非難、そして拒絶
翌日——二〇〇一年九月四日。
新学期二日目。
厳しい残暑の中、僕は今朝も元気に富武中へ登校。
昨日は帰宅して夕ご飯を食べた後、夜に一人稽古をやった。
だけどやり過ぎると次の日に響くので、寝る時間は多めに確保した。
おかげで昨日の疲れはほとんど残っていない。
夏休み中の特訓で、体が剣術の動きに慣れたからというのもあるだろうけど。
これからは学校があるので、稽古時間も工夫して確保しないとな——そう考えながら校門をくぐる。
額に浮かぶ汗を腕で拭い、下駄箱で上履きに履き替え、教室へと向かう。
階段を上がろうとしたその時……何だか妙な雰囲気を感じた。
なんだろう、空気がひりついてるというか、ざわざわしてるというか。
最初は気のせいかと思ったが、階数を上がるにつれてその雰囲気は濃厚になっていき、やがて一年教室のある五階に達した途端に最高潮となった。
胸がどきどきするようなその奇妙な空気の出どころは、僕がこれから向かおうとしていた場所——つまり、一年三組の教室。
教室の出入り口の前には、三々五々に固まった、しかし確かに僕らの教室の中へ視線を集中させている生徒達。
その時、僕の脳裏に浮かんだのは……エカっぺの顔だった。
嫌な予感がした。
はやる気持ちに任せて、僕は教室へ入る。
「あんたはこの学校の恥なのよ!!」
ヒステリックに裏返った女子の喚きが耳を突いた。
「とっとと退学してくんない!? マジで目障りなんだけど!!」
またも女子のキツイ金切り声。
「そ、そうだよ! 問題起こしやがって! いつかなんかやると思ってたんだよ!」
かと思えば、今度は男子の声。
僕の目の前には、壁のように背を向けた生徒達の姿。クラスメイトが多めだが、他のクラスの生徒も混じっている。
彼らは一様に「中心」を見ていて、そこへ向けて口々に非難の言葉を投げつけていた。
生徒達の隙間から覗いた「中心」にいたのは、金色の輝き——エカっぺだった。
嫌な予感が的中したことを悟る。
「エカっぺ!!」
僕は生徒達の人垣の隙間を掘り進み、エカっぺの側へ駆け寄った。
彼女の顔を見て、僕は息を呑む。
ただでさえ白い彼女の顔はさらに白く、表情も無い。ただただ呆然とうなだれていた。
「ねぇ、どうしたのエカっぺ!? 何があったの!?」
僕のその詰問には、エカっぺではなく、周りのクラスメイトが答えた。
「そいつ、二年生の先輩に木刀で襲いかかったんだよ!!」
え……襲いかかった? エカっぺが?
「その先輩、何もしてないのに、その女に木刀で殴られたんだってよ!」
「ひっどい奴!」
「これだからロシア人は信用できねぇんだよ!」
口々に罵倒混じりの説明を受け、僕は困惑を深めた。
思わずエカっぺの方へ振り返り、恐る恐る尋ねた。
「本当、なの……?」
彼女は、その唇を震わせながら、たどたどしく喋り始めた。
「コウ、あたし、あたしは——」
「露助の言い訳なんか聞きたくねぇんだよ!!」
周囲の生徒達の人垣の中から、ガタイの良い坊主頭の男子生徒が歩み出てきた。今のはその人の怒号だ。
その人は鼻筋を沿うようにしてガーゼを貼っていた。さらには両頬も腫れて膨らんでおり、それを大きな絆創膏が覆っていた。
ワイシャツの胸ポケットにある校章刺繍は赤色。つまり二年生。
エカっぺに暴行を受けた先輩——彼であることは明白だろう。
「テメェ、人が親切心で話しかけてやったってのに、いきなり顔面に膝蹴りくれやがって!! それから俺の仲間ごと木刀でぶっ叩いてくれたよなぁ!? 他人の親切心につけ込んで殴りやがるとはよぉ、流石は露助だよなぁ!! いきなり侵略してきやがっただけのことはある姑息さと凶暴さだわぁ!!」
先輩は、周囲へ言い聞かせるような大声でそう発した。
「そうだそうだ!」「卑怯者!」「ボルシチ野郎!」「くたばれ!」「学校やめちまえ!」「日本から出ていけ!」「「バレリーナ」が!」「アバズレ!」「畜生!」
呼応したように、罵声の数々を投げつけてくる生徒達。
一身にそれらを受け、なおもうなだれて黙り続けるエカっぺ。
それをいいことに、周囲はこれでもかと痛罵を投じ続ける。
「いい加減にしろぉぉ————!!」
僕は我慢できず、思いっきり叫んだ。
叫びすぎて喉に響き、けほけほと咳き込む。周囲が一気に静まり返っていたため、その咳がよく聞こえた。
「……きっと、エカっぺは、何か訳があってやったんだ。僕の知るエカっぺは、理由も無く人に暴力を振るうような女の子じゃない」
それは、希望的観測ではない。半ば確信をもった意見だった。
エカっぺの人格を信じた上での発言であるのはもちろんのこと。
それに、今、先輩は……ガーゼまみれのその顔をニヤニヤさせていた。まるで目論見が成功したかのように。
この学校で、彼らが言うところの「敵性外国人」であるエカっぺにいなくなって欲しいって思う人はたくさんいる。おそらく、この先輩もその一人だ。
であれば、今回の暴力事件、被害者であるという先輩の言っていない真相があったとしても何らおかしくは無い。
僕は、衆人へ向けて、ハッキリと告げた。
「僕は、この子を信じる。友達として」
エカっぺの、息を呑む声が聞こえた。
途端、周囲から非難が上がった。先ほど以上に。
「ふざけんな!!」「そんな奴庇ってんじゃねぇよ!!」「露助を庇う奴も露助だぞ!!」「売国奴!!」「いくらで魂売ったんだ!?」「片親がロシア人だったんかぁ!?」…………
一つ一つは取るに足りない罵倒だったとしても、それが寄り集まって押し寄せてくれば、それなりのショックになる。
僕はどう返していいか分からずにまごついていると、
がぁん!!
椅子と机が蹴倒され、ド派手な音を立てた。
「——キィキィキィキィ、うるさいのよ。黄色猿ども」
やったのは、エカっぺだった。
「ええそうよ? あたしがそこの夏村パイセンの顔面に跳び膝ぶち込んで木刀で往復ビンタしたのよ。理由は簡潔。そのクソ先輩の黄色くてアホっぽいツラがムカついたからよ。——満足できる答えが聞けてよかったわね?」
僕は、彼女が何を言っているのか、よく分からなかった。
いつものエカっぺと違う。
僕と接している時の、気だるい感じでありつつも親切な彼女とは全く違う、彼女。
嘲笑、侮蔑、冷酷、諦念——浮かべている薄ら笑いも、声色も、言葉遣いも、全てそれらによって彩られているような。
あれだけ罵声で騒がしかった教室が、水を打ったように静まり返っていた。
「ていうかさぁ、お前達さぁ、マンツーマンであたしに文句つける事って出来ないの? 群れてキィキィ喚くことしかできないんならマジで猿と同じよ? いや、猿か。黄色猿」
侮蔑で低まった声で言いながら、エカっぺは蹴倒した椅子を両手で持ち上げた。
剣術の上段を連想させるその椅子の持ち上げ方に、周囲の生徒達は一歩退く。
「あたしが気に入らないなら、一人ずつ来なよ。聞いてあげるから。あんたらも至剣流やってんでしょ? ガッコに押し付けられた至剣流がさ」
エカっぺがそう呼びかけてくる。
だが、誰一人として、足を前へ動かそうとはしなかった。
口すらも、動かさない。
エカっぺは構えていた椅子を床に放り投げた。
「……その程度の根性で、人の事なじってんじゃねーわよ、猿ども」
疲れたように、諦めたように、呆れたように、彼女は吐き捨てた。
その後、何事も無かったように自分の席についた。
「あの、エカっぺ」
「何?」
僕がおそるおそる声をかけると、彼女は素っ気無く応じた。
今までにないその冷たい態度に、息が詰まるのを実感した。
そんな僕のよそよそしさを見抜いたのか、エカっぺは鼻を鳴らして冷笑した。
「見たでしょ? あたし、ホントはこういう女なの。露助露助って喚いてくるあんたら日本人を猿だって常に見下してんの。殴ったって、そこらへんで死なれたって、これっぽっちも心が痛まない。馬鹿な猿が車に轢かれて御愁傷様、くらいにしか感じないの。あんたらの期待通り、あたしは「露助」なのよ」
「ちがうよ! 君はそんなんじゃ——」
「あんたがあたしの何を知ってるの? 知り合って一年どころか、まだ半年にすら達してないあんたが、あたしの全てを理解した気になんないでよ。不愉快だわ。消えて。それで二度と話しかけないでよ、コウ」
拒絶。
僕は、言葉を失った。
そこから歩く力すら。
僕の肩をポンと叩いて「見たろ? お前は騙されてたんだよ。早く気がつけてよかったな」と同情したように言ってくる男子生徒の手を思いっきり振り払って「君に何がわかるんだ」と反論してやる気力すら。
さらには、朝のホームルームを告げるチャイム。
僕はそれに尻を叩かれる形で、どうにか自分の席へ戻れた。
——これでよかったのよ。
放課後、夕日の差す帰り道を一人歩きながら、エカテリーナは自分の辛い決断を「英断だ」と無理やり称賛した。
——朝のあの時、周囲の生徒の非難は、光一郎に向きかけていた。
その非難は、きっと自分へ向いていたのとは別種で、なおかつ苛烈なものとなるだろう。自分たちの「敵」は許せないが、その「敵」の肩を持って裏切った「味方」はもっと許せない。人の集団の意識とはそういうふうに動く。
あのまま行けば、のちに光一郎がいじめられていたかもしれない。
そんなのは嫌だ。彼がいじめられるだけでも嫌なのに、ましてそれが自分のせいだなんて。
だから、「悪」を演じた。
「悪」として、光一郎を公然と拒絶した。
そうすることで集団を満足させてやり、なおかつ、光一郎への同情も買わせる。
元々悪かった自分の心証が、さらに悪くなるだけ。支払う代償などそれくらいだ。それだけで、光一郎の立場は守れる。
それに——渡りに船だと思ったから。
あのタイミングでなければ、自分が光一郎から離れることなんてまず出来ないと思ったから。
叶わない恋。
そこから逃げ出す方法を、エカテリーナは探していたから。
——だから、二重に「英断」だった。
光一郎の立場を守り、なおかつ、自分も叶わない恋を追うことから卒業できる。
一石二鳥とはこのことだ。
さあ笑え。清々しく笑えばいい。
「っ…………っく……っ!」
無理だった。
笑おうとしても、表情筋が言うことを聞かず、泣き顔を作る。
嗚咽を漏らしながら、大粒の涙をこぼす。
人気の無い路地裏へ入り、しゃがみ込みながら、エカテリーナは泣いた。
——コウと話したい。
——コウの声が聞きたい。
——コウの笑顔が見たい。
——コウに励まして欲しい。
でも、それはもう叶わない。恋と同じで。
それを選んだのは自分だ。
ならまずその選択に責任を持て。
ここから前へ進むのだ。
目元を擦り、無理やり涙を堪えて、エカテリーナは路地裏から出て再び街路を歩き出した。
それからすぐに、見知った顔と出くわした。
「……何の用よ」
顔中ガーゼと絆創膏にまみれた坊主頭の男子生徒。……昨日、取り巻きの二人ごと叩きのめした二年生、
「よぉ露助。昨日の礼をしに来たぜ」
見ると、夏村の後ろには、大きな威容が立っていた。
172センチの背丈を誇るエカテリーナですら見上げるほどの大男。
夏村よりもさらに強健さを感じさせる骨太で筋骨隆々な肉体が、シャツを張り詰めさせている。
穿いているのは、ところどころにペイントの汚れが見られるニッカポッカ。その手には木刀。
岩を削りだしたような顔つき。そこに穿たれた瞳が、エカテリーナを冷たく見下ろしていた。
大男は夏村に目を向け、問うた。太い声で。
「……この女か?」
「は、はい、そうっす、
「露助……」
剛元と呼ばれた大男は、眉間に刻まれた皺を増やした。
エカテリーナはその表情を見て確信した。
自分に……ロシア人に対して憎しみを持っている顔だ。
おおかた、出征した家族を亡くしたとか、そういう理由だろう。
——これは、タダで帰してくれそうにないわね。
だけどちょうど良い。
ちょうど、このやり切れない気持ちをぶつける対象を欲しがってたところだ。
「
挑発の意味で投げつけたロシア語に、案の定、剛元は眼光を鋭くした。
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