夏のあなたへ

@ken-dock-nishikawa

夏の冒険

 

 1 



「もう忘れちゃダメよ」

「はい、すいません。さよなら」

 教室の鍵を教務の先生に返したあと、お礼を言って職員室の扉をゆっくりと閉める。

 夏休みに入って数日がたった頃、学校に体操服を忘れたことに気がついた私は、人通りのない真夏の通学路を歩いて、学校まで体操服を取りにきた。夏の熱い光が照りつける野外とは違い、校舎の中はひんやりと涼しかった。驚くほど静寂が広がる廊下が、突き当たりのドアまで何十メートルも続いている。半開きになったドアからもれた強い光が、暗闇を抜けて目にとどく。

 

 廊下に足音を響かせ、私は下駄箱まで戻ってきた。ポケットから鍵を取り出し、古びた鍵穴に差し込む。鍵を回すと、錆びついた金属が擦れ合う音が小さく小さく耳に届いた。

 靴を取り出した瞬間、どこからか「あれ?」と声が聞こえた。ハッとして、あたりをキョロキョロと見回す。すると、ロッカーの陰から髪の長い女の子が現れた。

 私はひどく驚き、手に持った靴を一足落としてしまう。自分以外に人がいるなんて。

「体操服を忘れたの?」

 彼女は私にそう訊いてきた。制服姿で、私と同じ色の上靴を履いていたことから、同学年の女の子だと気づく。

 私は答える。

「…うん。ちょっと忘れちゃって」

「偶然だね。私も体操服取りにきたんだよね」

「誰もいないと思ってた」

「私もそう思ってた」

 彼女はそう言って近寄ってきた。足がスラッと長く、わずかにつり上がった大きな目で私を見てきた。廊下ですれ違ったことすらない子だった。

「名前なんていうの」彼女はそう聞いてくる。出会って間もない私に興味を持ってくれているんだろうか。

「麻衣だよ」

「麻衣ちゃんね。私は結菜。よろしくね」

「うん。よろしく」

 私の前に差し出された手を掴む。彼女は握った手を上下に振った。握手なんていつぶりだろう。白くて、綺麗な手だった。

 それが私の結菜の出会いだった。初めて会ったときの結菜は、見た目こそ普通の女の子だったが、どこか普通とかけ離れた雰囲気を漂わせていた。私は彼女と目を合わせた瞬間、胸の辺りが吸い取られたような気持ちになった。

「あれ?」

 私はふと、ロッカーの中に紫色の砂が散らばっていることに気がついた。砂は白い光をキラキラ反射させている。思わず指に付けて眺めてみる。

「どうしたの?」と結菜が手元を覗き込んでくる。私は指についた砂を見せる。「何かわからないけど、すごく綺麗」

「これってもしかして。宝石のかけらかも」

「宝石?」

「うん。紫色に光ってて、この世のどこかにある大きい宝石。多分そうだよ」

「この世のどこか?」

「そう。自分の願いを叶えてくれる、誰もが羨むようなね」

 結菜は私と同じように砂を指に付け、光を当てた。私は言った。

「この砂が宝石のかけらなの? どうしてここに?」

「近くにあるんだよ、きっと」

 私は不思議な気持ちでその話を聞いていた。結菜は手についた美しい砂を払った。砂は、紫色と白が混ざり合った透明な光を瞬かせながら落ちていった。


 私と結菜はなんとなく気が合い、気がつくと学校の屋上で話し込んでいた。彼女は私の目をよく見て話してくれたし、私の話をよく聞いてくれた。

 なぜかのか、前にどこかで会ったことがあるような気がした。この話し方や風貌は馴染みがあるような気がする。でも、それがどこなのか、いつだったか、まるで思い出せない。空の引き出しを開けるようなもので、存在しない記憶だからかなのか。

「綺麗だね」遠くまで広がる景色を眺めながら、結菜は言った。私が「そうだね。本当に綺麗」と答えると、彼女は口元の笑みを浮かべた。

 結菜は私の方を向いて言った。

「二人で探しに行こうよ。夏の宝石」

 私は結菜と目を合わせた。彼女は艶のある髪を靡かせながら、目を細めている。

「いいよ。でもどこに?」

「宝石は、誰かが私たちに向けて隠したの。誰かが導いてくれてる」

 結菜はその場を立ち上がり、屋上の端にあるダクトまで歩いていった。私は結菜のあとに続く。

 ダクトのそばには金属製の白い箱が取り付けられていた。結菜はその箱の扉をためらうことなく開けた。

 箱の中には紫色の砂と一枚の紙が入っていた。

「あったね」

 結菜は二つ折りになった紙を手に取って広げる。紙には水彩画が描かれていた。波が立っているため、なんとなく海だと思ってしまったが、川かもしれない。絵の端には筆記体の文字が書かれていたが、私はそれが読めなかった。誰かのサインなのか。

「見てみて」結菜は私に紙を手渡す。私は紙を受け取り、紙に書かれた絵をもう一度よく見てみた。

「なんだろう」

「…プールかな?」

「プール?」

 そういえば、波が立っている場所が海や川だけとは限らない。でも、なぜか頭に浮かばなかった。

 私と結菜はプールに行ってみることにした。誰かが、誰かに向けて描いたメッセージなのかもしれない。きっとそうだ。

 日差しが照りつけるプールサイドは、セミの声以外、物音ひとつしなかった。なんとなくプールに忍び込んでしまったが、果たしていいんだろうか。

「ねえ…」

「なぁに?」

「いいのかな。勝手に忍び込んじゃって」

「大丈夫だよ。どうせ人はいないし」

 私は不安だったが、まあ大丈夫だと思うことにした。

 宝石はどこにあるんだろう。見当もつかなかった。それは結菜も同じようで、しばらく考え込んでいたが、「まあいいや」と靴を脱ぎ始めた。

「とりあえず、泳ごっか」

「え?」

「気持ちいいよ」

 結菜は靴下を脱ぎ、そのまま制服を脱ぎ去った。私は慌てるが、彼女はもうとっくに下着姿になっていた。

「おいでよ」

 結菜は颯爽とプールに飛び込み、水飛沫をあげて泳ぎ出した。

 私は突然の行動に少し呆れたが、気持ち良さそうに泳ぐその姿を見て、いても立ってもいられなくなった。服を脱ぎ、下着のまま青いプールに飛び込んだ。

 二人だけのプールを思う存分楽しんだあと、二人でプールサイドに寝転がって日光浴をした。濡れてしまった下着が乾くまで、気ままに言葉を交わした。

「急に飛び込むなんて、あなためちゃくちゃだね」

「そうかな? もう我慢できなくて」

「変なの」

「あなたも泳いでたじゃんっ」

 私はふと、プールサイドにある見張り台に目を向けた。鉄骨を組み合わせて作っただけのようで、錆びついていて見窄らしかった。

「あそこ行ってみたいな」私は見張り台を指差した。「いいね」


 二人で今にも折れそうな鉄の梯子を登り、二階建てほどの高さの見張り台に登った。狭くて二人でいるのがやっとだったが、少し目線が上がっただけで本当に気持ちが良かった。さっきまで泳いでいたプールが別物に見えた。

 結菜が気持ちよさそうに深呼吸をする。息を吐き出し、そのあと言った。「いい場所だね」

「本当だね」

「私の家にも欲しいな。…あれ?」

 結菜は身を乗り出し、プールに目を凝らしている。「どうしたの?」私は訊いた。

「今、プールの中になんか見えたよ」

「なになに?」

「私、ちょっとみてくる!」

 そう言ったかと思うと、結菜は手すりをよじ登り、そのままプールに飛び込んだ。「ええっ⁉︎」

 私はびっくりして、水飛沫がたったプールに目を凝らす。彼女が水の中をスイスイ泳いでいくのが見えた。本当に、なんて子だろう。

 数秒後、プールの中から赤いランプを持った結菜の手が現れた。「見つけた!」

 

 赤いランプ?

 

「下着ビチャビチャで気持ち悪い」

「せっかく乾いたのに、急にまた飛び込んだりするからだよ」

 結菜と私は制服を着た。もう乾かしている時間がもったいないからと、結菜は濡れた下着のまま服を着た。

 このランプの正体を確かめることにした。しかし、これが一体なにを示すのか見当がつかなかった。

「なんなんだろうね」私は丸い形のランプを手で撫でながら、タオルで頭を拭く彼女に訊いてみる。

「さあ。交番についてるやつかな?」

「あれはもっと大きいよ」

「そっかぁ…。あ、ちょっと思いついたかも」

 私は結菜に連れられ、校舎の中を抜け、ある場所まで向かった。そこは渡り廊下を抜けたところにある、消火栓がある場所だった。

 消火栓に取り付けられてあるはずのランプが取れている。なるほど、これだったんだねと私は言った。取り外されていたランプを取り付け、消火栓の扉を開けてみた。

 それは消火栓の中にあった。一枚の絵葉書が、消火栓の中に立てかけられていた。私は拾い上げて見てみる。そこには青色の色鉛筆で湖のような絵が描かれていた。これにも、さっきと同じ筆記体の文字が書かれている。

 結菜は私が手に持った絵葉書を覗き込む。

「やっぱり入ってたね。絵葉書」

「湖…かな」

 私はそれがなんなのか見当もつかなかった。湖なんてこの辺りにあっただろうか。あるいは、これはなんのメッセージでもないのかもしれない。

 結菜もしばらく頭を悩ませていたが、しばらくすると顔をあげ、指を鳴らした。

「湖だ!」

「そうだよ」

「だから、私が知ってる湖だよ! そうだ、思い出した!」

 どうやらこの湖の絵は結菜が行ったことのある湖らしく、そこに答えがあるかもしれないと彼女は言った。私たちは明日、ここの湖に行ってみることにした。



 2



 薮へと続く道は、タイヤが通ったであろう二本の筋だけ草が生えていなかった。私と結菜は横並びになり、その道を歩いていく。遠くから聞こえるセミの鳴き声が、他の小さな音を掻き消していた。

「本当に来たことあるの?」

 来たこともない田舎道がどこに続いているかわからず、不安になった私は訊いてみる。

「あるよ。昔に一回だけね」

 二人で道なき道を抜け、緑の丘をいくつか超えた。二つ目の丘の頂上から見た入道雲があまりに大きく、街を飲み込んでしまいそうだった。

 私は思わず立ち止まり、「うわぁ…」と言って雲を見上げる。結菜も立ち止まり、「すごいねぇ」と感心している。

 結菜は入道雲の反対に向きなおり、丘の麓を指差した。

「ほら、あそこに湖が見える」 

 私は覗き込むように、遠くの麓に目を向ける。確かに、そこには絵葉書に書かれた絵と似た風景が広がっていた。すごく高い位置まで登ってきたんだろうか、湖が小さく感じる。

「行こうよ」

「うん」

 二人で丘を下り、湖まで向かった。湖の周りには民家など一つもなく、壮大な緑に包まれていた。

 湖のほとりを歩く。水面のキラキラと眩い光が、光線のように目に刺さった。どこからかトンビの鳴き声が聞こえてきた。空を見上げるが、姿を見つけることはできない。

 結菜は波打ち際の砂利を踏みながら、「どこにあるのかな」と呟く。私に言っているようにも、ただの独り言のようにも取れる。

 私は「うーん」と頭を捻り、絵葉書を鞄から取り出す。「こんなに広いんだよ。どこにあるか分かんないよね」

「どうかな。何か答えがあるかも」

「ここに宝石はないのかな」

「まだ、もうちょっと先かもしれないよ」

 私は結菜に葉書を手渡した。結菜は受け取ったと同時に手を滑らせ、絵葉書を波打ち際に落としてしまった。「あっ!」

 絵葉書は水で濡れてしまった。結菜は絵葉書を拾い上げ、パタパタと振って水滴を落とした。

 そのとき、私はあることに気がついた。思わず「ちょっと待って!」と言って結菜の腕を掴み、彼女が手に持った絵葉書を見つめる。

「どうしたの?」

「いや、ほら、これ見てみて」

 私は絵葉書に書かれたある地点を指差した。湖の中心には離れ小島が描かれており、そこにさっきまでなかった紫色の点が浮かんでいた。結菜もそれに気がつき、「あれ? 本当だ」と眉を上げる。

 私たちは同時に湖に目を向ける。小さな離れ小島が、確かにそこに浮かんでいた。

 離れ小島までは木でできた古い橋がかかっていた。二人で渡る途中、その細い橋が今にも崩れそうで、気がつくと手を繋いでいた。

「ここだったんだよ。色がついてるなんて、水に濡らすまで気が付かなかった!」

「本当だよね」

「ワクワクする」

 結菜は興奮した様子だった。それは私も同じで、こんな意外なところにも答えが眠っていることもあるんだと気付かされる。

 離れ小島は木が生い茂っただけの歩く道すらない藪だった。島全体に枯葉が厚く積み上がり、一歩踏み出すのも困難だった。本当に小さな島で、島の端から端まで五はメートルほどしかなかった。

 結菜は拾い上げた枝で、枯葉の地面を突きながら言った。

「こんな何もない島、なんで橋があるんだろ」

「さあ…あ、あれって」

 私は藪の向こうに小さな小さな鳥居を見つけた。横に伸びた枝をかき分け、ゆっくりと近づいてみる。鳥居の向こうには犬小屋ほどの小さなやしろがあった。

「うわぁ、神社だ」

 小さいながらも本格的なその社に、私は神聖な何かを感じた。紅朱塗りは剥がれ落ち、鳥居は斜めに傾いている。

「お参りして行こっか」

 結菜がなんの躊躇いもなくそう言ったので、私はいささか驚いた。こんな正体のわからないものにも、彼女は純粋な目を向けている。

「そうだね」

 私はおそるおそる鐘の紐を手で掴む。白と赤の紐が結えられていて、手に掴んだ瞬間に、その細さを実感した。

 思い切って紐を振る。取り付けられた小さな鐘が素朴な音を出した。二人で目を閉じ、手を合わせる。その瞬間、私の足元に何かが落ちたような気がした。

 目をあけ、自分の足元を確認する。そこには白い紙が落ちていた。私より先にその紙の存在に気がついた結菜が、それを拾い上げてくれた。

「落ちてきた?」

「うん。紙が」結菜は鐘を指差す。古びて灰色になった、小さくて可愛らしい鐘だった。

「…鐘の中に入ってたのかな?」結菜が言う。

「ええ?」

「とりあえず見てみよう」

 結菜は躊躇いもなく、三つ折りになったその紙を広げた。そこにはまた絵が描かれていた。それは、私の街から見える、高い高い電波塔の絵だった。その絵の端にもやはり、あの筆記体の文字が書かれている。


 電波塔…


「どう? 怖くない?」

「うん! 大丈夫」

 空高くまで伸びているのではないかと思うほど、長い長い鉄の階段。二人で足音を立て、精いっぱい駆け上がる。狭い踊り場に差し掛かるたび、どんどん目線が上がっていくことに気がつく。ありえないほど急な階段で、斜めにしたハシゴだと言われても疑わないほどだった。

 五分前、私たちは街の中心にある電波塔の近くにやって来た。電波塔の根元にある白い建物の中に入り、最上階まで上がる。すると、建物の屋上には電波塔に登るための階段があった。真下から見る電波塔は巨大で、もはや建物の形状が掴めない。「あがろう」私の手を引き、躊躇なく階段の鎖を外して、一緒に塔を登ろうと言い出した結菜。私はさすがにそれはやめようと反対したが、結菜が笑顔で「大丈夫だって」と言うので、結局、私は彼女のあとに続くことにした。

 自分でも何をしているんだろうと思う。きっと、昨日の私が今日の私を見たらど肝を抜かすだろう。でも、結菜についていくと新しい景色が見られる。そのことに、私はかすかな喜びを感じていた。

 しばらく急な鉄の階段を登り続け、ようやく頂上まで到着した。私と結菜は額から汗を流していた。互いに目を合わせ、思わず笑ってしまった。「すごいことしてるね」と、心でそう言い合っている。汗を光らせて微笑むその表情は、本当に爽やかで美しかった。

 住宅が一つ入ってしまいそうなほど広い、丸の形をした頂上。それを取り囲む柵は驚くほど細く小さくて頼りなかった。

 金網のような床に座り込み、柵から足を出して景色を眺めた。私の住む町が、こんなにも小さくて狭い場所だったなんて。

「見つかったら大変だよ」私は言った。

「大丈夫。ここに人はいないから。私たちだけの場所だよ」

 私はもう一度彼女の顔を眺める。彼女の瞳の奥で、黄色く何かが光った気がした。気のせいかもしれない。

 ここで、私は純粋な疑問を投げかけてみた。

「誰が隠したのかな。紫色の宝石。それも…いつ、誰のために?」

 結菜は前髪を片手でかき分けたあと、外に出した足をぶらつかせた。そして、遠くの景色に目を向けたまま話し始めた。

「『吊り橋』があるの。この世のどこかにね」

 吊り橋? 一体なんのこと? 私は小さく呟く。「吊り橋」

「そう。吊り橋。この世のどこかに別の世界に通じる吊り橋があって、その『吊り橋の向こう』の世界の人が隠したんじゃないかって思ってる」

「宝石を?」

「そう。メッセージだよ。私たちに向けた、メッセージ」

 不思議なことを言う子だなと、私はつくづく思った。その話を信じていいのだろうか。でも、それが本当にあるのかないのか、そんなことはあまり重要ではない気がした。重要なのは、今私のすぐ隣にいる人が、私にその話をしてくれているという事実だった。

「叶えたい願いはある?」

 彼女は訊いてきた。

「うん…ある」

「教えてよ」

「弟に会いたい」

「弟?」

「そう。弟とは二才離れてて、私が三才のときに死んじゃった。ちょうど一才でね」

「どうして?」

「心臓の病気だった。治らなくて、そのまま遠くに行っちゃった」

「そう…」

 結菜は細い柵を掴み、俯いたまま、ただ足を揺らしている。涼しい風がもう一度、彼女の艶やかな前髪を巻き上げた。

「会えるよ」

 顔を上げて、結菜は私の目を見て言った。私も結菜の目をよく見た。「そうかな?」私は、口に出してそう言った気がするが、もしかしたら、心の中でそう呟いただけかもしれない。

 今度は私が訊ねてみる。

「あなたは? 叶えたい願い、あるの?」

「私はね、空を飛びたい」結菜は笑顔でそう答えた。

「本当に?」意外な答えが返ってきたので、私は思わず笑ってしまった。冗談なんだろうけど、彼女が言うとおかしかった。

「いや、それもあるけど、私はその世界に行ってみたい。吊り橋の向こうの不思議な世界にね」

「宝石を見つけたら、行けるんだろうね」

「そう信じてる。昔、図書館で借りた本に載ってた、あの古い世界に」

 図書館…古い世界…。彼女が口にするひとつひとつの言葉が、心の中で何度も繰り返される。そして、なぜか懐かしい気持ちになった。やはり、私は彼女と昔に一度だけ会ったことがあるんじゃないだろうか。遠い昔に一度だけ。なんの確証もないのに、そう信じようとしてしていた。なぜか。

 私はその場を立ち上がり、息を大きく吸い込む。おでこについた汗はすっかりと乾き、気がつくと唇が乾燥していた。

 ふと、スカートのポケットに何か固いものが入っていることに気がついた。ポケットに手をいれ、取り出してみる。それは金属製のレトロな方位磁針だった。


 なんでこんなものが?


「うそ」

「どうしたの?」

「コンパス? が入ってた。入れた覚えないのに!」

 私はその丸くて重いコンパスを彼女に見せる。彼女も立ち上がり、コンパスを手にとる。「ポッケに入ってたの? 変だね」

 コンパスはなぜか北の方角しか目盛りが書かれていなかった。一箇所を除いては白紙のようで、まるでコンパスが記憶を無くしているみたいだった。

「北の方角に行けってことじゃない?」結菜はコンパスを覗き見る。私は赤い針に目盛りを合わせ、針が指す方角に目を向ける。結菜は双眼鏡を取り出して、その方向を見た。

「何か見えた?」

「…山があるね。神社の御神体だっけ」

 結菜は柵に手をつき、遠くある山を指差す。コンパスが指す方角をまっすぐに目で追うと、ちょうどその山にぶつかる。まさかと思ったけど、でも、あそこに導かれているのだろう。



 3



 数日が経ち、私たちはその神社に行ってみることにした。電車で五駅ほど離れたその神社は、この辺りでは最も高い位置にある神社として有名だった。多分、私たちが登った鉄塔よりもっと高い。

 電車に揺られ、流れていく田舎の風景を見ながら、ゆっくりと目的地まで向かう。電車の進行方向右の窓には広大な山と田んぼが広がっている。そして、その反対側には海と海岸線沿いの道路が見える。いつも見ている風景だけど、今日はなぜか一段と輝いて見える。

「私、ひとりで探すのが寂しかったの。ありがとう、一緒に来てくれて」

 不意に結菜は、私にそう言った。純粋な瞳で、私の目を見つめる。

「いいんだよ」私は言う。「こっちこそ、ありがとう」

 どうして? と訊ねるように、彼女は眉毛を上げる。

「家にいると気が滅入りそうだったから。部屋に閉じこもってたけど、外に出るきっかけが欲しかった」

「私も似たようなもんだよ。あなたと似ている」

「そう?」

「今まで、ずっとひとりで寂しかった。でも、今の私には麻衣がいる。二人でこうして冒険をしている」

 冒険。その言葉を噛み締める。この電車がその出発になるとすると、きっとどこまでも続く線路を辿って、二人で未知の地平に足を踏み入れるのだろう。

 電車に揺られ、彼女と話をしている時間が何より幸せだった。理由もなく、ただ、ずっとこの時間が続いて欲しかった。


 電車を降りてからは、神社へと続くなだらかな坂道を上った。不規則に曲がりくねった道をぬけ、ようやく石段の下までたどり着いた。二人で長い長い石段を見上げ、「高いね〜」と言い合った。青空まで伸びる階段は、本当に天国まで続いていそうだった。

 時間をかけ、二人で石段を登った。一段ずつ丁寧に、踏み外さないように、慎重に歩みを進める。

 ようやく頂上にたどり着いたとき、二人で息を呑んだ。その風景は、今まで見たどんな風景より壮観だった。青々とした高い空が、街や海、山を形成する大地に覆い被さっている。

「綺麗…」

「すごいね」

「涙出そう」

「本当にね」私は結菜の言葉に笑ってしまう。

 白い鳥居をくぐり、ベンチに腰掛けて、二人で何十分も景色を見続けた。海と陸の境界線、街と山の境界線、全てがうそみたいにはっきりと見て取れた。

「来てよかったね」結菜の言葉に、私は頷く。「本当だよ」

 二人でその景色に見惚れていたため、本来の目的を忘れるところだった。次は一体何があるんだろうと、神社の境内を探しまわる。しかし、なかなかピンとくるものが見つからない。

 これで謎が解けないまま終わりなんじゃないかと思ったその矢先、結菜があるものを指差した。それは、鳥居の隣にある銅像だった。

「これ?」

「うん。ほら、指をさしてるでしょ」

 確かに、その和服姿の人物は広大な景色に向かって人差し指を向けていた。一体どこを指しているんのだろう。私は銅像に近づいてみると、その銅像の足元にコンパスが置かれていた。

「またコンパスだ」

 私が手にしたそのコンパスは、先日みつけたものとは真逆で、南の方角しか目盛りがなかった。ちょうど赤い針の反対側、その先に目を向ける。

「南? 南に何があるの?」

「わかんないよね。こんなに高いと、なにがなんだか」

 私と結菜は持ってきた地図を広げ、神社から南の方角まで直線を引いてみることにした。ノートを物差しの代わりにして、できるだけまっすぐに線を引く。

 神社から伸びる直線を目で追う。直線は川を越え、国道を越えて、私の知っている場所に差し掛かった。

「あ」

 二人で同時にそう言った。直線は、私たちの学校の真上を通過していた。


 学校?


 信じられないような気持ちになりながらも、二人で学校に戻った。私たちが初めて出会ったロッカールームをぬけ、階段を上がり、吸い寄せられるように屋上に向かった。そして、導かれるように、絵葉書があったあの金属製の箱を開けてみた。そこには新たな絵葉書が入っていた。

「天文台?」

 その絵葉書には天文台が描かれていた。今度はただの鉛筆で描いたようで、筆記体の文字も同じ鉛筆の線であることがわかる。

「誰かがまた入れたの? ここに?」

 私の身の回りで、一体何が起きているんだろうか。見えない何かに、確実に導かれている。それは人智を超えた何かかもしれない。思わず身震いがした。

「そうだよ、多分ね。答えはここにあった」

 彼女はそう言って私に微笑みかけた。


 天文台。それは私が小学生のときに行ったことがある、山の頂上の天文台だった。小学校で一度だけ行ったその天文台はよく覚えていて、まさしく絵に描かれたそのままの姿だった。少なくとも、私が知っている唯一の天文台はそこだった。学校の屋上からも見えるあの低い山の頂上、そこに答えはあるのかもしれない。

「行ってみようよ」

「そうだね。行ってみよう!」

 次の日の夕暮れどき、私たちはあの山に行った。結菜も山の上にある展望台を知っていたらしく、絵葉書の展望台がそこを示すものだと確信していた。

 山の頂上に着いたころには、もうとっくに日が沈んでいた。ハイキングコースを外れ、緑の峰をいくつか超えた。大きな谷に挟まれた荒野を抜け、ようやく頂上に辿り着いた。


 そこには確かに古びた天文台があった。緑の草原にポツンと佇む、異端な建造物だった。

「着いたよ」結菜は私の腕を掴み、天文台を指差した。「うん。ようやくね」

 二人で天文台のそばまで行き、入り口の扉を押した。するとなぜか鍵が空いており、簡単にドアが開いてしまった。なぜか電気ついていて、まるでさっきまで人が居たみたいだ。

「うわぁ…」

 中に入ったとたん、二人で声を漏らす。大きなドーム状の屋根が私たちを飲み込んでしまいそうだった。この建物は外から見るより何倍も大きく感じた。

「誰かいませんかぁ?」

 結菜が呼びかける。彼女の声が建物の隅々までこだますが、返事はなかった。結菜は人がいないとわかった途端に安心したらしく、笑顔になる。そして、大きな部屋の中心に置かれた巨大な望遠鏡を指差した。「覗いてみようよ」

「え…、でも、大丈夫?」

「大丈夫だよ!」

 結菜は軽い足取りで望遠鏡に歩み寄り、レンズを覗くための台へと続く階段を登った。やはり恐れを知らない、自由奔放な子なんだと思う。それが羨ましくもあった。

 私も結菜に続いて階段を登った。すでにレンズを覗き込んでいた結菜は、「すごいすごい!」と声をあげた。私は彼女のそばにより、「なになに?」と訊いてみる。

「見てごらん」

 結菜は私にレンズを覗くよう促す。私は言われるがまま、その筒状のレンズを覗き込んでみた。

 そこには紫色の星が光っていた。暗い夜空の中でただ一つ、美々しい灯りを放っている星だった。

「これだったんだね」

 

 私と結菜は外に出て、ドームの頂上へと続く梯子を登った。夏でも外の空気はひんやりとしていて、それでいて湿っぽかった。

 二人で梯子を登りおえ、ドームの頂上に座り込んだ。ここが本当の意味で山のてっぺんなんだろうか。頭上に広がる広大な星空が、自分の魂まで取り込んでしまいそうだった。

 結菜と一緒に、あの望遠鏡で見た紫色の星を見つけた。白い光の粒の中にある、ひとつの紫色。

「ここにあったんだね」私が言うと、結菜は「そうだよ」と言って私の肩にゆっくりもたれかかった。私は結菜の肩を抱いた。

 二人で、永遠にこの星を眺めていたかった。星空の下で、いつまでも。

「願いが叶うよ」

 彼女は言った。私は彼女を抱き寄せたまま呟く。

「そうかな」



 4



 長かった夏休みが終わり、学校がまた始まった。あの日以来、しばらく会っていなかった結菜に会いたかった私は、あちこちを探し回った。しかしどこのクラスの誰に訊いても、そんな人はいないと答えた。まるで結菜は存在しない人かのようだった。

 

 私が見たひと夏の幻だったのだろうか。でも私は結菜をよく覚えているし、彼女の体にも触れた。暖かく、優しい熱を感じた。

 

 放課後に、私はいつものようにロッカーを開ける。あの日、結菜がここで声をかけてきたんだっけ。振り返ると、キラキラと瞳を輝かせた彼女が立っていた。

 靴を取り出すと、ロッカーの中に何かが入っていることに気がつく。何かの写真だろうか、私は手に取ってみる。

 それは、結菜が展望台の上で撮った写真だった。古いカメラを持ってきていた彼女は、私の隣で夜空を何枚も撮影していた。

 ああ、あの写真を持ってきてくれたんだね、と私は言った。

 写真の中央に、紫色の星が光っている。二人で見つけた、たったひとつの夏の宝石。

 ふと、写真を裏返してみる。そこには小さな文字で「あなたへ」と書かれていた。そしてそのそばには、私が絵葉書で何度も見たあの筆記体の文字が記されていた。


 あなただったのだろうか。


 あの日、箱の中に絵葉書を隠したのも、プールの中にランプを隠したのも、神社の鈴の中に紙を隠したのも。全て結菜がやったことなんだろうか。

 頭の中に、熱心に絵葉書の絵を描くあの子の姿が浮かんだ。机に絵の具と鉛筆を並べ、陽が差し込む窓際の机で、熱心に絵を描く彼女が。それをあちこちに隠したあと、ロッカーで靴を取り出す私を見つけ、そんな私に声をかけた結菜が。


 それから時がたち、私は冬に備えて衣替えをしていた。押し入れから衣装ケースを取り出し、部屋のあちこちに服を積み重ねる。

 そのとき、私は押し入れから古い本を見つけた。もはや誰のものなのかもわからない、古い古い英語の本だった。日焼けしたページをパラパラとめくる。すると、一枚の写真が挟まれていることに気がつく。

 写真を手に取り、よく見てみると、そこには一才のときの弟が写っていた。隣には満面の笑みを浮かべた私がいて、弟を抱き抱えている。生まれて初めて見る写真だった。弟の目の中に、黄色い何かが光っている気がした。誰よりも会いたかった、私の弟の姿だった。


 ありがとう結菜。私はそう呟いた。


 その日の夜、眠りにつく前の私の頭に、またあの結菜の姿が浮かんだ。

「じゃあね、また会おうね」

 そう言って、彼女はどこか地平線の彼方へ消えてしまったんだろうか。私を置いて、笑顔のまま吊り橋の向こうへと走っていく結菜の姿が浮かんだ。

「私を連れて行ってよ」そう呼びかけると、彼女は私の手を引き、私を橋の向こうの世界へと連れていく。硬く手を握り合って、夏の日差しの向こうへと、二人で走っていく。そんな私と彼女の姿が見えた。

 

 

 

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