望月家、そして弟子入り《下》
ヘビに睨まれたカエルの心境でその場に立ち尽くしていると、望月閣下は自分の向かい側の座布団を手で示し、
「まぁ、座りなさい」
「は、はひ!」
緊張で笛みたいに細まった声で返事をすると、僕は油を差していない機械みたいなぎこちなさで座布団に正座した。
そこから、沈黙。
壁にかけられた時計の針の進む音だけが、この場の空気を揺さぶる。
重苦しい、沈黙。
……いかん。わざわざこちらから出向いたのに、何も喋らないでい続けるのは、失礼になるかもしれない。
でも、何から喋ったらいいのか。
考えて、手元にある紙袋の感触を思い出し、それだと思って前へ差し出した。
「あ、あの、こ、ここ、これをどうぞ! つ、つまらないものですが!?」
「これこれ。菓子折りを渡されるのは有難いが、まずは自己紹介をしてもらいたいな」
「す、す、すみませぬ! ぼ、僕は秋津光一郎です! よ、よろしく、お願いしましゅ!」
僕は慌ててまくしたてるように自己紹介をした。あと最後噛んだ。
望月閣下は「ありがとう」と菓子折りを受け取ると、苦笑混じりに言った。
「そんなに緊張しなくても良いではないか。こんな老いぼれ相手に」
「お、老いぼれだなんて! 望月閣下のご活躍は、かねてよりうかがっております! 十年前、南下してきたソ連軍を相手に完全勝利を収めた立役者だと——」
「——完全勝利などとんでもない」
突然、望月閣下の口調が変化した。
「我々はただ、運が良かっただけだ。対外プロパガンダの華やかなソ連像とは裏腹に、ソ連という国はもはや死に体だった。軍事力こそ合衆国に次ぐ勢力だったが、政権腐敗と身の丈に合わぬ軍拡一辺倒な政策ゆえに国内は疲弊し、もはや人民の心は共産党には無かった。だからこそソ連は容易く内部崩壊を起こし、我々帝国軍は勝ちを拾えたのだ。もしもソ連があと少しでも盤石だったなら、戦争はもっと長引いていたことだろう。……そして、戦争とは勝った後も安心は出来ぬ。十年かけてそれなりに経済復興は果たしたが、国内の貧富の差はまだ小さくなく、アメリカから借りたレンドリースの返済もまだ終わっていないのだ」
これまで通り落ち着いているが、その冷静な響きの中に、ほんの微かに非難のニュアンスを混ぜたような。
そんな口調でしばらく言い募ってから、絶句している僕を見て、すまなそうに笑った。
「すまなかったな、怒っているわけではないんだよ。何というかね、あの戦争の話になると、つい愚痴っぽくなってしまうんだよ。歳は取りたくないものだな。……報道は「勝利」という単純な事実のみを切り取って報じているが、当事者である我々にとっては犠牲を積み重ねて掴み取った勝利だ。犠牲者数は先の日露戦よりずっと少ないが、それでも少からぬ部下を失ってしまったことは変わらぬ」
言っていることはイマイチよく分からない。
だけど……少なくとも「完全勝利にあらず」ということは伝わってきた。痛いほどに。
当たり前だ。この人は僕みたいに教科書上やテレビの前のみで戦争と対した人間ではなく、実際に戦った人なのだから。当事者の言葉は、教師や報道関係者よりずっと重たい。
だから、僕がかけられる言葉は、一つだけだ。
「その……ありがとうございます」
「ぬ?」
「あなたが頑張って戦ってくれてなかったら、この国は無くなっていたかもしれません。僕も、今みたいに楽しく生きていられなかったでしょう。だからあなたは間違いなく……僕たち国民の恩人です。だから……ありがとうございます。望月閣下」
望月閣下はその鋭い瞳をかすかに見開き、それから柔和に表情を緩めた。
「……こちらこそ。君のような若者にそう言ってもらえたなら、戦った甲斐があった。部下達の死も浮かばれるというもの」
「はい……」
「ああ、それとね、わしはもう軍を去っているから、「閣下」はやめてくれんかな。今はこの通り、暇を持て余したただの
「では、何とお呼びすれば……?」
「——それをこれから決めるのだ」
言うと、目の前の名将は改まった態度となり、少し重さを増した口調で告げた。
「秋津くん。君がわしを訪ねてきた理由は、前もって螢からうかがっているよ。わしに弟子入りをしたいのだろう? それに関しては——わしは一向に構わぬよ。元々手持ち
「で、では——」
「ただし、これだけは言っておく。——君のその情熱は、徒労に終わるやもしれんぞ?」
え……どういう意味だ…………?
再び言葉を失った僕に、名将は淡々と説明する。
「君が剣を鍛えたい目的も承知している。螢を剣で打ち負かし、その腕の中に納めたいからだろう? だが、それは茨の道となる。……身贔屓を完全に差し引いても、あの子の剣才は別次元だ。七歳の頃に剣を握り、そこからたった四年で『至剣』を開眼させて皆伝を果たした。そんな異常な才覚を発揮した門人は、至剣流の歴史上一人もいなかった」
畳み掛けるように、説明は続いた。
「さらに教えてあげよう。仮にわしと螢が剣でやり合った場合——わしはきっと負ける」
「え……!?」
「わしが本物の至剣流の門戸を叩いたのは、二十代の頃だ。それからずっと、あの子よりもずっと長く、この至剣流と付き合ってきた。そのわしをして、たった九年しか至剣流との付き合いがないあの子にはきっと勝てない。——これだけ聞けば、あの子の強さのほどが分かるだろう?」
僕は思わず唾を飲む。
強い人だとは思っていたけど……まさかその師匠すらも、彼女には勝てないだなんて。
「君はあの子に勝たんと燃えている。しかし、それはもしかすると、生涯叶わないかもしれぬ。決して掴めぬ空の虹を老いさらばえるまで追い続け、やがて掴めぬまま果てるかもしれぬ。君の歩む剣の道は、そんな虹を追うがごとき「徒労」に終わるかもしれぬ。——そんな果てしない「徒労」に、己の終生を賭ける覚悟があるか?」
今までに無い冷厳な口調で、そんな現実を突きつけてくる。
そんな言葉に対し、僕は自分の思った事をそのまま口にした。
「——「徒労」には、決してならないと思います」
「何?」
「たとえ目指すものがあって「何か」を始めて、それに及ばないで終わってしまったとしても……それは「徒労」にはならないです。確かに、悔し涙を流すかもしれません。だけど、その時に培った「何か」は、きっと後の人生において、何らかの形で大きな助けになると、僕は思います。——僕は、それを知っています」
これまでの緊張ぶりが嘘みたいに、滑らかに言葉が出てくる。
「実は、僕は一週間ちょっと前……初めて、剣を使った喧嘩をしました。僕はまだ剣を握って一ヶ月、相手は
「切紙だとっ……格上も格上ではないかっ!? 何と馬鹿な喧嘩をした!?」
「あの場においては、仕方がなかったんです。でなければ、僕だって切紙剣士と喧嘩なんてしませんでした」
山のような老夫が叱りつけてくるが、不思議と僕は落ち着いて弁解する事ができた。
彼も、当事者ではないことを自覚しているためか、それ以上咎めることはしなかった。
「……たった一ヶ月の稽古で切紙剣士に挑むなど、無謀にも程がある。さぞ叩きのめされたことだろう?」
「いえ、勝ちました」
「なっ……」
「本当です。その時に助けになったのが……七歳の頃から熱中していた模写で鍛えた観察力だったんです。相手の動きをよく観察して、どういう動きをする時にどういう前兆を見せるのかを分析して、その上で動く。そうやって、僕はその切紙剣士に勝つことができました。——昔取った
そこまで聞いて、ようやく僕の言いたいことが分かったようで、その鋭い眼差しを緩めた。
「……なるほどな。これは一本取られたかもしれん」
「い、いえ、恐縮です」
「意地の悪い質問をして済まなかったな。だが、それくらいの気概を持って、わしに師事して欲しかったのだ。……何度も言うが、螢を超えることは並大抵の話ではないのだから」
僕は、初めて自分の口から、ここへ来た要件を訴えた。
「——僕に、至剣流を教えてくれませんか」
「……いいだろう。だが、わしの課す稽古は決して生易しくはないぞ。ひたすら地味で心身ともにきついものだ。それでもやるか?」
「それで、娘さんに少しでも近づけるのなら」
僕の答えを聞くと、目の前の偉丈夫は両膝をぱしっと叩き、鋭さのある顔つきに少年のような笑みを浮かべた。
「よし、これで新しい呼び方が決まったな。——コウ坊、わしの事はこれから「先生」と呼びなさい」
「は、はい! よろしくお願いします、望月先生!」
僕はテーブルから身を引き、両手を床に付いて平伏した。
それを合図にしたように、どこかへ退散していた望月さんが音もなく戻ってきた。
「男同士の話は終わり?」
「ん。すまん螢や、茶を淹れてはくれんか。わしと、この新しい弟子の分を。玉露で頼む」
「……もう」
ほんの少し不満げに眉をひそめると、望月さんはまた元来た方向へ戻ろうとした。
「あ、あの!!」
それを僕が呼び止めた。
望月さんは立ち止まり、黒髪を揺らして振り返る。
「これから、よろしくお願いします!」
僕は彼女にも平伏し、そう告げた。
望月さんは「……ん」と頷くと、今度こそ茶を淹れにその場を後にした。
こうして、僕の師匠がめでたく決まった。
それも、滅多にお目にかかれない、免許皆伝者の師匠である。
「弟子の準備が整った時、師は自ずと現れる」というチベットの格言があるが、これは本当だったようだ。
であるなら、この機会を決してないがしろにしてはならない。
——よーし。頑張るぞー。
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これから再び書き溜め書き溜め。
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