第二十九回 主人公って、共感するもの? 憧れるもの? その1
はじめての方はよろしくお願いします。
お馴染みの方はようこそ懲りずにお越しいただきました、虚仮橋陣屋(こけばしじんや)でございます。
さて第二十九回ですが、ちょっと書いていて、自分で良く分からなくなってきてしまったことがあるので、なにとぞ傾聴くださいませ。
では、小首を
■一人称視点の物語の主人公って、共感するものなの? 憧れるものなの?
タイトルおよび冒頭にも書かせていただきましたが、X(Twitter)のタイムラインに流れてきた「とある質問」のこたえを考えているうちに、皆さんはどうなんだろう? とふと疑問に思ってしまったことがあります。
それは、見出しのとおりで、
「一人称視点の物語の主人公って、共感するものなの? 憧れるものなの?」
というものです。
そもそもの経緯としては、「一人称の物語を書く時に、主人公の外見や容姿の描写をする? しない?」という投稿がタイムラインに流れてきたことにあります。
これは単純な「イエスorノー」で解決する問題ではないですよね。
こけばし個人としては、以下のようなパターンで主人公の描写をしてきました。
・(容姿に自信がないので)他の生徒たちと比べて自虐的に「地の文」で説明(愚痴)する
・(学園モノで)主人公の口からは説明せず、最初に出会った友人がざっくりと語る
・(タイムリープモノで)過去に戻った主人公が鏡を見て当時の記憶とすり合わせる
・(オタク気質の主人公が)自分の境遇を皮肉混じりにディス語りする(ただし容姿は抜き)
・(異世界転生モノで)転生させた女神が失敗作として散々にこき下ろす
・(神の視点で)第三者的な外見の描写をする
こんなところでしょうか。
こけばしの個人的な見解としては、一人称視点の物語で、自分の外見や容姿について、こと細かに、ポジティブな捉え方で主人公が語り出す、というのは、ちょっと……と思っています。
その理由としては、
・いかにも説明臭く、文章として稚拙に見えてしまうかな……? と危惧しているため
・自分自身にそこまで自信を持っている「勝ち組」系主人公がいないため
・勘違いナルシストでもない限り、自分のことを自分で
中二病的要素を持った主人公なら、唐突に自分語りをしても違和感はないかも
こんな感じ。
これは、世界観や設定とも通ずるところがあって、いきなり語り出してすっかりさっぱり説明したとしても、その後に同様の描写がなければ、人間の記憶なんて案外頼りにならない、と思っているからです。これは過去の回でも書いたことですけれど、繰り返し出てこない「特徴」なんて「個性」とは呼べないと思うからでもあります。ようするに、没個性、という奴。
また、(書き出してみると案外語っていましたけれど)主人公の「外見」や「容姿」って、正直そこまで「重要ではない」と考えるからです。
ち――ちょっとちょっと!
石投げないで、まずは話を聞いて下さいってば!
■で……実際の話、どうなのよ、と
ふう。
そう、ここでタイトル回収をするワケなんですけれど。
そんな極論をわめき散らすその理由とは、こけばしが書く主人公は「憧れて惚れる対象」ではなく「共感して自己投影する対象」として書いている(つもり)からです。
俗に言う「主人公」って、この2パターンのいずれかだと思うんですよ。
もちろん、ひとりの「主人公」で両方を
そんな、数少ない友人を失いかけたこけばしですが。
ジャンルによって変わるんじゃないの? と、まーた無茶なことを言ったワケなんです。映画をこよなく愛するこけばしですので、モノカキのくせしてサンプルが映画なのはご勘弁いただきたいのですがー。
たとえば映画「ロッキー」。
いくつもの素晴らしい賞を与えられた大ヒット作品ですので、主人公である「ロッキー・バルボア」は先に挙げた2つの特性を両方とも持っています。しかし、それはイーブンではなく、「共感して自己投影する対象」としての側面がより強い、と思うんですよね。
上映当時、映画館から出てきた青少年たちは、鏡の前でシャドーボクシングをしたり、翌朝ランニングに出かけて脇腹の痛みにのたうち回ったり、スーパーの精肉コーナーでラップ越しにステーキ肉を叩いたり(注:迷惑なので止めましょう)したと言います。つまり、主人公「ロッキー・バルボア」に「共感」して、こんなうだつが上がらない俺(僕)でも、決して諦めず挑戦することで、人生の目的や愛を見つけ、掴むことができるかもしれない、そう、ロッキーのように――と、ワケも分からぬ激しい衝動に突き動かされてしまったゆえの「奇行」だったのではないでしょうか。それは「ロッキーのようになりたい」という共感なのだと思います。
もちろん、憧れもします。
「恵まれていない」、「チャンスさえあれば」、「成り上がりたい」という自分の境遇と重ね合わせられる部分もありますけれど、それとは逆に、主人公「ロッキー・バルボア」の不屈の精神は、「共感」よりも「憧れ」が優ると思います。
世界ヘビー級タイトルマッチの対戦相手として無名の冴えないボクサー「ロッキー」を指名したのは、チャンピオンの「アポロ・クリード」。屈指のエンターテイナーであり、それに見合った確固たる実力も伴った強敵。ブックメーカー(賭博の胴元)の事前の予想では、五〇対一とその差は歴然!
しかし、勝利することはできなくても、「15ラウンド終了までリング上で立っていられたなら、自分がただのゴロツキではないことを証明できる」と、幾度も強烈かつ致命的な一撃を喰らいながらも、何度も、何度も立ち上がり続けます。それは、愛する恋人、エイドリアンのため。そして、こんな自分を信じて支えてくれた、親友でありエイドリアンの兄であるポーリーや、一度は見限りながらもロッキーの決意を本物だと信じ、辛抱強く鍛えてくれた老トレーナーのミッキーのため。それからなにより、自分自身のためでした。そこに憧れがあります。
このふたつを比べること自体がおかしいのかもしれませんけれど、映画「ロッキー」の主人公「ロッキー・バルボア」は、より「共感」を得たことで、不動の地位を獲得したのではないか、とこけばしは思うワケなのです。
おっと、そろそろお終いの時間ですね。
今回のテーマ「主人公って、共感するもの? 憧れるもの?」について、まだ途中になってしまいましたので、次回もこの続きからお届けします。いつものこと? それは言わない約束でしょ!?
ではでは。
次回もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
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