第4話 カーテンの影でこんにちは

 約束の日、あかねは自室を熊のようにうろうろと歩き回っていた。今日はクリームイエローのワンピースに真珠のネックレスとイヤリング。顔ができるだけ明るく見えるよう入念にメイクをし、髪は邪魔にならないようアップに結い上げた。


 食堂の準備は問題ないと蒲田かわたが確認してくれたので、懸念事項はあと一つである。


「お父様は本当に戻ってきてないわよね?」

「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ、お嬢様。さっき、ピサの斜塔を背後にとった写真が送られてきましたから」


 蒲田が自分のスマホを差し出す。そこには能天気に両手を挙げている徳三とくぞうの姿があった。いい年して何をやっているんだと茜は思ったが、とりあえずイタリアにいることは確認できた。


「お嬢様、西園寺さいおんじ様が到着されました」

「は、はいいい!!」


 呼ぶ声に全力で振り向いた茜を見て、蒲田が笑う。


「落ち着いてお出迎えしましょう。私もおりますから」


 二人で正面玄関へ向かうと、そこに微笑む西園寺がいた。今日の彼は紺のジャケットに無地のベージュパンツ。スーツではなくやや砕けた格好だったが、またそれがいいと茜は心の中でつぶやく。


「お招きいただきありがとうございます、神月こうづきさん。いったいどんな仕上がりになったか、楽しみですよ」

「……そうね。私も実は、完成品を見せてもらってないのよ」


 西園寺のデザイン画はシェフに渡したのだが、それから「完成してからのお楽しみです」と言われ、茜は一切厨房に入れてもらえなかった。西園寺の眼鏡にかなう菓子になっただろうか、とやや不安になりながら、茜は食堂に入る。


 白いテーブルクロスがかかった食卓の上には、春にちなんでピンク、ゴールド、白で統一されたコーディネート一式が並んでいた。ディナープレートはたまきが気に入っていた桜紋様の皿、そしてその傍らには金のカトラリーと美しく咲き誇る桜の枝が飾ってある。


「西園寺様、お待ちしておりました。私が本日の調理を担当させていただいております」


 卓の側に立っていた神月家のシェフ、高峯たかみねが礼をした。


「ありがとうございます」

「お昼時です。食事はお済みでしょうか? ご希望でしたら先に軽食をお出しすることもできますが」

「いえ、先に試食してみたいです。そのために、食事を控えてきましたので」


 子供のようにわくわくした顔で西園寺が言う。その後ろで、茜は目配せをしてみせた。高峯は軽く会釈して、厨房に消える。


 そして着席し菓子が運ばれてくると、卓上が一気に華やかになった。


 高峯が持ってきたのは、二種類の菓子だった。白地に赤い林檎が映える四角いケーキ。その上には優美な流線型の飴細工が飾られている。そして逆に黒っぽい色で、しっとりとした艶を放つ丸いショコラ。


「素晴らしい再現度です」


 西園寺の手放しの賞賛を受けて、高峯は礼をした。


「確かにこれなら完璧に見た目は洋菓子よね。向こうの人でも拒否反応はなさそう。……でも、中身まで完全に洋風なんじゃないの?」


 茜がいぶかると、高峯は面白そうに笑った。


「さあ、どうでしょう。食べてみてください」


 茜はまずケーキを頬張った。プチサイズなので、一口でぱっくり。そして口の中でケーキの全てをゆっくりと噛みしめる。フレッシュな林檎の果肉からくる酸味がまずいっぱいに広がり、そして遅れて、かすかに残る和風味。茜はしばらくして、その正体に気付いた。


「これ、白餡? じゃあもしかして、ケーキじゃなくて……」

「はい。フルーツの果汁とカットした果肉、白餡を組み合わせた羊羹です」

「羊羹!」


 あまりに意外だったので、茜は思わず叫びに近い声をあげていた。


「私も自分なりに調べてみましてね。普通の餡が苦手な人でも、白餡なら食べられたというブログを見つけました。それにフルーツを組み合わせると、ぐっと洋菓子っぽくなりますでしょう」


 高峯はにこにこしている。


「そうね。最初は私も和菓子だと思わなかったもの。これなら抵抗感はだいぶ薄れるはずよ」


 茜が手放しで褒める横で、西園寺は少し眉間に皺を寄せている。


「ですが、賞味期限はあまり長くありませんよね……船便で運ぶことになると、厳しいかも」


 その言葉を聞いても、高峯は動じなかった。


「今回は生の果肉を使いましたのでフレッシュな感じになりますが、ドライフルーツでも美味しいでしょうね。海外に運ぶのであれば、そちらの方が適していると思います。作ってありますが、試食されますか?」


 それを聞いた西園寺は満足げにうなずいた。


 目の前に運ばれてきたのは、薄い羊羹。白い羊羹の上には乾燥させた苺がのっていて、それを囓るとサクサクとした食感が楽しめる。


「もちろん中に入れ込むこともできるんですが、軽く召し上がっていただくならこちらの方が面白いかと思いまして」

「美味しいわ。しっかりしたコース料理の後でも喜ばれそうね」

「デザートの盛り合わせに一つあっても、遜色ないと思います。本当に素晴らしい」


 ひとしきり盛り上がってから、高峯が口を開いた。


「外国展開をお考えなのでしたね。それでしたら、実際に外国の方々をお招きしてはいかがでしょう? ご用命いただければ、パーティーの用意はいつでも承ります」

「そうねえ。知り合いに声をかけてみるわ」

「僕の母にも日本在住の友人がいます。もしかしたら、彼らの何人かは都合がつくかもしれません。これは食べて損はないぞ、と触れ回っておきます」


 自画自賛かもしれない。しかし未来は明るい、と茜には思えた。西園寺も同じ気持ちなのか、来た時より明らかに目が輝いている。


「一段落してほっとしたわね。西園寺くん、ちょっと遅くなったけどご飯にしない? これくらいじゃお腹いっぱいにならないでしょ」

「いいんですか、ありがとうございます」

「ということで高峯。美味しい和食をお願いできるかしら」


 茜が目配せすると、高峯はうなずいた。


「かしこまりました。では、タケノコご飯がちょうど炊けた頃ですので……それに合わせて何品かご用意しましょうか。お嫌いではないですか?」

「大好きです! お待ちしています」


 西園寺は弾んだ声で答える。茜がほほえましく彼を見ていると、にわかに人の足音が聞こえてきた。


 その音はだんだん大きくなる。茜がいぶかっていると、やってきた蒲田が珍しく慌てた表情で茜に耳打ちしてきた。


「お嬢様、陸斗りくと様が帰ってこられました」


 一瞬、茜は何を言われたのか理解できなかった。


「ですから、お兄様がおいでなのです。しかも、お嬢様との面会を求めておられる。できる限り引きつけておきますから、西園寺様をどこかに避難させてください」


 蒲田に背を押され、茜は我に返った。ヒールで全力疾走し、あっけにとられている西園寺を玄関脇の控えの間へ押しやる。応接セットの下に敷かれた絨毯が、上手い具合に足音を消してくれた。


「……でも、いずれは探しに来るわよね」


 陸斗はこうと決めたら人の話を聞かないから、おしゃべりで稼げる時間はごくわずかのはず。


「普段は決して帰ってこないのに……お兄様、こんな時にどうして」


 もし見つかったりしたら、とんでもなく面倒なことになると茜は落ち込んだ。でも、西園寺に関しては諦めたくないし、兄にも認めてもらいたい。


「挨拶くらいはいいんじゃない? どんな人の中にも天使と悪魔がいるというし。今日は天使のお兄様かもしれない……」


 茜は想像してみた。


 悪魔の陸斗:茜に男の客だと!? けしからん、猟銃で撃ち抜いてくれる!

 天使の陸斗:いけません。血で絨毯が汚れてしまいます。毒殺にしましょう。


「ダメだわ」


 どっちに転んでも西園寺がひどい目に遭う未来しか見えないことに、茜は絶望した。なんとしても西園寺の盾にならなければ、神月家そのものにも危害が及ぶ。


 ひとりわななく茜の横で、西園寺は状況が分からず困惑していた。


「あの……どういうことですか?」


 説明を求めるように、西園寺が茜を見てくる。茜ははっとして、彼に向き直った。


「お兄様が帰ってきてるの。なんというか常識外れというか……エキセントリックというか……とにかく変わった人で、私に男の来客があると凶暴になるの。うちはお父様もちょっとその気があるけど」


 茜はより深いため息をつきながら、窓枠に手をつく。


「二人ともお母様が亡くなってから、私のことを守らなきゃという意識がますます強くなっちゃったみたいでね。高校、大学と、私の恋人は文字通り家の敷居をまたいだことすらなかったわ。一人強行突破しようとした男がいたけど、どうなったかは聞かないでね」

「へ、へえ……」

「私が悪い男に遊ばれるんじゃないかって心配は分からないでもないけど、ちょっとやりすぎなのよ。でも本音を伝えたって、そこだけは譲ってくれないし」


 それを聞いた西園寺は、何か言いたげな顔をしていた。茜はそれ以上いけない、という意味をこめて肩をすくめる。


「というわけで、君は見つかるわけにはいかないの。まあ、蒲田たちがうまくやってくれるだろうから、しばらくここでやり過ごして──」


 茜がそう言った途端、廊下から足音が聞こえてきた。根拠は何もないのだが、陸斗だと茜の本能が告げてくる。


「こっち!」


 茜は指先で、素早く分厚いカーテンをつかみとった。そのまま西園寺の腕を強く引っ張り、長いカーテンの中に隠れる。足下までの丈があるから、陸斗が這いつくばらないかぎり姿は見えないはずだ。


 完全に隠れるのとタッチの差で、扉が開く音がした。


「人の声が聞こえた気がしたが……」

「ですから、茜様は奥にいらっしゃいます。あくまでビジネスのお話のためで、先方ももうお帰りになる頃ですから」

「そうか……じゃあその前にとどめを刺さないと……」

「陸斗様!!」


 蒲田と陸斗の会話を聞きながら、茜は全身に冷や汗をかいていた。だがしばらくして陸斗が諦めたのか、足音が遠ざかっていく。


 茜は安堵の息を吐く。そして次の瞬間、体に何かが抱きついていることに気付いた。


「え、まさか」


 茜は視線を背後へ送る。


 密着している。いつの間にか茜の体を包み込むように、後ろから西園寺が抱きしめている。それを自認するだけで、茜の全身はかっと熱くなってきた。カーテンの中という密室のような状況も、ますます恥ずかしさを加速させる。


「あ、あの……離れて隠れても……」

「さすがにカーテンが二人分の幅になってたらバレますよ。僕もまだここでは死にたくないですからね。……戻ってくるかもしれないし、もう少し隠れてましょう」

「そ、そうね」


 この状況は喜ばしいはずなのだが、それよりも半ばパニックになりそうで、茜の頭の中が落ち着かない。西園寺はどんな感情でいるのだろう。逃げるために仕方無く? それとも恋愛感情がある? 考えると茜は、もう一度背後に立っている彼を見ることができないでいた。


「神月さん」


 呼ばれると同時に、西園寺の腕の力が少し緩んだ。茜は体を回転させて、西園寺と正面から向き合う。彼は顔を下に向けていて、二人の顔は驚くほど近いところにあった。


 まつ毛が長い。前髪がさらさらと揺れている。整っているのは分かっていても、近くで見る西園寺の顔面の破壊力に、茜は一瞬言葉を失った。ぶっちゃけて言えば最高に好みであったのだ。


「あ、あの。何? 黙ってるとこっちも緊張するから──」


 茜があたふたしながら言うと、西園寺が何かを決意したように唾をのむ。そしてその顔が、ゆっくり降りてきた。引き締まった表情が、これから行われることは決して遊びではないと茜に告げている。


「え」


 茜は、今度こそ何かが起こる気がした。人生が変わるような、何かが。


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