構え、そして型
——おそらく、造築されて、半世紀以上は経過しているのかもしれない。
度重なる
湿気や寒気に幾度もさらされて黒く変色した壁板や天井。
そこは、小さな稽古場だった。
探せばすぐ見つかる小さな町道場に比べても、さらに狭い。
おそらく、ここで満足に木刀を振り回せる人数は十人くらいが限界だろう。
しかし、ここに一度入ると、軽々しく「せっま」とは言えない。そんな積年の風格を感じさせる、武の空間。
——そんな稽古場のど真ん中で、僕は正眼の構えを取っていた。
「
大地奥深くまで根を張る気持ちで、足指で床を噛む。
視線も、意識も、構えた刀の切っ尖とその向こう側へと集中させる。
——すでに二十分は、その構えを維持したまま静止している。
稽古場にある窓全てが全開され、午前の柔らかい日差しが差し込み、涼風が行き来している。
すでに秋に片足を突っ込んでいるため涼しい稽古場だが、濃紺色の僕の稽古着はすでに汗をたくさん吸っている。
床ごと地を噛み続ける両足も、教えられた握り方で柄を握り続ける両手も、疲労でだるい。
おまけに、構えているのは木刀ではなく、刀身を剥き出しにした本物の日本刀だった。
そうやって、しばらく同じ姿勢で立ち続けているうちに、奇妙な感覚が体の内側に生じていた。
足裏から頭のてっぺんにかけて、何か「芯」みたいなものが貫通しているような感覚。
最初は筋力にモノを言わせて握っていた刀も、手がキツくなってくるにつれて、だんだんと最低限の力だけで握る方法が分かってくる。
全身を燃やす疲労感と、そんな謎の身体感覚を両方味わいながら、さらに十分ほどが経過。
「——よし、やめ!」
そこでようやく、望月先生から「やめ」をいただけた。
僕は大きく一息ついて正眼の構えを解き、望月先生から受け取った鞘におそるおそる納刀した。……いまだに日本刀の扱いには慣れない。
「やはり家でもきちんと稽古していたようだな。早くも構えが出来上がってきておる。さ、少し休め。汗を拭いて水を飲んでおけよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
師からの労いに力無い口調で返事をしてから、僕は稽古場の端へのろのろと歩き、座り込んだ。
置いてあるタオルで汗をぬぐい、大きめの水筒のカップに中の冷茶を注いで一杯飲む。
体の中で燃えていた熱気が冷却されていく感覚を噛み締めながら、稽古場を流通する涼風に身を捧げた。
涼しい小休止を堪能しながら、僕は改めて確認するように望月先生に問うた。
「「構え」の刷り込み——でしたっけ。この稽古の意味は」
我が師は「そうだ」と重々しく頷いた。
「至剣流にはさまざまな構えがある。構えとは、防御であり、気勢であり、そして次の技のための準備である。どの構えにも、その姿勢や剣の向きに応じた機能性が備わっていて、どれ一つとして侮ることはできぬ。……ゆえに、一つの構えのまま何十分と維持し続け、その形を体に徹底的に覚え込ませる」
そう。たとえ楽そうに見える正眼の構えでも、何十分とその体勢を維持し続けていれば、流石に疲れるし全身がキツくなってくる。
それが狙いだ。
人間、苦痛を伴って覚えたことは忘れにくくなる。良くも悪くも。
苦痛とともに「構え」を維持することで、その形を体に、神経に染み込ませる。
反射的に「構え」が取れるくらいにまで。
「それだけではないぞ。剣を振るための筋骨を作り上げるためでもある。無駄な力を使わず、必要最低限の筋力で振ってこそ、剣は速く、なめらかに、鋭く動く。……我が国の剣術は、手に持った剣を筋力で
キツくなってくると、どういう筋肉だけをどの程度使えば労力を必要最低限にできるのかが、自然と分かるようになってくる。体がおのずとそう誘導する。
肉体とは怠ける、楽をすることが好きだ。
これは決して悪癖ではない。生存本能だ。楽をすることが、体の負担を減らし、生きる力をセーブすることにつながるからだ。
それを利用し、最も負担にかからない力加減に、自身を誘導していく。
その状態こそが、望月先生のおっしゃる「剣を振るうための筋骨」である。
筋力を高めれば、剣の力が強くなるわけではない。
むしろ、筋力任せでは力のベクトルが散逸してしまう。
殴れば重々しい痛みを与えられるが、それは「重い」ではなく「鈍い」だ。重量と勢いは大きくとも、力の流れは常にブレていて、遅い。
剣術における「重い」は、そういうものではない。もっと速く、なめらかで、力が研ぎ澄まされて鋭いものだ。
そういう「重い」で振るからこそ、日本刀という武器は初めて最高峰の刃となる。
それを実現するためには、無駄な力を無くし、最低限の力で振る必要がある。
「構えの長時間維持」という鍛錬法は、そのための筋骨を作り、なおかつそれを体に覚え込ませるためのものだ。
——必要な力だけで刀を振るには、必要な力だけで刀を握れるようにならなければならない。
「満足に止まっていられない者は、満足に動き回ることもできん。「静」がしっかりしてこそ「動」もしっかりする。……どうだ? なかなかに地味でキツかろう? 特にお前さんみたいな動き回りたい盛りの小僧ならなおのこと」
望月先生がいたずら小僧みたいな笑みを浮かべて言う。……カイゼル髭の似合う厳かな顔つきに反し、よく笑う人であることは、彼のもとで稽古を始めてからすぐに分かった。
「はい。でも……至剣流を身につけるには、必要なんでしょう?」
であるならば、こんな地味でキツい稽古でも、続ける理由としては十分だ。
それに、この稽古はきっと、
ここすら通過出来ないようでは、彼女に勝つなんてきっと無理だ。
「そうだな。それにお前さんも、随分と熱心にやっているようだ。……構えの稽古、家でも毎日やっているんだろう? 立ち方を見てすぐに分かったぞ」
「あ、ありがとうございます」
善行を積む幼子を見るような目で見てくる先生に、僕は曖昧に笑う。
「さて、そろそろ稽古を再開しよう。次は「
「はいっ」
僕は立ち上がり、稽古に戻った。
もう三十分「裏剣の構え」をやったら、少し長めの休憩。
それからまた、別の稽古を再開した。
——型の稽古だ。
左右からやってくる望月先生の木刀を、僕は自分の木刀でさばいていく。……目の前に大きな球があることを仮想し、その仮想の球を内側から刃で削るような太刀筋で。それでいて、切っ尖は常に先生へ向け続ける。
八太刀目を受けた瞬間、ずっと先生を向いていた木刀の切っ尖をすかさず走らせ、望月先生の喉元近くで寸止め。
——そこで、『
今までで一番上手く出来たと思ったが、やはり我が師は厳しい。
「まだ力が余計に入っている。『綿中針』で大切なのは柔と剛の
「は、はい……」
少しヘコむが、それでも気持ちを切り替え、再び『綿中針』の稽古へと戻った。
何度も、何度も、何度も、同じ型を繰り返し、三十分経ったら小休止。
汗を拭き、冷たいお茶を飲んで体を休めてから——今度は『
打太刀は先生。仕太刀は僕。
双方正眼に構え、互いの切っ尖を触れ合わせる。
先生が上段から、僕の木刀へ向かって振り下ろす。
僕は大きく右足ごと木刀を引っ込め、「裏剣の構え」を取る。先生の振り下ろしは目標を失って空を切った。
先生の木刀が下段にあるうちに、僕は木刀を思いっきり振り上げてから、右足で大きく前へ踏み込んで振り下ろした。
先生は頭上に並行に木刀を構えた「鳥居受け」の状態になり、僕の振り下ろしを受け止めた。かぁん! という快音。
そこから
——そこで『波濤』の構えは終わり。
今回は良い出来だという自己評価を抱く僕だが、先生の見方はやはり違った。
「振り上げと振り下ろし、これらの力の流れに途切れが生まれている。思いっきり振り上げ、大きく踏み込んで振り下ろす……これら一つ一つはしっかりできていたが、それら二つが「二拍子」になっている。力の流れが二つの境目で途切れてしまっているのだ。それら二つの動きを、途切れの無い一つの流れとするのだ。そうすれば「振り上げる力」と「重心を前へ倒す力」が合一され、高い威力を発揮する。二段ロケットと同じ原理だ」
「は、はい」
僕はまたしても落胆するが、それでもすぐに気を取り直して型稽古を再開する。
繰り返し、繰り返し、繰り返し、やがて再度の休憩。
僕は道場の壁に背を預けて座り込み、休憩していた。
「どうだ、コウ坊? 少しは慣れたか?」
先生が歩み寄り、そう訊いてくる。先ほどまでの厳かな雰囲気は鳴りを
「はい……でも、なんだろう、四つの型ばっかり稽古してるような……」
『
これら四つの型しか、弟子入りしてから教わっていない。
今日でまだ三日目と日数が少ないから、気のせいかもしれないが。
「そうだ。これから当分、その四つの型だけを学んでもらうからな」
「他の型は?」
「一切やらん」
唖然とする僕。型が四つだけなんて、あまりにも心許ないのでは……
僕の疑問を読み取ったであろう望月先生は、理由を説明してくれた。
「『石火』『旋風』『波濤』『綿中針』——これらは至剣流において『
「しほう、けん?」
「そうだ。至剣流は多くの型を有しているが、この『四宝剣』はそれら全ての根幹を成すものだ。これを何度も稽古して盤石な根幹を築いたか否かで、至剣流剣士としての将来が決まると言っても過言ではない」
——知らなかった。学校の剣術科目では教わらなかったから。
おそらく、道場に入った人にだけ教えることなのだろう。
道場の経営戦略的な意味とか、そういうのが絡んでいるのかもしれない。……道場に通うためのメリットみたいなものが無いと人が集まらないのだろう。道場経営もやっぱりビジネスだから、それだと困るわけか。
……ってあれ? 僕、月謝とか要求されてたっけ?
「昔はこの『四宝剣』だけで四年はやらされたものだぞ? 少なくともわしはそうだった」
「望月さん……娘さんは?」
「あの子は二年だ。わしなどよりずっと才能豊かな子だからのう。あっという間に『四宝剣』を練り上げ、そこから全ての型を習得し、磨き上げ、二年後には『至剣』を得て皆伝だ」
はぇー、と僕は感嘆の声を漏らす。やっぱりすごいなぁ。
「ところで、望月先生……月謝とかは、いくらになりますか?」
先ほど湧いた疑問を問うと、先生はさらっと、
「いらん」
「冗談でしょう?」
「ではない。うちは金に一切不自由してはおらんし、剣で商売をする気もない。お前さんに教えているのはあくまで軍を去った後の隠居生活の一貫だ。言ったであろう? 暇を持て余していたと。……あえて言うなら、こうして暇な時間を有益に使わせてもらっているだけでも、わしにとっては十分過ぎる報酬だよ」
先生はその山のような巨躯をしゃがませ、僕の肩を優しく叩いた。
「だから、安心して稽古に励め。お前さんが剣士として少しずつ成長していくのを見るのを、老後の楽しみにさせておくれ」
それを聞いて、僕は胸にじぃんとくるモノを覚え、その赴くまま「はいっ!!」と返事した。
——望月先生のもとでの稽古は、だいたいこんな感じである。
弟子入りが決まった翌日から、僕は早速望月家での稽古に出始めた。
稽古の日時は、毎週の土曜か日曜。つまり学校が休みの日だ。
場所は望月家の敷地内にある、この小さな稽古場。
今日は九月二十三日。日曜日。つまりここで稽古するのは今日で三日目ということになる。
望月先生のおっしゃっていたとおり、その稽古はひたすら地味で、なかなかにキツいものだった。
動き回りたい盛りの活発な子供であるなら、早々に投げ出してしまうかもしれない。
でも、僕は張り切って取り組む。
望月先生が、お金を取らずに、善意で僕に教えてくれるのだから。
何より——望月さんと同じ修行を、僕もやっているのだ。
それだけで、稽古への原動力としては十分過ぎた。
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