第4話 好ましい生徒


 自席に戻り、小テストの採点作業を続けながら……考えるのは先ほどの出来事だ。

 僕の頭の中には、ぼんやり曇ったガラス戸のような仕切りがあると思う。複数の作業や思考をする際に活用されるその場所――世間一般には〝頭の片隅〟と呼ばれるその場所で、現在進行形で怜子さんを巡る一連の映像がくり返し流される。


 僕の分の菓子が同僚に奪われて、なんだか僕への愛情も奪われた気分だ。

 おまけに彼女は全然、全く、これっぽっちも気に留めていない様子で……どちらかというとそっちの方がはるかに凹む。


 あの後ひとしきり世間話をし終えると、彼女は僕の手伝いでプリントのホチキス留めとクラス分けをしてくれた。そして仕事を終えた彼女はあっさりと退室していったのだ。

 その瞬間の言いようのない脱力感――体中を巡って支配しようとするそれを、顔には出さずに済んだことだけが救いだ。

 彼女とのことで、ボロが出なくてほっとしたというのは勿論ある……でもそれ以上に、彼女の僕に対する好意をおくびにも出さない普通すぎる態度が妙にこたえて。

 当たり前のように残りの和菓子を他の先生方の机に置いて回っていた姿に物申したいのを懸命にこらえた。


 付き合い始めてもうすぐ1年になる僕らだが、周囲から疑われている気配は全くない。

 彼女のその鮮やかな対応と、普段の真面目で熱心な人柄ゆえに寄せられる信頼、それを裏付ける教育評価のお陰だと思う――つまり彼女の努力の賜物だ。感謝こそすれ不満を抱くなんてこと、あるわけがない。

 なのに、月島先生と親しげにやりとりをする様子にモヤモヤするのを抑えられない。

 それはあまりに見慣れた、学校での彼女の姿そのものだからだろうか。

 本当はこっちが彼女の素で、僕といる時の彼女の姿こそが仮初めのものなのでは?という有り得ない妄想をしてみたり……つまらないことでイライラして、明るく気さくで頼り甲斐のある先輩の月島先生が、一瞬でも憎らしく思えたり、側にいるだけで不快に思えてしまうことすらあるのが現状だ。


 そんな身勝手すぎる自分の心に振り回されることに辟易へきえきして、二乗三乗で疲れる――

 僕を取り巻くマイナス方向の感情は、この自分で自分に嫌気が差していることが影響しているのだろうなと、が事ながら他人事のように考察し、分析する。




     *




「いやー、秋山は見た目によらず面白い子ですよね~」


 年配の先生方が先に帰宅され、再び月島先生と二人きりとなり、シンとした室内で黙々とデスクワークをしていると、休憩に入ったのか月島先生が唐突に切り出した。

 僕しかいないのだから当然僕に話しかけているのだろう。秋山怜子の話題にはあまり触れたくないのだが、無視するわけにもいかないので適当に返事をする。


「……そうですか?」

「最初はもっと大人しい子なのかと。いかにも真面目でお固い雰囲気だから、優等生に有りがちな、ちょっと気難しい控えめな生徒かと思ってましたよー。社交性のある模範生がいると助かりますよね。そのくせ融通が利いて、冗談も通じるし、言うことなしだな~」


 貴重貴重……うちのクラスにもああいう子がいればな~と、独り言のように呟きながら、感心したように月島先生が何度も頷く。


「…………」


(そうか、月島先生はC組の担任だから。行事でよくD組と合同に……だから詳しいのか)


「あの子が来ると場が和むというか、纏まるのが早いんですよね。先月の体育祭じゃ理系進学組の中でもことさら団結力が高くて一貫組に負けるとも劣らない勢いでしたしたからね~。これは学園祭も期待大だな」

「……(怜子さんは運動も得意ですからね。絵に描いたように文武両道です……)」

「いやー、いい子だわ。秋山怜子。気が利いて、賢くて、おまけに美人。嫁にするならやっぱああいう良妻賢母タイプだよな~」

「月島先生……あまりそういうのは口外しない方が。良くないですよ、他の生徒が聞いたらどう思うか――というか、もうご結婚されてるじゃないですか……!」

「いやいや、勿論ここだけの話ですから。それにこの程度なら職員室でもよく話題になってるじゃないですか~。一般論ですよ一般論! まさか表立って贔屓するわけでもなし」

「それは、普通そうでしょう……?」

「教え子はみんな同じように接してるつもりですけどね。でも完全に平等ってわけではないでしょう? 教師だって普通の人間ですし、密かに気に入った生徒の一人や二人……逆に心配で気に掛かる生徒の一人や二人や三人。できでしまうのは仕方が無いでしょう!」

「それはまぁ、現実はそうなのかもしれませんが……」

「笠井先生だっているでしょ? そういうのが顕著な生徒」

「まぁ、無きにしも非ず、と言いますか……」


(特別というか、格別というか……もはや別次元の生徒が約1名おりますが……)


「ほーら、な! 同罪ですよ同罪!」

「でも僕は月島先生のように口に出したりしませんよ。他の生徒へ示しがつきませんし……失礼じゃないですか」

「またまたぁ~、思ってるのを言わないだけで、俺と同じじゃないですかー。仲良くいきましょうよ。笠井先生だって秋山怜子、好きでしょ?」

「そりゃまぁ、良い生徒だとは思いますけど……」


(――ちゃんと一生徒として対応できているのか、甚だ疑問です)


「それ見ろ~~。あー、明日も来ないかなぁ、秋山怜子」

「彼女も連日来るほど暇じゃないですよ、きっと」


(――というか、あまり気安く名前を呼ばないでいただきたい)


「ですねー。最近の高校生は我々大人に劣らず忙しい身ですからね~。授業の後には塾に部活にバイトに稽古事。友達と遊んだり、恋愛したり。特に女の子はそういうの好きですからねー。あんまり夢中になって勉強が疎かになるのは困りますが。いいですよねぇ、青春真っ盛り! 羨ましい!!」

「…………」


(――確かに。怜子さんは優秀なので、恋に夢中になったりしませんけどね。色々やってますが学業最優先です。部活は週2、バイトが週3、彼氏とのデートは月2回以下。成る程きっちり管理されていて素晴らしいですね……)




 日に日に秋山怜子贔屓に拍車がかかり、準備室内でのみの交流――だと思われるとはいえ、明け透けな話題で盛り上がっては彼女と親密さを増してゆく月島先生と、怜子さんにまつわる話をするのは気が重い。

 余計な事を言ってしまわないよう細心の注意を払う必要があるとかそういうの以前の問題で、自分が擦り減っていくのが分かる。


(こう言ってはなんだが……怜子さんが〝好いい生徒〟すぎて困る)


 一言で示すなら〝独占欲〟に尽きるのだろう。

 いい加減、ほかの男と自分の恋人の情報を共有するような会話に嫌気が差してくる。

 僕の方が彼女に近しい存在なはずなのに、無関係であるフリをしているうちに、本当は月島先生も僕と同じくらい彼女を知っている――あるいは自分が月島先生と同じくらいにしか彼女のことを知り得ていない。そんな気分になってしまうのだ。


 彼女の恋人として、優位な立場でいたいのに、表立ってそれが叶わないということが、こんなに苦しいものだなんて……思ってもみなかった。


(職場恋愛なんてするもんじゃないな……)


 正確には違うけど、気分的にはそんな感じだ。他の同僚たちに知られるのが恥ずかしいとか面倒だとか、社内恋愛が禁止されているとかで周囲には秘密にしている場合の職場恋愛と似ている。


(まぁ、こちらは下手したら仕事を失いかねない極めて特殊な事例だけど)


 意外なことに、身近に実例は多数ある。皆さんきっと、在学中は公にならないよう努力していたのだろう。誰々先生の妻や夫は元生徒だという馴れ初め話は、教師同士の宴会席ではしばしば耳にする話題であった。

 だからといって、安心も油断もできないし、背徳行為に対する罪悪感は、彼女が卒業するまできっとずっと消えないんだろうけれど――


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