一を聞いて十を知る

 剛元ごうもとたけしは、日ソ戦争によって父親を失った。







 男としても、そして剣士としても、父は毅にとっての「師」だった。


 幼い頃から大のお父さんっ子だった。

 至剣流しけんりゅうの目録持ちでもあった父から受ける剣の手解きが、毅にとっての何よりの楽しみだった。

 休みの日には、いろんなところに連れて行ってくれた。遊園地や観光地、さらには戦艦や戦闘機の撮影など。

 あまりに父に懐きすぎて、母が嫉妬でむくれるほどだった。

 毎日が幸せで、充実していた。


 ——しかし、毅が八歳の頃、ソ連による軍事侵攻が起こってから、全てが一変した。


 陸軍士官だった父は北海道へ出征し、そして帰ってきた。二階級特進して中尉になった、靖国のとして。


 恩給制度によって給付金が支給されたが、それだけでは心許なかったため、やはりどうしても母が働く必要があった。


 母は一生懸命に働き、女手一つで毅を育てた。


 いつも「大丈夫」「心配しないで」とことさらな笑顔を作って耐えていた母だったが、たぬき寝入ねいりをしてから居間を覗くと、夫の死を悼んで一人で泣いている母の姿を必ず見かけた。


 そんな母を支えるべく、毅は中学卒業後は働きに出る決意をした。


 無事に卒業し、鳶職とびしょくとして働き始めたところで、母が突然病気で倒れた。


 母はその後あっという間に弱っていき、一年後に父の後を追った。


 二度目の喪失が毅を襲った。


 父を戦争で失い、母を病で失った。


 なぜ、自分は、こんなにも失わなければいけない?


 失った……いや、のは誰だ?


 病?

 

 戦争?


 違う。


 


 奴らがクソみたいな侵略をしてこなければ、父も死なず、母もそれによって気を病んで弱って死ぬこともなかったんだ。


 全て、ロシア人のせいだ。


 ロシア人が憎い。

 あの人間の皮を被った畜生どもが憎くてたまらない。

 国と家族を侵した連中の片割れが、この日本の大地でのうのうと何食わぬ顔で存在していることが許せない。

 父を殺した連中の同胞が、父と同じ至剣流を振り回している事実が許せない。

 そんなクズどもの肩を持つ奴は、さらに許せない。


 だから壊す。


 ロシア人も、ロシア人に味方する日本人も。


 だから今から壊すのだ。


 ——目の前には、木刀を構えた小柄な少年の姿。


 ロシア人の雌餓鬼をこれからいたぶろうという時に乱入してきた不粋な小僧。……雌餓鬼はこの少年を「コウ」と呼んでいた。


 普段なら軽く小突くくらいで勘弁してやるところだが、この小僧は日本人のくせにロシア人の味方をしている。


 だから、子供だとしても容赦はしない。

 

 ゆえにこうして剣で立ち合う形になったものの、この子供は、剣士としては話にならないくらい未熟だった。


 型の要所要所に、無駄な力がこもっていたり、体勢が歪んでいたり、手足と呼吸のタイミングが合っていなかったりと、かなりお粗末。


 その証拠に、すでに息も絶え絶え。型がなっておらず、無駄な動作や呼吸が多いから、すぐに疲れるのだ。


 反比例して、自分はまだまだ体力的に余裕がある。


 そんな違いを見れば、誰の目にも勝敗は明白であろう。


 そのはずなのだ。


 そのはずなのに。





 


 





 毅は、目の前の少年を、化け物でも見るような目で見ていた。










(なんだ、こいつは……!?)


 素人。

 痩せ我慢。

 身の程知らず。

 倒れぞこない。


 目の前の少年に対する揶揄の言葉は、いくつでも思い浮かぶ。


 そんな少年に対し、しかし毅はを禁じ得なかった。


(いったい、何者なんだ、こいつは……!!)


 最初、『山颪やまおろし』の型を用い、すでに二撃も入れた。いずれも効いたはずだ。戦いを継続する上でその痛みは足枷になっているはずだ。


 だが、自分は


 普通ならば、すでにボコボコに殴りつけて、剣士としての命が終わるような壊し方をしているはずなのに、いまだにそれを達成できていなかった。


 その理由は——


「——トゥッ!!」


 毅は一気に少年へ詰め寄り、『石火せっか』の型で攻めた。


 爆発で弾けた破片じみた速度で切っ尖が駆ける。間違いなく、少年の木刀をしっかり狙った一太刀だった。


 だが少年は、すでに後方へ退いていた。毅の『石火』の有効範囲外へと逃れていた。


「ちっ!」


 毅は舌打ちしつつも、型を変化させる。


 全身に太刀筋をまとうような剣技『旋風つむじ』を用いながら、少年へと迫った。


 反時計回りに円弧を描く太刀筋が、少年の木刀をとらえる——寸前で毅は木刀を手元へ引っ込めて「陽の構え」へ変更。


「トゥッ!!」


 『旋風』から『石火』への変化。熟練した剣士のみが実現できる、型の急変。


 横から来る薙ぎ払いを受け止めるために構えたことで出来た、顔面のガラ空きな隙。そこを『石火』の剣尖が食らいつかんとした。


 だが、


「なっ……!?」


 少年はまたも後方へ跳ね、『石火』の範囲外へ身を逃がしていた。


 それからも、毅は幾度も型を繰り出した。


 『波濤はとう』『浮木ノ太刀うきぎのたち』『迦楼羅かるらけん』『鎧透よろいすかし』『衣掛ころもがけ』『法輪剣ほうりんけん』——


 だが、いずれも防がれ、躱された。


 少年が使っている剣技は、さっきから『綿中針めんちゅうしん』のみ。

 自分の前方を密に守りつつ、隙が出来た瞬間に刺突を発する、反撃の型だ。


 少年の『綿中針』の練度は、お粗末もいいところだった。


 『綿中針』の防御の太刀筋は、その名の通り、綿のごとく柔らかに受け流す「柔」の性質を持つ。

 そうやって手堅く守りつつも、常にその剣尖を相手に向け続け、隙を見つけた瞬間に鋭い刺突という「剛」へと転ずる型。

 少年の『綿中針』には、「柔」の性質の欠片も無い。

 力任せに木刀を振り回しているだけ。

 あれでは手堅い防御はできても、刺突へ滑らかに移行することは不可能。

 体捌きも、手の内も、呼吸も、まるでなっちゃいない。


 


 






 この子供は、自分の動きを完全に読んでいる。







(馬鹿なっ……ふざけろ! ありえねぇぞ!?)


 毅は、剣士としての人生の中で、一番の驚愕を覚えた。


 あり得ない。


 こんな。


 こんな、型どころか、構え方すらもなっていない、こんな子供が。


 入神の境地に達した剣客のごとき、「読み」の強さを持っているなんて!


 否定したい。


 自分ですらまだ到っていない境地に易々と足を踏み入れているこの小僧の存在を、見なかったことにしたい。


 けれど、もう遅い。そんな「現実」は、目の前に広がっている。


 少年と目が合う。


 防御している間、ずっとこちらから目を離さず見つめ続けている。


 どんな体勢であっても、決して目を離さず、凝視してくる。


(気持ち悪い目しやがって……!!)


 照魔鏡のごとき一対の魔眼に、自分の姿が鮮明に写っている。


 その事実が、不愉快で、腹立たしく、気持ち悪く、おぞましい。


「テメェッ…………その眼を、やめろぉぉぉ————!!」


 毅は不快感と恐怖心を、怒号で誤魔化した。











 模写のコツは、被写体の構造をよく見て、理解することだ。


 被写体の服に、シワがあるとする。

 だが、そのシワが出来たのは、服の中に内包された体が何らかの動きをしたからだ。それが服の表面に出ているのだ。

 そのシワがどういう運動によって出来たのかが分かれば、自ずと服の中にある体の動きや向き、体型などが分かってくる。


 一箇所を分析することで、端から端まで理解する。


 


 光一郎こういちろうは、それを「影響の連鎖」と読んでいる。






 ——




 


 幼い頃に夢中になった模写で鍛えられた、驚異的な観察力と分析力。


 それらを活かして、光一郎は目の前の大男の動き全てに共通する「体癖」を見出していた。


 人間には、必ず大なり小なり「体癖」が存在する。


 自覚的に直せるものならばともかく、無意識レベルで行なっている微細な「体癖」は消すことが難しい。


 そんな、無意識のうちに行なっている「体癖」を見出せば、先読みはそう難しくない。


 こういう動きをする直前、体のどの箇所にどのような「体癖」が現れるのか——それが分かっていたら、大雑把でも、自ずと全体像が見えてくる。


 


 それが「影響の連鎖」を把握するということだ。

 

 光一郎はひたすらに毅を「観る」。


 怒号を上げて、急速に迫る毅。


 やはり切紙きりがみをもらっただけある剣士。怒っているように見えても、体の動きはいたって冷静だった。


 ——けれど、それでも「体癖」は隠しきれない。


 武術というのは生き物と一緒だ。

 伝承される形式や鍛錬法は同一であっても、細かい動きやリズムは、身につけた個々人によって異なる。師との完全な同一化は不可能だ。

 だからこそ武芸はいくつもの流派に枝分かれし、百花繚乱の有り様を見せたのだ。

 

 いくら至剣流を長年体に染み込ませたとしても、「個人」という枠組みから抜けることは不可能だ。


 剛元毅という「個人」の動きを、光一郎は完全に把握していた。


 長年の稽古によって研ぎ澄まされた太刀筋が、幾度も光一郎に襲いかかる。


 しかし、その全てを光一郎は『綿中針』で受けていく。


 体の前方を密に守るこの型は、光一郎の「読み」と相性が良い。


 稽古不足なので粗雑もいいところだが、それでも、相手の攻撃がどう来るかが早い段階で分かっていれば、十分に役に立つ。


 熟練の剣技を、素人同然の技でやり過ごすことができていた。






 






 どれだけ防御が上手くとも、防戦一方では勝負には勝てない。


 勝つには、どうしても攻める必要がある。


 けれど、下手な攻め手は逆効果だ。当たらないどころか、隙を作ってしまいかねない。攻める時が、もっとも無防備になる瞬間だからだ。


 剣士として圧倒的格下である光一郎は、あらゆる攻撃が「下手な攻め手」になりかねない。


 さらに問題はもう一つある。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」


 そう、体力スタミナだ。


 もう一度述べるが、光一郎の『綿中針』は練度不足だ。


 『綿中針』は防御から反撃へと転ずる型。防御という前提がある以上、うち太刀たち仕太刀したちに分かれた二人一組の稽古が必要だ。


 稽古相手がおらず、一人練習しかしてこなかった光一郎の『綿中針』は、他の型よりも練られていない。


 手の内、体捌き、呼吸、意識……そういった要訣がおざなりであるがゆえに、必然的に無駄な体力の消耗を強いられる。


 そんな未熟な出来の型を何度も繰り返しているため、光一郎の体力はジリ貧の一途をたどっていた。


 呼吸が乱れる。指が震える。腰や手足の筋肉が悲鳴を上げる。


 ——このままではいずれ瓦解がかいする。


 いくら攻撃を先読みできるとしても、まともに動けなければ意味が無い。


 やはり、攻める必要がある。


(でも、どうやって……!?)


 毅は今なお怒涛の攻めを続けている。

 「攻撃は最大の防御」とはよく言ったものだ。

 こうも木刀を素早く振り回されては、迂闊に踏み込めない。

 

 おそらく、毅はそれを理解した上で攻めまくっている。

 さすがは切紙剣士。

 

(待てよ……相手の攻撃が分かるのなら、それを活かして反撃すればいいんじゃないかな……!)


 どこに攻撃がやってくるのかが事前に分かっていれば、その一瞬先の太刀筋を避けると同時に攻めることもできるはずだ。


 それが出来る型を一つだけ知っている。——『浮木ノ太刀』だ。回避と攻撃がセットになった型。


 けれど、その型は相手も知っているはずだ。なおかつ、それを警戒しているだろう。


 であれば、その『浮木ノ太刀』を教科書通りに出すべきではない。逆手に取られかねない。


 もっと、上手いこと技を活かして、相手の意表を突く必要がある。


(でも、僕にそれができるのか……!?)


 学ぶ剣は同じ至剣流。

 その至剣流というジャンルにおいて、目の前の切紙剣士は一日いちじつどころか十日の長がある。


 下手な小細工は通じない。


 簡単に悟られぬよう、多重に策を張り巡らせる必要がある。


「はぁっ、はぁっ、はぁ、はぁ、はぁっ……!!」


 乱れた呼吸を続けて敵の技を防御し続けながら、光一郎は考えた。


 考えて……意外にもあっさりと思いついた。


 もう何度目かになる、毅の薙ぎ払い。


 光一郎はそれも防御した。——「」で。


「トゥッ!!」


 そこから間髪入れずに『石火』の型へ移行。


 火花が弾けるような電光石火で放たれた剣尖が、木刀を握る毅の手元へ迫る。……手を打ち据えて、木刀を取り落とさせるためだ。


 だが、毅はそれを分かっていたように両手を引っ込めて光一郎の『石火』から逃れ、同時に「左上段の構え」を取った。


 次の一瞬後には、その上段から放たれる袈裟懸けさがけが、光一郎を打ち据えるだろう。


 ——させない。


 光一郎は冷静だった。


 空振りに終わった『石火』の剣尖は、


 ——八月二日、望月螢初恋相手に食らった突きの再現。


「ヤァッ!!」


 光一郎は一歩踏み込み、一直線に木刀の剣尖を突き出した。


「か——!?」


 命中。


 毅は弾かれたように大きく仰け反り、空を見上げた。


 ——やっと隙が出来た!


 いくら切紙持ちの剣士と言っても、やはり同じ人間だ。


 


 どこであろうと、殴られれば痛い事には変わりない。


 痛がれば、大なり小なり隙を見せる。


(ここだっ!)


 最初で最後の勝機。


 ここで決める。


 決めなきゃ負ける。


 絶対に決める。


 光一郎は「陽の構え」となり、


「トゥッ!!」


 『石火』を、毅の分厚い胸板へ叩き込んだ。


「ごぁっ……!?」


 効いた。


 しかし、まだ止まらない。


 、「陰の構え」を取る。


「トゥッ!!」


 再び『石火』。


 今度は「陽の構え」。


「トゥッ!!」


 『石火』。


 「陰の構え」。


「トゥッ!!」


 『石火』、「陽の構え」。

 『石火』、「陰の構え」。

 『石火』、「陽の構え」。


 構えの陰陽を交互に転じさせながら、ただただ『石火』を連発した。


 何も考えず、一心不乱に。


 出来る限り、迅速にと。


 ——光一郎は今、知らず知らずのうちに、『石火』の高級技法を行っていた。


 学校の必修科目となって久しい至剣流剣術だが、学校教育で教わる内容と、宗家認可道場で教わる内容は異なる。


 型の種類もそうだが、その細かい用法に関する口伝くでんなど。


 今、光一郎が偶然に行なっている『石火』の連続は、本来は初伝目録しょでんもくろくの巻物の中に記されている応用変化なのだ。


 ——『石火』を打った後、身を進めると同時に木刀を引っ込める。退。ゆえに迅速に次の構えが取れる。

 ——その流れで「陰の構え」もしくは「陽の構え」を取り、再び『石火』を打つ。

 

 これらの用法を繰り返し用いることで、ずんずんと進みながら、素早く『石火』を連発できる。


 火花がちらちらと明滅するさまに似たその連撃の名は——『閃爍せんしゃく』。


 何発もの『石火』を全身に浴び続けた毅は、やがて行き止まりの壁に追い込まれた。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」


 光一郎は足を止め、弱りきった正眼の構えで毅を見つめ続ける。


 ……もう限界だ。これ以上はやれない。


 手はもう震えまくっている。足腰も疲れきっていてやばい。


 頼む、頼む、倒れておくれ——


「……うぅっ…………」


 毅はそう呻きを発すると、もたれかかっている壁をずるりと滑り、尻餅を付き、ぐったりと項垂れた。


 肌が露出した両腕、そして顔面には、『石火』の跡がいくつも残っていた。


 かるらん、という音を立てて、毅の手元から木刀が転がった。


 これは。


「……


 その答え以外を認めないと言わんばかりに、光一郎はそう宣言した。


 それは、毅ともう一人、今回の一件を招いた諸悪の根源である夏村なつむらに対する「示威」でもあった。


 きびすを返し、光一郎が歩み寄った先は……夏村。


「う、うわっ……!!」


 夏村はおののき、数歩後退した。


「う、う、うそだろおい…………!? 剛元さん切紙だぞ!? お前みたいなのが、切紙持ちに勝つとか……!!」


 畏怖したようなその発言を聞いて、光一郎は一つ「いい事」を思いついた。


「ああ、うん。——実は僕、


 大嘘であった。


 しかし、そのハッタリは思いのほか効いたようだ。


「ち、ち、ちちちゅ、中伝ちゅうでん……!? ふ、ふふざけんな! そんな、嘘に……!」


「剣の世界は広いんですよ、先輩。望月螢もちづきほたるさんっていう、十一歳で免許皆伝した人もいるんですから。今度帝国図書館行って新聞を調べてみてくださいよ。彼女に比べれば、僕なんてイモムシです」


 自嘲気味に言いながら、光一郎は夏村へ剣尖を向けた。


「僕の敵になりたいですか?」


「な、なりたくねぇよ!! ……っす」


「じゃあ一つだけ僕の言う事を聞いてくれませんか? そうすれば、僕たちは赤の他人です」


「な、何を……?」


 わからないのか。


 光一郎はそのことに一瞬だけ怒りを覚えたが、すぐに気持ちをクールダウンさせ、




「——エカっぺに、トンボの絵を破いたことを謝れよ。ここでじゃない。、だ」




 冷厳に、罪と報いを同時に告げた。

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