オニヤンマ

「うへぇ、疲れたよぉ…………それに顎と左肩がまだちょっと痛ーい……」


 沈みかけの夕日が見守る街路に、光一郎こういちろうの情けない声。


「……なんで、助けに来たあんたがあたしに介抱されてんのよ…………」


 そんな光一郎に左肩を貸して歩くエカテリーナは呆れた感じにぼやくが、内心では嬉し恥ずかしといった感じだった。


 ——助けに来てくれた。


 まるで、お伽話に出てくる、王子様みたいに。


 もう見捨てられたと思ってたのに、助けに来てくれた。


 それがとても嬉しかった。


 それでいて……この密着した距離感は、なかなかに恥ずかしい。


(コウの体温とか、匂いとか…………)


 小さい体ながら、体のあちこちにつき始めている筋肉の感触とか。


 それらを認識し、やっぱり男の子なんだなと再認識する。


 光一郎を「男」と明確に意識してしまい、恥ずかしい。


 ——いや、全然嫌じゃないんだけど。


 しばらく無言で歩いて、小さな公園へとたどり着く。


 二人でベンチにどっかり腰を下ろすと、大きくため息をついた。


「大変だったねぇー……」


「そうねー……」


 さっきまでの激戦を思い出してそう言い合ってから、再び無言の時間が続いた。


 すでに日中の暑気は引っ込んで、空気が涼しさを帯びている。夕日はビルの輪郭に隠れかけ、薄闇が公園に差している。車の通る音とカラスの鳴き声が、ときどき耳に入る。


 しばらくしてから、エカテリーナはぽつりと言った。


「コウ……ごめんね」


「何が?」


「いろいろと。……あんたに、心にも無い酷い事言っちゃったこともそうだし、助けさせちゃったこともそうだし、あと…………あんたがくれたトンボの絵、破かれちゃったこと」


 トンボの絵のことを思い出すと、エカテリーナは自身の心にぽっかり開いた隙間を再び実感した。


 光一郎は、望月螢もちづきほたるのことが好きだ。


 である以上、エカテリーナの好意は叶わない。


 だからせめて、彼のくれたトンボの絵だけでも、一緒にいたかったのに。


 その絵も、もう無い。


 唯一の命綱だった蜘蛛の糸を、断ち切られた気分だった。


「…………あ、そうだ!」


 光一郎は急に何か閃いたようで、自分の鞄をゴソゴソと漁りだした。


 取り出したのは、一冊のスケッチブック。


 それを開き、紙を一枚じリングから破り取ると、それをエカテリーナに差し出してきた。


「——はい、これ」


 それは。


「これって……!」


 精緻せいちなタッチで描かれた、オニヤンマの鉛筆画だった。


 光一郎は得意げに笑う。


「そだよ。昨日描いたんだ。自信作。エカっぺにあげるよ」


「え、でも……いいの?」


「うん。——。破られてブチ切れるくらい大切にしててくれた、君に」


 それを聞いた途端、目頭が一気に熱を帯びた。


 ——破かれてしまった方のトンボ絵は、きっと、彼の気まぐれでくれたのだろう。


 でも、この絵は違う。


 と、そうはっきり言って、差し出してくれた。

 

 それが、とても、どうしようもないくらい、嬉しかった。


 エカテリーナはそっと、壊れ物を扱うようにゆっくりと絵を受け取り、胸の中に抱きしめた。


「ありがとう、コウ。…………一生、大切にするね」


 大袈裟ではない。


 自分はこの日のことを、多分、一生忘れない。


 一生。


「————コウッ!!」


「わっ」


 嬉しいもので胸がいっぱいになったエカテリーナは、たまらなくなって、光一郎を抱きしめた。


 感じる。光一郎の、匂いと、体温と、体の感触。


 光一郎はびっくりしたようだが、乱暴に払い除けたりせず、されるがままでいてくれる。


 ——コウ、やっぱりあたし、あんたが好き。


 声に出さず、心の中で恋を告げる。


 叶わない恋を。


 ——この人は、これからも、剣の道を突き進んでいくことだろう。


 憧れの女性を、こうやって抱き寄せるために。


 自分ではない、違う女性を。


 それは仕方のないことだ。彼の気持ちは、彼自身が決めるものだから。


 ——でも、それはこちらも同じことだ。


 この人が別の女性に懸想けそうしていても、自分はやっぱり、この人のことが好きだ。


 愛してる。


 それもまた、仕方のないことだ。


 簡単には覆らない。


 そんなヤワい気持ちじゃないから。


 









 ————ねぇ、コウ。


 ————あんたが望月さんを好きなように、あたしもあんたのことが好き。


 ————残念だけど、これは、数年程度じゃきっと変わりそうもない。


 ————あんたのせいだよ。それくらい、あんたが素敵だから。


 ————だからね。


 ————もしも望月さんが、別の誰かに先越されちゃったら……その時は、あたしがワンワン泣いてるあんたをずっと慰めてあげるから。







>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


 書き溜めの放出はこれにて終了。


 これからまた書き溜め開始しまっす。


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