第三十一回 主人公って、共感するもの? 憧れるもの? その3

 はじめての方はよろしくお願いします。

 お馴染みの方はようこそ懲りずにお越しいただきました、虚仮橋陣屋(こけばしじんや)でございます。


 さて第三十一回ですが、前回の続きです(あえて説明しないことで以下略)。


 では、張り切ってお送りします!




■読者自身と主人公の重ね合わせ


 読者の、主人公に対する「共感」って、「外見」や「容姿」じゃなくって、もっと「内面的な」行動指針だったり、ポリシーだったりにあると思うんですよね。


 前の回で映画「ロッキー」を引き合いに出して、結果的に「シルベスター・スタローン」の「外見」や「容姿」ってプラスに働いたよね! という、なんとも矛盾だらけの結論に達したこけばしが言うことじゃないんですけどもー。



■どうしてそうなった


 たとえば、エロゲです。

 どうして知っている、とかは言わない約束で。



 エロゲ、いわゆる美少女ゲームの主人公って、たいていボイスがなくって、目に見える人物像もシルエットのみ、ほんのちょっと文章による補足(髪型やら学校におけるポジション・カースト的なもの)しかないですよね。あれには、やっぱり理由があると思うのです。


 主人公に感情移入して、「なりきる」ためには、余計な人物描写を入れてしまうと、プレイヤー(=読者)との差異が明白になってしまうから、じゃないでしょうか。


 もちろん、ちゃんと良いグラが用意されていて、さらにはボイスまである美少女ゲームの主人公だっていっぱいいます。でもその場合、「共感」を得るのが目的ではなく、「憧れ」や「理想像」であれとの願いを込め「英雄視」させるためではないのでしょうか、って思うんです。


 要するに、その目的に応じて使い分けられている、ということなのですよね。きっと。



■じゃあ、物語の場合なら?


 ですので、これを物語に置き換えた場合には、主人公に対して、読者にどう思ってもらいたいか、が重要になると考えます。となれば、その物語のジャンルによって、その選択もまた変わってくると、こけばしは推測したのですね。


「学園ラブコメ物」であれば、当時に立ち返って、もしくは同世代の学生・生徒として、自分を重ね合わせることで「共感」してもらい、成り上がったり、モテモテウハウハになったり、そういうIFもしストーリーを楽しむ(楽しませる)ケースの方が多いのでは? と思うのです。



 あ、でも「チラムネ」(『千歳くんはラムネ瓶のなか』裕夢センセイ・著)とかは少し違うかもですよね。



 陰では「ヤリチン糞野郎」と叩かれながらもスクールカーストの頂点に君臨するリア充で元野球部の主人公、千歳朔クン。イケメンで頭は良く、運動神経も抜群ときたら、なかなかにして読者の反感を買いそうなキャラクター設定です。


 ですがその実、いわゆる「おまいらと一緒」状態の部分もあって、カッコいい! 惚れる! という「憧れ」とともに、わかるぜーわかる! という「共感」を得たという、とても優れた完成系のキャラクター像だと思います。「なりたい」部分と「同じ」部分を持っているんです。


 また、これが「時代物」ならどうでしょうか。


 この場合は特に極端な例になるワケですけれど、史実に隠れた「英雄譚」に近しいものになるかと思いますので、「共感」してもらうよりは「憧れ」がより強く押し出されている必要があると思うのです。なにより「追体験」なワケで、現在進行形の物語ではないですから、「共感」というのは難しいように思いますよね。


「ミステリー」もそうですよね。往々にして、天才のヒラメキ、見事な推理劇を楽しむ作品なので「共感」はやはり控えめにせざるを得ません。「才能に圧倒される」ものでないとイケナイ、そう思うんです。そう、ようやっとここで、前々回の「数少ない友人を失いかけた」エピソードで振りかざした「ジャンルによって変わるんじゃないの?」に繋がるんです(長ぇ)。



「読書量が足りない。やり直し」

「そうじゃないパターンもあるだろwww」


 うんうん。

 おっしゃるとおりです。



 しかし、なにごとにも例外があるもので、その例外が不確定因子イレギュラー、他にはない魅力に繋がるんじゃないでしょうか。その不確定因子こそがヒット作を生み出すためのヒットなのかな、と。


 そのひとつの成功例が「チラムネ」でもあるのでしょう。



■だけれども……うーん


 ただ、現在の日本においては、純粋なヒーロー像って描きにくい、人気を得にくいと思うんですよね(また爆弾発言?)。


 正確な統計学に基づいたデータはないのですが、それが「カクヨム」をはじめとするさまざまなWeb小説投稿サイトに表れているような気がしてなりません。



「いじめ」、「ぼっち」、「ニート」、「引きこもり」etc.……こういったネガティブな背景をもつ主人公が散見されるのを目の当たりにすると、どうしてもその思いがぬぐえないのです。そういった「しいたげられた」主人公たちが、「復讐」、「ざまぁ」、「モテモテ」、「人気者」となっていくのが王道だ、サクセスストーリーなのだ、というのは、なんだか不健全な気もしてモヤモヤするのです。


 実際にそういった境遇に置かれている人が、ラノベ購読者層の大半を占める、というのであれば納得もいきますが、そうでない人もそれなりに多いと思うんですよね。


 これを一般人の目線で、ひねくれて解釈してしまうと、



「自らの不遇な人生にストレスを感じ、その自分と似た『主人公』を『代行者』に見立てて、害を成す者たちに対して理不尽なまでのチカラと能力を行使し、一方的に服従させる物語」



 といった、かなりマイナスなイメージ像をも生み出しかねないのかな、と。



「読解力不足乙」

「決めつけすぎwww」


 うんうん。

 こけばしだってそう思います。



 けれど、この偏向って、かつてアニメオタクに対して行われたことと割と似ているんじゃないかな、って思うんですよ。だからこそ今、ちょっと不安なのです。



『――帰宅途中の小学生女児に性的な行為をしたとみられている。なお、○日に警察が行った自宅捜索では、○○容疑者の所有していた大量の美少女アニメやゲームが見つかっており――』



 こんなニュース、見たことがない人はいないと思います。

 と同時に、激しいいきどおりを覚えた方も多いと思います。



 そして、これを書いているつい先日、あの忌まわしくも悲惨極まりない「京アニ放火事件」の、青葉被告の初公判が行われました。そして、その公判中、「自分の書いている小説が盗まれたから」と犯行に至った動機を証言しています。


 もちろん、あんな言葉に真実味を感じるモノカキはいないでしょう。

 嘘をついている、そういうつもりはありませんが、幻想と妄想の産物だと思っています。


 ですがしかし、今なお続く「アニメオタク・バッシング」も、このような一見馬鹿げたように思える序曲からはじまったのではなかったでしょうか。



 昭和六三年から平成元年にかけて、東京都および埼玉県で計四人の幼女・女児が殺害された「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」。


 その犯人である宮崎勤の自室は、膨大な量のアニメや特撮のビデオテープで埋め尽くされていました。それを見たマスコミ各社は、宮崎を「オタク・ロリコン・ホラーマニア」として報道したのです。


 それが、特に若く幼い女性が被害者となった際の「お約束」、恒例の「容疑者のお部屋拝見」に繋がったのです。ほら! やっぱり! アニメ持ってたじゃん! という悪質な偏向報道に。


 その後も宮崎の犯した犯罪は各方面・各業界に大きな、あまりに大きな影響を及ぼしました。



 少し話が脱線してしまいました。

 この話題はここで終わりにしておきましょう。


 これはあくまでこけばし個人が今抱いている「危機感」です。

 異論、反論は甘んじてお受けします。スミマセン。




 そろそろお終いの時間です。


 次回は別のテーマにて。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。



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