辻勝負、そして敗北

 まだ明るさの残った夕空の下にある、沈殿物みたいに薄闇の溜まった路地裏。


 その薄闇の迷路の空気を、木材同士がぶつかり合う甲高くも詰まった音が幾度も揺さぶる。


「っち……!」


 大きく後退して遠間をとったエカテリーナは、小さく舌打ちした。

 ……その息はかすかに上がっており、額にもうっすら汗の滴が浮かんでいる。


 目の前で木刀を構える大男——剛元ごうもとの顔には、汗一つ無い。

 その岩みたいな顔にある鋭い眼差しで、エカテリーナを見下ろしてくる。


「……その程度か? ロシア女。なら、もう終わりにしてやる。叩き伏せられるといい」


 その物言いに、カチンと来た。疲れかけていた四肢に再び力が宿るのを実感。


「舐めないでよね、デカブツ——」


 エカテリーナは再び剛元の間合いへ近寄る。

 手に持っていた木刀——路地裏に落ちていたモノだ——は「右脇構え」。そこから全身に巻きつけるような太刀筋をともない、剛元へ迫る。

 至剣流『旋風つむじ』の型だ。

 

 太刀筋の渦のごとくまとったエカテリーナに、剛元は『石火せっか』の型で応じる。

 突発的な推進力を得て、鞭のごとく駆ける剛元の切っ尖。

 それを『旋風』で受けた途端、女ながら172センチの背丈を誇るエカテリーナの五体が後方へ弾かれ、たたらを踏んだ。

 

 剛元が前へ出る。その構えは「右上段」。

 ずんとその巨体を進めながら、袈裟懸けに打ちかかってきた。

 エカテリーナは木刀でそれを防ぐ。

 だが剛元の太刀はと軌道を変え、「左上段」に達し、そこからまた袈裟懸けに放つ。

 それも防ぐが、また「右上段」からの袈裟懸け。それを防いでもまた「左上段」から——といった感じで、左右交互に延々と太刀が降り続く。

 剛元の木刀は、アラビア数字の「8」を横向きにしたような、そんな軌道を絶え間なく、滑らかに刻んでいた。


(左右上段から交互に放つ連続斬り返し……『衣掛ころもがけ』の型。しかもこんな横幅の狭い場所で、両端の壁にぶつかることなく連発しやがって……!!)


 敵の技量の巧みさを、エカテリーナは心中で呪う。


 剛元はもう何度目かの袈裟懸けを仕掛けてくる——かと思えば、急激に「裏剣の構え」に移行!


 エカテリーナはほぼ反射的に防御姿勢を取った。頭上に平行に木刀を構えた「鳥居とりい受け」の構え。


「エエェイッ!!」


 重厚な気合とともに、剛元は真後ろから前方へ向けてアーチ状の一太刀を振り下ろしてきた。『波濤はとう』の型だ。


「っ——!」


 エカテリーナはどうにか鳥居受けで防御したが、その一太刀に込められた重々しさを全身で感じ、息が一瞬止まった。


 両腕が痺れる。重みを受け止めた下半身が悲鳴を上げる。


 鳥居受けのまま、エカテリーナは目の前の敵への感想を心中で述べた。


 ——こいつ、強い……!


 今まで剣の勝負をしてきた中で、多分、一番強い相手かもしれなかった。


 見た目は骨太でごっつい感じの巨漢だが、そんな見た目に反して剣筋からは力任せの色がかなり薄い。

 剣術を「剣術」として使えている。

 術理に則った速さと力。


 その巨漢の後ろに立つ卑劣漢、夏村なつむらは自慢げに告げてきた。


「剛元さんは至剣流宗家から切紙きりがみもらってんだよ! 学校の必修でかじった程度の奴なんかハナクソだ、バーカ!」


 ——切紙ですってっ?


 その情報を聞いた途端、エカテリーナの中の危機感がさらに膨れ上がった。


 ——至剣流の目録制度は、全部で四段階存在する。


 最初に「切紙」という一枚の紙の免状を与えられる。

 その次からは巻物をもらう。「初伝目録しょでんもくろく」、「中伝目録ちゅうでんもくろく」、最後には免許皆伝を意味する「奥伝目録おうでんもくろく」。

 ……ちなみに他者への教伝資格が与えられるのは「初伝目録」をもらってからだ。


 たとえ一番段階が下の「切紙」であっても、免状をもらえたということは、嘉戸かど宗家から剣の腕をそれなりに高く評価されたということ。


 はっきり言おう。


 学校でかじった程度の剣の腕しかないエカテリーナには、荷が重い相手だ。


 ——どうする。逃げるか。


 三十六計逃げるに如かず。


 ここは馬鹿なケンカに受けて立ってしまった自分を猛省しつつ、この場から脱するべきではないだろうか。


 ——エカテリーナのその判断は正しい。


 だが、目の前の巨漢は、それを許さぬとばかりに次の一手を繰り出してきた。


 その場で身を捻り、竜巻を全身にまとうような太刀筋を描く。『旋風』の型。


「くっ……!?」


 エカテリーナは木刀を右で縦に構えることでそれをどうにか防御するが、姿勢が悪かった。ぶち当たった剛元の太刀のインパクトで、エカテリーナの体勢が崩れた。


 壁にもたれかかるエカテリーナ。


 剛元は木刀を振り抜いた流れそのままに「陰の構え」を取る。


「トゥッ!!」

 

 雷管の撃発のごとき気合とともに、剛元の太刀が前へ跳ねた。


 過程のほとんど見えないその『石火』の一太刀は、エカテリーナの木刀を的確に打ち——その強烈な打撃力で弾き飛ばした。


「っ……!!」 


 得物を手放してしまったことで、エカテリーナの心中で危機感がピークに達し、パニックに足を踏み入れた。


 格上の敵、武器が無いことへの不安——それによって、エカテリーナの思考が「早く木刀を拾わないと」という方向に


 宙を回転する我が木刀に手を伸ばす。


 ——剛元という剣士は、その単純な反応を狙っていた。すでに構えは「陽の構え」。


「——トゥッ!!」


 二発目の『石火』が弾け、


「っは——————」


 エカテリーナの右上腕に、強烈に打ち込まれた。


 衝撃力が右上腕を通り、体の内側を通り、左上腕にまで波及する。


 全身がこそぎ落とされるような激痛を実感しながら、エカテリーナの細くしなやかな五体が横へ投げ出された。


 数回転がり、仰向けで止まる。


「っ……くっ……!!」


 今なお余韻として右上腕に残留している染みるような鈍痛に、エカテリーナの額に脂汗が浮かんだ。


 折れてはいない。間一髪、身を縮こませて防御することができたためだ。


 しかし、痛いものは痛い。


「が——あああああああああああっ!!」

 

 一撃された箇所を、剛元の足袋靴たびぐつが無慈悲に踏みつける。


 激痛で悶え苦しむエカテリーナに、しかし剛元は眉間ひとつ動かさなかった。


「テメェら畜生でも、人間臭く痛がるんだな」


 太く低い声。


「我慢がならねぇんだよ。……至剣流は日本国民全員が学ぶ「国民剣術」だ。十年前、その「国民」をクソみてぇな野心で踏みにじったテメェらが、その「国民剣術」を何食わぬ顔で振り回す。——その事実が、憤懣ふんまんやるかたねぇよ」


 憎悪と侮蔑を濃厚に宿した響きだった。


「テメェらが握るのは、剣じゃなくて、老人の杖がお似合いだ。——おい夏村」


「は、はい! なんすかっ!?」


「ちょっと手伝え。——今から、この女を。二度と至剣流が出来ねぇようにな」


 それを聞いたエカテリーナは逃れようと身をよじるが、察知した剛元の足がさらに強く右上腕を踏んで地面に縫い止める。


「っあっ……!!」


「おとなしくしとけ。殺すわけじゃねぇんだから」


 剛元がその発言を言い切る頃には、夏村が嫌な笑みを浮かべてこちらへ到達した。


「言っとくけど、学校にチクったって無駄だぜ? テメェに味方なんか一人もいやしねぇ。唯一の味方も、今朝テメェが自ら切り捨てちまったんだからよ。へへっ、馬鹿な女だよなぁ」


 夏村のその下卑た言葉は、先ほどの『石火』の一撃以上にエカテリーナの心を殴りつけた。


 ——コウ。


 脳裏に浮かんだのは、あのお日様みたいに明るく、人好きする笑顔。


 やっぱりどこまでいっても優しい人だった。みんなから非難されると分かっていたのに、自分を庇ってくれた。


 そんな人を、自分は自ら捨ててしまったのだ。


 たった一人の、自分の味方を。


 愚かにも。


 もう誰も、助けてなんかくれない。


 助けるなと、自分から袖にしてしまったのだから。


「……けて」


 でも。


「たす……けて」


 口からひとりでに漏れ出る。


「たす、けて」


 か細い声が。


「たすけて」


 泣きそうな声が。


「助けて」


 捨ててしまった「最愛」を呼ぶ声が。






「————助けて、コウ」







 その時。


「——おおおおおおおおおおっ!!」


 やけっぱちだが、それでも確固たる意思を芯としたような叫びとともに、人影が飛び出してきた。


 一気に接近してきた人影が繰り出した一太刀。


 それを、瞬時に前へ出た剛元が木刀で受けた。


 人影が止まり、同時にその姿もはっきりする。


「…………コウ?」


 間違えようはずもない。


 ——秋津光一郎あきつこういちろうだった。






>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>


 ちなみに至剣流の目録制度の元ネタは、北辰一刀流です。


 千葉周作公は、剣術のあらゆる分かりにくかった点を分かりやすくしたことで有名。目録制度もその一つ。

 分かりやすさが命である小説の設定にはおあつらえ向きの元ネタだと思ったので、採用させていただいた次第です。


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