望月家、そして弟子入り《上》

 望月もちづきさんとの二度目の勝負の後、僕は警備員の人にメタメタに怒られた。


 次からは事前にアポイントメントを取った上で来い、今度あんな入り方をしたら君の学校に抗議するからな——言われたことを全て要約するとこんな感じだ。


 僕はその事を反省してから、すぐに昇天しそうなくらいの嬉しさを再び復活させた。


『本物の至剣流を学ぶ気があるのなら——ここに来て』


 その言葉とともに望月さんから渡されたメモ用紙。


 ——地図だった。


 最寄駅の名前が書かれた四角い印を始まりに、あみだくじのように大雑把な道順を記した、簡素な地図。


 しかし、僕の目にはその地図が、日本銀行券よりも高価なモノに映った。


 なぜならばこの地図は————の地図に他ならなかったからだ。


 彼女が紹介すると言ってくれた「良い師匠」。

 それは、彼女に剣を教えてくれた人物。

 すなわち——望月源悟郎げんごろう


 もはや今の日本人に知らない人はいないであろう、陸軍の英雄。

 日本中探しても数が圧倒的に少ない、至剣流免許皆伝者。

 何より……望月ほたるさんの義父にして剣の師。


 それが意味することは何か?


 ——望月さんの自宅の場所を教えられたに他ならない!!


 なんたる進展か。

 よもや二回目の勝負をして、想い人の実家の所在を教えてもらえるとは。

 それだけではない。望月さんのあの可愛い唇から「家に来ていい」と言われたのだ! 

 素晴らしき哉、我が人生!


 家に帰った後、僕は舞い上がった。

 神棚を自室に作って、そこにこのメモ用紙を御神体として納めようかと思ったり。

 興奮しすぎてなかなか寝付けず、翌日に寝不足になったり。

 それはもう、馬鹿みたいに。


 ——も、望月さんの家に行ったら、どうなっちゃうんだろう……!!


 も、ももももしかしたら、望月さんの部屋に入れてもらったり……!?

 望月さんの部屋かぁ……めっちゃ綺麗で片付いてて、すっごいいいにおいしそう。

 それでそれで、二人っきりでちょこんと隣り合わせに座って、いろいろ話をしてるうちにお互いの肩が触れ合ってお互いドキッとしちゃって……望月さんのあの綺麗な黒髪から甘い匂いがふわっと漂って……

 んでんで、そのまま甘ったるい空気にお互い流されるまま、マウストゥマウスで——




 落ち着けぇいっっっ!!!!




 不埒な思考の奔流ほんりゅうを、僕の心の中に住まう猛将の一喝が鎮める。

 何を考えているんだ僕は!! 目的を見失うんじゃあない!!

 僕は望月さんの師匠……すなわち望月源悟郎閣下かっかに弟子入りしに行くのだ!!

 だいいち、望月さんの気持ちを無視して、そ、そ、そんなえっちぃ事……まるで売り物の高級桜餅を無銭で盗み食いするがごとき暴挙だろう!! 

 それでも侍の子孫か秋津光一郎!? 廉恥れんちだ廉恥!!

 

 …………よし、クールダウン成功。


 まあ何にせよ、これから僕の師匠になるかもしれない人に、まして望月さんのお義父様に会いに行くのだとするなら……手ぶらというわけにはいくまい。何か菓子折りでも買って持って行こう。


 僕の部屋には、お母さん達も知らない高額なヘソクリが隠されている。小学校の頃、僕の絵を買いたいと言ってくれた人に売って得たお金だ。そこから出したお金で菓子折りを買った。










 そして現在——九月十五日。土曜日。休日。午前十一時。


 残暑はまだあるが、吹く風がすっかり涼しくなった、快晴の空の下。


 僕は菓子折りの入った紙袋を片手に、「そこ」に立っていた。


 メモの地図に書かれていた場所。つまり、望月さんの家。


 門の端の表札にも「望月」と刻印されている。


「はぇー……すごいなぁ……」


 僕は目の前に鎮座するその邸宅の威容に、思わずため息を漏らした。


 侍屋敷を思わせる、大きな家と敷地だった。


 木で出来た古めかしい正門の左右から背の高いさわら生垣いけがきが伸び、直角に曲がり、敷地を囲っている。門の軒の輪郭から、積年の風格を纏う二階建ての木造家屋の片鱗が伸びて見える。


 表札のすぐ下に、インターホンのボタンがある。


 屋敷の放つ威厳に僕は二の足を踏んだが、勇気を出してボタンを押した。


 ぴん、ぽーん、という愛想の無い電子音が鳴る。


 少し待って、ぶつっ、と回線が繋がるような音が聞こえ、続いて声が聞こえた。


『どなたでしょうか』


 電子化された声だが、この銀の鈴が鳴るような可憐な声は、間違いない。望月螢さんだ。


「ぼ、僕ですっ。秋津あきつ光一郎こういちろうです。その……この間の件で、来させていただきました」


『うん。ちょっとまってて』


 その手短な了解を最後に、電子音声は切れる。


 少し待つと、門の向こうからガラリと引き戸を開ける音が響き、さらに門の片方も開かれた。


「こんにちわ」


 銀鈴じみた声が今度は肉声で聴こえてきて、同時に声の主も門の隙間から姿を現した。


 望月さん。黒い絹帯みたいに綺麗な長い髪と、非常に整った無表情の美貌はそのままに、灰色の七分袖チュニックとハーフパンツ。ゆったりした薄手のチュニックに比べて、下はピッタリめで、なおかつ膝小僧から先の綺麗な白い肌が露出しており、ユルさと艶やかさを演出していて……


「可愛い……」


 私服姿の望月さん! なんたる眼福か! 絵に描きたい!


 ……って、やばい! 今僕口に出してた!?


 僕のスケベ心満載の呟きに、望月さんの黒い瞳が軽蔑で細められる——ことはなく。


「秋津くんも、おしゃれ」


 表情を変えず、ただ淡々とそう返してきた。


 ……前から思ってたけど、この人が表情を変えるところって、見た事ないよなぁ。


 ていうか、今のところ、僕に対する感情は、表情を変える必要の無い程度のものなんだろうなぁ。


 ……まぁでも、「おしゃれ」と言われたのだ。今はそれで良しとしよう。


 そう、僕は確かにいつもより「おしゃれ」をしてきたつもりだ。


 サイズに余裕のあるネイビーブルーのワイシャツに、ベージュ色のワイドパンツ。清涼感がありつつも洒落た装い。髪だってちょっと整えてきた。お母さんからは「デートにでも行くのぉ?」とからかわれたけど。


「はいって」


 そう告げて背中を見せた望月さんについていくまま、僕は門をくぐった。……さらりと柔和に流れた彼女の黒髪から、めっちゃいいにおいがしました。


 敷地内へ足を踏み入れると、さらに僕は感嘆を覚えた。


 門を抜けてすぐ、大きな屋敷の玄関まで続く石敷きが伸びている。そこから屋敷の縁側に面した左側には、金魚の泳ぐ小さな池と、その周囲を彩る石と灯篭。右側には縦に長い座敷と、長方形の小屋みたいな木造の建物が。


「あの建物は……?」


「稽古場。小さいけど、あれで十分」


 望月さんの答えに僕は目を丸くする。なんと、家に稽古場があるとは……


 やがて玄関に到着。望月さんがガラリと引き戸を開けて中に入り、僕もそれに追従。


「お、おじゃまします……」


 屋内に足を踏み入れた途端、僕を取り巻く空気に線香っぽい匂いが宿った。


 僕は靴を、望月さんはサンダルを脱いで三和土たたきに揃えてから、前へまっすぐ続く廊下を歩き出す。


 ぺたぺたと足音を立ててしまう僕とは対照的に、前を歩く望月さんからは微塵も足音がしなかった。


 曲がり角を曲がって進み、やがてさしかかった左側の障子戸の前で立ち止まると、望月さんはその向こう側へ呼びかけた。


「——お義父さん。例の男の子、秋津光一郎くんを連れてきた」


 すると、障子戸の向こうから「ん」と了承する、重々しい響きを持った声。


 ごくりと喉を鳴らす僕。


 戸が開かれる。


 戸の向こう側は、古き良き和風の居間だった。


 六畳ほどの畳敷きの空間の真ん中には脚の短いテーブルがあり、その左右に座布団が敷かれている。僕から見て右側には床の間や収納扉があり、左側の隅にはテレビ。さらに僕のいる場所の向かい側にはまた障子戸があり、その先には縁側に面した廊下が横切る形で伸びている。


 何より——テーブル周りの座布団の一枚に座る、一人の老夫。


 カイゼル髭をたたえた眼光鋭い顔つきには、厳しい表情を形作るシワが古傷のごとく刻まれていた。作務衣に身を包むその体躯は、しかし老いを感じさせないほどに姿勢が良く、なおかつ筋骨の密度が濃い。正座をしているけれど、立ち上がれば百九十センチは超えるであろう、堂々たる体格。


 まるで、居間の一角に小さな山が座っているような、そんな老人。


 その顔は……間違いない。

 ニュースとか、教科書とかで見たことがある顔。

 この方の武勇無くして今の日本は存在しないといわしめた、陸軍の名将の顔。


「望月、源悟郎……さん?」


「いかにも」


 年相応にしわがれた——確か望月閣下は現在六十を超えているはず——、しかしそれを些事と感じさせるほどに重く太い声色で、かつての英雄は応じた。


 十年前の戦争を勝利に導いた大人物の一人であり、なおかつ、義理とはいえ望月さんの父親。


 緊張するなという方が無理であった。全身がカチコチに固まる僕。


 その名将は望月さんに目を向け、


「すまない、螢。少し外してもらえるかな」


「なんで」


「男同士、この子と腹を割った話がしたい」


「……ずるい言い方」


 家族だからか、いつもの抑揚の無さの中に微かに拗ねたような響きを持った声で言うと、望月さんは廊下の向こうへ歩き去ってしまった。


「え? あ、ちょっ……」


 僕は一人取り残されてしまった。


 目の前には、山のように座る名将。


 ……どうしよう。孤立無援です、軍曹。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る