は、まだ動かない。
蜻蛉が動かない限り、僕も一切動かない。
それが、「勝利への道」であるから。
信じられない、と輝秀は思った。
——光一郎にだけ見える、蜻蛉。
——その蜻蛉が導く、刻むべき太刀筋の最適解。
——光一郎にしか見えぬ、勝利への道標。
それはもはや、単なる幻覚ではない。
「光一郎を勝たせる」という意味を持った、幻覚。
ただの
光一郎にのみ行使を許された、権能。
光一郎にしか使えぬ技。
「…………まさか」
あり得ない。
「まさか……貴様っ…………!!」
あり得てはいけない。
「馬鹿なっ、そんなはずがないっ…………そんなわけがあるかっ!!」
しかし、目の前の現実は、輝秀の逃避を許さない。
江戸初期から四百年近くの歴史を誇る至剣流剣術。
その歴史を、根底から大きく揺るがす存在が、目の前にいた。
「お前みたいな半端者が————『至剣』を開眼させたなどっ!!」
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完結まで残り二話の予定。
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