第77話 ◯◯ワーム
脱衣所で顔を洗ったカエはリビングルームにやってきた。
すると、キッチンの方からは、ジュ——といった何か食材の焼ける音と、鼻腔を擽る香りが飛んできていた。気になったカエは視線を音と香りの出所へと向ければ、テキパキと料理に勤しむフィーシアの姿を捉える。
「フィーごめんね。ゆっくり寝ちゃって……今からでも何か手伝うけど、何かある?」
「——ッ……お気遣いありがとうございますマスター。ですが、朝食の準備はほとんど終わってますので、マスターの手を煩わせる事は特に……パンが焼けるまでしばらく時間がかかります。ソファーに座ってお待ち下さい。今コーヒーをご用意致しますね」
「あッ——あぁ……ありがとうフィー」
すかさずカエは、朝食の準備を手伝おうとフィーシアに声をかけたが、彼女の申し出は突っぱねられてしまった。
はじめから準備に参加していれば、いくらか流れをつかめて手伝う内容を提案できるのだが……終わり際にやってきて「手伝おうか?」は、傲慢かつ、却って邪魔にしかならない。このことにカエは『夜ふかしはダメだな』と少なからず反省したという(記憶はないが……)。
フィーシアを観察する限りでは、既に盛り付けをしている段階だった為、ここでカエが乱入しても対して彼女の助けにはならなそうである。
ここはせめて、後片付けは自分が担当しよう——と心に決めたカエは、フィーシアに御礼の言葉だけ残して、その場を離れた。
そして、トボトボとソファーへとやってくると、カエは顔を洗ったにもかかわらず眠気が覚めやまない状態のまま、ソファーに身を委ねる様に体の力を抜き勢いよく座る——
が……
「——グエッッ!?」
「……ッん? グエ??」
ソファーのバネが軋む音とは別に、珍妙な音が鳴った。座った感触は、クッションとは違うゴツゴツとした硬い印象がカエに返ってくる。
「うう〜〜……重い〜〜……」
「…………あぁ〜……そうだったコイツがいたんだった」
カエは「ッグエ!」のあとに上がった苦しそうな声を拾って、ソファーの異変の正体に気づく。
カエが座った場所には、タオルケットを被りうつ伏せの状態で寝ていたアインがいた。つい、昨日のことではあるが、カエは今朝からの謎の記憶の混濁から彼らをセーフティハウスに泊めていた事実を綺麗さっぱり忘れていた。カエに降り掛かった記憶の欠損とは、どうもこの事とは違う気はするのだが、モヤ——っとした気がかりは、“アインの存在”の方に意識を奪われ、記憶の片隅に追いやった。
この時のカエは面倒臭そうに顔を歪め、そのまま座り続けている。
ちょうどその時だ——
「マスター……コーヒーをお持ちしました」
「ん——ありがとうフィーシア」
フィーシアがマグカップとポットを持ってやってくる。ただ、彼女はカエがアインの上に座り続けた珍事には目もくれず、すかさずコーヒーをマグカップに注ぎカエに手渡す。まるで男の存在を鼻から認識してないかの態度——いや……フィーシアの事だ。彼女は、自分にとってどうでもいい事象は基本関わる気がないのだ。その証拠にコーヒーをカエに手渡し、おかわりが入ってるであろうポットをソファー前の長テーブルに置くと、踵を返しスタスタとキッチンに戻ってしまった。これが表す事つまり——アインとはフィーシアにとって『どうでもいい男』と言う事。カエの尻に敷かれていても無反応なのはこのためである。
ここはフィーシアの無頓着ぶりに呆れるところだろうが、カエは結局いつものフィーシアである事実を噛み締め、モーニングコーヒーを口に含んだ。
「うん……美味しい……」
「あの……カエちゃん?! なんか凄くまったりしているけど、どいてくれないかい? 気づいてると思うけど、俺の上に乗ってるからね!?」
と、不思議と落ち着いた様相のカエをよそに、アインが下敷きの状態で慌て声を発している。流石に身体の上に飛び乗れば、目を覚ましてしまうのは当たり前だった。
ただ、少しの間を置いて——
「——ッあ!? やっぱりそのまま——! どかなくていいや……いつまでも座っててくれ——!」
裏返し——アインからまさかの変態発言が飛ぶ。
「…………」
「——ッあ!! ……あぁぁ〜〜……」
カエはこれに無言のまま腰を持ち上げ立ち上がると、アインは残念そうな反応を見せた。
「…………変態?」
「——ッえ? ッあ!! 違う、違う! そうじゃないんだよ!」
「はぁあ——何が違うってんだ。この変態……」
カエがアインの発言に率直な感想を述べると、アインはすかさずこれに否定してみせる。だが、彼の言葉はどう考えても『変態』との文字を払拭できそうにはない。
自ずとカエの軽蔑のこもった視線がアインへと突き刺さった。
「ほら、こう〜〜なんて言うのかな? カエちゃんの筋肉の付き方に、何か強さの秘訣があるんじゃないか——と思って……それで、だから……」
「感覚で、図ろうと?」
「——ッ!? そう! そういうこと!!」
「だから……変態じゃないかよぉお!!」
「——ッえ!!」
「“ッえ”じゃねーよ。“ッえ”じゃぁあ!」
アインは言い訳八丁を並べるも——カエの呵責には一向に触れる気配がない。
しかし、彼女は「変態」だ、何だとアインを追求してはいるものの、別に「体を触られただけで何だ——!」とは特に気にしたりはしていなかったりする。
というのは、カエの精神は『男』だからだ。
ときに、自分が『女』である事実を忘れている傾向があるため、カエからしたら男同士の絡み程度の認識に収まるからか、大した感情は沸かない。ただ……男同士だからと言って『筋肉のつき方の良し悪し』で触り合う関係は……ちょっと引く思いがある。転生前のカエも、体育会系……と言うより文系気質な人物であったがために——
しかし……アインとカエのやり取りを傍から見れば、アインの『変態』分類は、カエの見方と違ってきてしまう。
この場に居たのが2人(アイン、カエ)だけだったのは、アインにとっては幸運だった事だろう。ここは、仲間のレリアーレが彼の教育、監視を入念にする必要が求められるところであろうか——?
と、そう言えばだが……
「ところでレリアーレ、さ……リアは……どこへ? そう言えば見当たらないのだけど……」
ここでカエは、アインの相方——レリアーレの存在を気にした。アインが横たわるソファーとは反対側……てっきり彼女はそこで寝ているのかと思いきや、その場所に彼女の姿は見当たらなく。ソファーは空だった。
既に起きている可能性も考えられるが、カエは取り敢えず手頃なアインに彼女の所在について尋ねた。
すると……
「ええッと……多分彼女は〜〜っと……ッあ、ほら、そこに居るよ!」
そこで、アインは背伸びをするように辺りを見渡し、次の瞬間にはある地点を指差した。
そこはソファーとテーブルの隙間……アインの指先をなぞり、カエもテーブルを避けるように隙間を注視すれば、そこには大きな太巻き状のタオルケットグルグル巻きの物体があった。
「………ううん……むにゃむにゃ……」
その物体は寝息を立てていることからどうも人ではあるようだ。筒状の巻物からは、左右の端より金色の髪と素足が覗いていることからも、新種のバケモノのような姿である。
「これは……?」
「えっとね……リアって、凄く寝相が悪いんだよね」
「寝相が悪い? タオルケットグルグル巻きだけど……寝相ってレベルじゃないぞ」
レリアーレの姿が見当たらなかったのは、ソファーから落ちてしまったから——これに関してはカエにも理解が及ぶ。だが……彼女の今の形態はとてもじゃないが不理解が過ぎてしまう。レリアーレに巻きついたタオルケットはぴっちりとしていて、硬く巻きついてしまっている。一体どうすればこれ程までの形態変化が個人によって達成できるのか——? カエには全く検討がつかなかった。アインはこれを『寝相が悪い』と当たり前のように発言しているが……これにはカエの疑問が一層酷くなるだけだった。
「ふッふッふ……カエちゃん。リアの寝相を甘く見ちゃいけないよ。彼女は毎晩、被さった布物に決まって巻きついた挙句、コロコロ転がっていっちゃうんだ。こないだなんか、野外で俺が夜の見張りをしていた時——ちょっと目を離した隙に、居なくなってて……リアは何とゴブリンの集落まで転がっていっちゃってたんだ。ははは、あの時は俺も肝が冷えたね」
「うわ……それ、大丈夫だったの?」
「なんか……ゴブリンも、彼女の形態がよほど不気味だったのか……怖がって逃げちゃったんだよ。暗闇だったから、口から金糸を吐いたミミズの化け物とでも見えたんじゃないかな?」
「…………ミミズ?」
「俺はこの事をきっかけに——彼女のこの形態を、敬意を込めて『レリワーム』と呼んでいるよ!」
「おい……やめてあげろよ。その可哀想な“あだ名”……」
アインは自身の仲間の話を楽しそうに語るが、カエからしたら恐怖体験を聞かされている気分だった。
それに……“◯◯ワーム”と言えば、RPGでいうところの“ミミズ”に酷似した魔物だが、とても「女の子」につけてあげる命名では不適切極まれり——アインのデリカシーの無さと、レリアーレに対する同情の念が、心底カエを呆れさせる。
その時——
「……——ッ、フニャア!!??」
件のレリワームが、可愛らしい奇声をあげて、ムクっと起き上がった。あまりにも、ワームを見つめる2人が騒がしかったモノだから、目を覚ましたようだ。
「お……ワームが立った……」
「リアが起きたみたいだね」
タオルケットの太巻きが、ちょうど真ん中で折れて持ち上がり、ソファーとテーブルの隙間から顔を覗かす。その姿にカエが率直に言葉を漏らせば、アインもそれに続き思い当たるレリアーレの状態を喋った。
「…………」
「「……?」」
ただ、レリワームはその直立の状態から微動だにしない。おそらく寝ぼけているのだろうが……しばし、カエとアインは疑問顔でワームを見守っている。
そして……
「……ッ——ッ! え!? 何ッ——暗い!? どうして!? それに動けないぃいい!! アイン、どこ!! 暗いよ! こわいよぉお!!」
次の瞬間、レリワームは喚き出した。
巻物の、おそらく彼女の頭があるであろう部分を右へ左へとブンブンと振り回し、先っぽから垂れた金糸のような髪の毛を、コレでもかといった具合に大きく周囲へ叩きつけて暴れ出している。
その時——
——ガゴンッッ——
「——ッッあイタぁあ!!!!」
レリワームは盛大に暴れた事で、胴体を思いっきりテーブルの脚にぶつけたようだ。その証拠に、ガゴンッ——との鈍い音を打ち鳴らし、並行するテーブルとソファーはすっかり乱れてしまった。
「ううう〜〜……痛いよぉぉ……」
「ははは——リアはそそっかしいな! さて、そろそろ助けてあげよう」
「酷いな……すぐ助けてやれよ……」
この時のアインは、愉快そうな表情でしばし傍観をきめていた。ただ、彼女がテーブルに身体をぶつけてしまった辺りで、流石に可哀想だと思ったのか、ようやくアインは助ける姿勢を見せた。
「リア〜〜? 大丈夫かぁあ?」
「——ッ!? その声……アイン!!」
「ほら、リア……助けるから、ジッとしててくれ〜〜」
「早くして〜〜アイン。怖かったよ〜〜痛かったよぉ〜〜……グスン……」
「…………はぁぁ……朝っぱらからイチャイチャと……もう見てらんないや」
アインはワームの表面——タオルケットの端を引っ張って内部に囚われたレリアーレの救出を開始した。その一部始終を目の当たりにして、カエは胸焼けしそうな気分に、堪らずその場を後にしてカウンターテーブルへと向かった。
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