Summer season

side Suguru

第3話 隙のない彼女


 高校の物理準備室内の奥にある、小さな給湯スペースで、僕は彼女に捕らえられていた。一見すると僕が彼女を捕まえて襲っている?ように思われるかもしないが、真相は逆である。

 彼女が僕の腕をつかまえて交差させ、自分を包み込む体勢になるよう隙間に潜り込んできたのだ。正直に言うと、かなり嬉しい出来事なのだが……いかんせんココは学校=職場であって、いつ誰が戻って来るともしれない場所で抱き合うのはちょっと躊躇うものがある。


「あー……秋山さん?」

「怜子」

「……怜子さん。ココでこういうのはちょっと、危なくないですか?」

「窓ないし、奥まってるから大丈夫ですよ」

「いや、でも誰か来たら……」

「ちゃんと用事があってここに来ているので大丈夫です」

「用事って、まさか……」

「……ん、キスして」


 そう言って、ほんのりと頬を染めて見上げてくる彼女。じっと見つめてくる瞳、瑞々しくて魅惑的な唇――に逆らえるわけもなく、吸い寄せられるように口付けを落とした。

 もちろん軽く済ませるつもり……であったのだが、一旦こうなると日頃の物足りなさからか、なかなかどうして離れ難い。

 そうやっていつまでも離れることを惜しんでいると、なけなしの余裕が消え失せて、我慢できなくなっていった。

 危ないと分かっていながらも次第に口付けは深くなり、夢中で舌を絡ませる。最近 覚えたばかりのディープキスは、息苦しいほど官能的で……実に生々しい。

 そうなってくるともう彼女の思うツボというかなんというか――巧みに僕の手を誘導して上着の内側に忍ばせ、気が付いたら僕はただの男になっている――無意識の内に生徒の胸を弄まさぐる変態教師になっているのだった。不本意ながら。


「…………んっ……」


 もっと繋がっていたかったのに、急に彼女が僕から離れてしまった。


「……あの、怜子さん?」

「お湯、沸いたみたいですよ」


注ぎ口の細いステンレス製の薬缶が、僕の背後でシューシューと湯気を立てていた。


「ああ、本当だ。忘れてました」

「しっかりしてくださいよ、克さん」

「え、すみません」

「ふふっ」


 なんだか嬉しそうな、幸せそうな表情で笑うので、一回り以上年下の彼女に叱られてしまったという事実も気にならなくなる。


「怜子さん、なに飲みますか? お茶ですか?」


 ガサゴソと棚を漁りながら、だいたいが緑か白のパッケージで、同じような書体で名前が印字されている――違いがよく分からない――緑茶の品名を見比べる。


「うん。今日は玄米茶がいいなぁ。確か蓮明館の葉がありましたよね。茶色いパッケージのやつ」

「あ、ありました。それにしてもよくこんなもの見つけましたね」

「名品の宝庫でしたよー。せっかく良い物が揃ってるのに、先生は今日もコーヒーなんですか?」

「そうですね。一服は珈琲派なので」

「和菓子のお供でも?」

「今日のところは私は珈琲がいいです。秋山さんもたまにはどうですか?」

「私はお茶が良いのです! せっかく美味しい銘柄が揃ってるのに飲まないなんて勿体ない!」



 呼び方が〝先生〟と〝秋山さん〟に戻っているのは、暗黙の了解で恋人タイムが終了したからだ。

 いつもそうだが、彼女は唐突なことが多く、案外気分屋なのかもしれない。

 それで振り回されることの多い僕だが、そんなことでいちいち一喜一憂していることを十五も年下の彼女にはあまり知られたくないというのが本音だ。

 詰まらない見栄かもしれないし、無駄な努力かもしれないが、彼女に溺れているのを知られるのは流石に恥ずかしいので言うつもりはない。


 僅かな逢瀬が終わってしまったことを少しばかり(いや本当はかなり)残念に思いながらも、ここは学校なのだから〝これでいいのだ〟と自分を納得させる。


 なんだかんだで色々と治まってきたところに、ガチャリと準備室のドアが開く音がして、同僚の一人が入ってきた。

 毎回そうだが、ただ普通に教師と生徒らしく過ごしていた時ですらヒヤリとしてしまう瞬間なのだから、今日のドギマギ感は相当なものだ。人知れず心臓を高鳴らせしながら、顔に不自然な力を加えないように意識する。


 とりあえず抱き合ってキスしている時じゃなくて本当に良かった――




「月島先生、こんにちは」

「おぉ、秋山か。最近よく来るなー」


 ギクリとした。

 何気ない言葉だが、重大な隠し事がある上に、職務中にイケナイことをしてしまったという罪悪感があるせいか、無駄に緊張してしまう。

 何か異変を察知しているのでは?とついつい勘ぐってしまうし、余計なことを言ってしまわないための防御策で、いつも以上に無口になってしまうのだった――



「笠井先生のお手伝いついでにお茶しにきました。ここのお茶って高級な銘柄が多くて美味しいんですもん」

「おいおい、ここは喫茶店じゃないんだからなー?」


 笑いながら冗談を言ってのける彼女はまるで普段通りだ。

 わざと目線を逸らしたり、不自然に無言なったりすることもない。意識しすぎて動きがぎこちなくなるなんてことも無ければ、さっきのアレで服が乱れているということもない。どこから見ても完璧な優等生だ。


 それにしても、いつの間に身支度をしたのだろうか。ほんの少し前にはブレザーの前身頃を着崩して、中のシャツも乱れていたと思うのだが。


「まぁ、そう固いこと言わないでください。月島先生も一緒にいかがですか? タダでお茶をご馳走になるかわりに、今日は調理実習で作った和菓子を持ってきたんですよ。ほらこれ可愛いでしょう?」


 そう言って彼女は僕の同僚に、なにか透かし模様のある紙に包んでいた、練り切りのような饅頭のような丸い和菓子を出して見せている。

 僕のために作ってくれたと聞いたはずの、さっきまで僕と一緒に食べようとしていたはずのそれを――惜しげも無く他人に分け与えようとしている姿を――見ても何とも思わないのが大人なら、僕は大人じゃないのかもしれないな。

 三十二にもなって独占欲と嫉妬でモヤモヤしたものを抱えているのだから。

僕だけの〝特別〟じゃなかったの?と詰りたいのは山々だが、それを人前でうっかりと口に出すほど子供ではないので……。

 二人が『さては賄賂か?』『違いますよ~』などと楽しそうに会話する傍らにあって沈みゆく己の感情をもて余しながら、平静なフリを保っていた。



「おぉ~、凄いな。というより上手すぎないかこれ。本当に秋山が作ったのか? 市販品で誤摩化してないか~?」

「違いますよー。正真正銘の手作りです。最近ずっと製菓の日が続いてて、やっぱり洋菓子の方が人気があるんですけど、私は餡子が好きなので一人だけ和菓子をチョイスしたんです」

「にしても上手いな~。秋山は料理も得意なのか。流石だな~。ねぇ? 笠井先生」

「……え? あ、そうですね。とても上手です。うん、本当に売り物みたいです……秋山さんは器用ですね」

「ありがとうございます。お二人ともどうぞ召し上がってください。あと、高井先生と金森先生の分もちゃんと用意してあるので安心して食べてください」


 ちなみに毒味は済んでおりますので、と付け加えた秋山さんの座るソファー席の斜め隣に、月島先生が盛大に笑いながら腰掛けて和菓子をつまみあげる。僕は月島先生から少し離れた隣の席で、むず痒くて落ち着きのない自分の心を圧迫して縮小させることに専念していた。


 どうにか心を落ち着けようと今日のタスクを考えながら、淹れたての珈琲を流しこむ。言わずと知れた好物だというのに、この時ばかりはいつもの三割増で苦く感じて複雑な思いだった――最大級空腹が不味い料理を美味しく感じさせるのと同じ原理だろうか――


 そんな風に内心で齷齪あくせくしてたため、目の前の和菓子に手をつけるのが遅くなっていると、僕の彼女の手作りをペロリと平らげた同僚が、ひょいと僕の分を取り上げながら言い放った。


「笠井先生、食べないんですか? なら俺がもらっちゃいますよ~」

「え? あ、ちょっと、待っ……」


 言いかけた頃には月島先生の口に吸い込まれて半分欠けた状態で。

 あまりの出来事に目を見張るばかりで何も言えずにいると、くすくすと笑う声が聞こえてハッと我に返った。


「月島先生、欲張りすぎですよ。そんなにお腹空いてたんですか? 笠井先生ビックリされてますよ」

「いやー、悪い」

「い、いえ……」

「あまりの美味しさについ、な」

「気に入っていただけたならと嬉しいです。こんな練習作で良ければまた作って差し入れしますけど」

「おお、本当か。期待してる!」

「ではその代わり私の分のお茶の確保をよろしくお願いします」

「やっぱり賄賂か!」

「だから違いますってー」


 なぜか盛り上がって賑やかなことになっているが、僕の頭には全然会話が入ってこなかった。



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