第5話 今日の魔女は騎士と遊ぶ
彼の唇がわずかに動いた次の瞬間──小さな音が響く。扉のノック音だ、と茜が気付くまでにしばらくかかった。
「お嬢様、お嬢様」
外から
もちろんベテラン執事の蒲田は、「返事がないということは何かやってるということだな。ということは私は黙っていよう」というくらいの気は利かせられる。部屋に踏み込んでこないのもとてもありがたい。
しかし、この状況では近くに人がいるということ事態が大幅に興を削ぐ。結局西園寺は腕を解き、小さく茜にささやいた。
「……返事してあげたらどうですか? お兄さんは一緒じゃなさそうだし」
「そうね」
茜がカーテンから出てドアを開けると、蒲田が頭を下げている。茜は気を取り直して、咳払いをした。
「……どうしたの? お兄様はまだここにいるんでしょ?」
「は、はい。ですがお連れ様が、大したことではないとお兄様をなだめてくださいまして。とりあえず、御身に危険が及ぶことはないと思われます。ですが念のため、西園寺様はご挨拶だけして帰っていただくべきかと」
「そう……」
肝心な話は済んでいる。とりあえず、今日は西園寺のためにそうするべきだろう。そして、
「ごめんね、西園寺くん。今日はそういうことで」
茜が振り返って言うと、西園寺が少しがっかりした顔をしていた。
「……タケノコご飯くらいなら
「いえ、そうでなくて……」
「茜!」
声がしたので茜は振りかえる。茜の顔を見たとたん、廊下の端にいた陸斗は満面の笑みになった。
「お兄様。お久しぶりです」
「元気か。仕事は忙しすぎないか?」
「大丈夫よ。そうそう、仕事といえば──今、こちらの方と一緒にプロジェクトを開始したところなの。とてもお世話になってるから、ご挨拶して」
茜が西園寺を紹介すると、再会を懐かしんでいた陸斗の顔つきがみるみる厳しくなる。また怒りで興奮してきたな、と茜は感じ取って眉をひそめた。
「……私は
「神月さんのお兄様ですか。
どんな気持ちかまでは知らないが、西園寺の態度は完全に元に戻っていた。受け答えも和やかで、噛みつく隙がない。陸斗が獲物を見つけた猟犬のように周囲をうろうろしているのは、そのせいだろう。
「お兄様、こちらの方は?」
その横で少し困惑した表情を浮かべているのが、陸斗の連れだった。茜は未だに西園寺から離れようとしない陸斗の袖を引いて、勢いよく連れの方へ引っ張っていく。
連れの年は陸斗と同年代、茜より三つ四つ上だろうか。こなれたスーツの着こなし、わずかに香るコロンの匂い、それらでぐっと大人に見える。長めの黒い髪をウルフカットにし、日に焼けた肌と明るい茶色の瞳をした男は、西園寺の色彩を全部逆にしたようだった。
「この度は、ありがとうございます。えっと……」
色々な思いをこめて、茜は感謝の言葉を口にした。
「俺は
陸斗より連れの方が先に話し出した。百九十センチ付近までありそうなほど背が高い一橋は、茜の顔をのぞきこむようにやや頭を下げる。
「は、はい」
「無事に済んでよかった。陸斗、あんまり妹に心配かけるなよ」
一橋にそう言われると、陸斗は何やら考えてまた西園寺の方へ向かった。とりあえず、なんのビジネスかとか当たり障りのないことを聞いている。安堵した茜は一橋に小声で話しかけた。
「すみません、勝手な兄で。とにかく、止めていただいて助かりました」
「茜さんの大事な彼氏の命がかかってるとなれば、協力くらいはするよ」
一橋は微笑む。ストレートに言われて、茜は見事に赤くなった。
「ま、まだ彼氏というわけでは……」
「あれ? そうなの?」
「彼からプロジェクトを持ちかけられて、一緒に取り組んでいまして」
茜は一橋に簡単にことの次第を説明した。
「へえ、面白いことやってるね」
「まだ始めたばかりなので、商品のラインナップもあまりないんですけど……」
一橋はそれを聞いて、なにやら思考していた。
「じゃあ、参考になりそうな店があるから、一緒に行ってみない? 今度の日曜にでも」
「え、ええ?」
「急な話だから、予定があるならその先でもいいよ」
「い、今のところ……予定はないですけど……」
「じゃあ、決まりだな。連絡先交換しよう」
茜はあれよあれよとこんな流れになってしまったことを後悔したが、なんと断ったらいいのかも分からなかったので、そのままスマホの操作を続けた。西園寺は陸斗の迎撃で手一杯で、こちらの話は聞いていない様子である。どうか聞こえていませんように、と茜は願った。
「西園寺様、お迎えの車が到着いたしました」
「蒲田、ご苦労様。じゃ、今日はありがとう西園寺くん」
「ええ。また連絡させてもらいます」
陸斗を茜が押しとどめているうちに、西園寺の乗った車がゆっくりと遠ざかっていく。立ち並ぶ並木が見守る中、車は無事に神月家の門を出た。茜はそれを確認すると、静かになった食堂を眺めた。
今日が終わってしまったことに一抹の寂しさを覚えつつ、西園寺が無事に逃げたことにほっとする。
「お兄様。じゃあ、お茶を飲みながら積もる話でも……」
振り返った茜は目を丸くした。そこには陸斗も一橋もいない。蒲田に聞くと、連れだって庭の方へ行ってしまったという。
「今度はどこへ行ったのよ、お兄様たち……」
うなだれながら、茜は小さくつぶやいた。
U字に広がっている神月家の母屋。その中心部の広い中庭には、バラの低木や花壇が美しく配置されている。バラのつぼみはふくらみ、毎年咲き誇る五月・六月に向けて着々と準備しているようだった。
夜の湿気の少ない風が吹いている。その風の中を、陸斗と一橋が歩いていた。
「悟られたか?」
「大丈夫だと思うよ」
一橋は答えた。実は、茜と話をしている時も、一橋は西園寺をずっと観察していた。向こうが金目当てで妹に近付いている様子ならすぐさま教えろ、と陸斗に言い含められていたのだ。
「で、どうだ」
「うーん、今のところは遊びなのか本気なのかハッキリしないな。あの坊主、わざと感情殺してるみたいだし。お前の妹に何かねだろうって感じはなかったけど」
西園寺からガツガツした感じは全くなかった。しっかりした体つきに、一橋には及ばないが適度な長身。それにあの甘い顔立ちとなれば相当モテるだろうから、自然な対応といえる。
西園寺の方は分からないが、茜は明らかに本気だ。そして行動を起こしている。仕事といっていたが、彼女がこのプロジェクトを受けたのには、多分に私情が混じっているだろう。
その重大ポイントを陸斗に伝えるか、一橋は迷った。しかし、まだ覚悟ができていないと判断して、結局とりやめる。
「本当に分からなかったんだろうな。奴の真意を明らかにするために来たんだぞ」
「時間不足でそういうこと言うな」
陸斗は不満顔だったが、一橋はそっけなく言った。会社の人間から茜が特定の男と一緒に居ることを聞き出したとたん飛んできた、シスコンの陸斗が悪いと思っているからだ。
「既婚者なんだったら、その情熱の一部でも嫁に注いでやれよ」
「妻と息子も、妹と等しく愛している。しかし、妹とは一緒に暮らせないのでな。その分気になるんだ。悪いか」
上ずった声で見事なシスコン振りを披露する陸斗を見て、一橋は苦笑した。
「……そんなに他の男が嫌いかね。妹ちゃんも大変だなあ」
その言葉を聞いて、陸斗の視線がさらに鋭くなった。
「別に絶対ダメ、というわけではない。俺だって妹には、幸せになってもらいたい」
「今日は珍しくホワイトな陸斗だな。じゃあ、俺がアプローチするならいいだろ? 危険人物じゃないし独身だし、連絡先もすでに交換済みだし」
一橋はさりげなく言ったつもりだったが、前を行く陸斗が急に振り返った。その目は鋭いを通り越して、不自然なほど細くすがめられている。
「一橋。短い友情だったな。残念だ」
「絶対ダメじゃないってお前が言ったんだろ!?」
口は災いのもと。なにやら懐から色々武装を出してきた黒陸斗に追い立てられ、一橋はしばし本気で逃げ回る羽目になった。
それから何日か過ぎた平日の夜、茜はSNSを一通り検索していた。本名で登録してあるサイトもあり、一橋のアカウントはすぐに見つかる。そこから友人数人のアカウントもたどってみた。アップしてあるどの写真にも、満面の笑みを浮かべた一橋と多くの人がいた。
「へえ、結構顔の広い人なのね」
陸斗をとりなし、許せるコミュ力があればそれも当然のことだろうと茜は納得する。とりあえず、ものすごく変な人ということはなさそうだ。
昨日、一橋は本当に連絡をよこしてきた。そこには約束の時間と場所が書いてあり、「店と料理はお楽しみ」と追記してある。
茜は困惑した。どうせ聞いても教えてくれないのだろう、と思う。
急に接近してきた一橋の真意は本当にそれだけなのか。まだ親しくないため、全く意図が分からない。もしかしたら陸斗の差し金では、と少し茜は疑っていた。
「まあ、いいか」
理由は分からなくても、西園寺の力になれる可能性があるなら行ってみたい。嘘をつかれていると分かったら、すぐに踵を返せばすむ話だ。最終的に、そう判断した。
そしてやってきた約束の日はいまいましいほどの快晴で、町は春の陽気であふれかえっていた。数ヶ月前に雪が降っていた名残はなく、店のディスプレイも全てパステルカラーの華やかなものだ。温かい風が街路樹を揺らし、最近まで固く閉じられていた人々の胸襟を開いている。
しかし茜は、落ち着かない気分でそれを見ていた。西園寺の待ち合わせと違って、妙に心細い。やはり接点のない人との外出は、緊張する。念のために蒲田が持たせてくれた防犯ブザーを握り締めた。
「茜さん、お待たせ」
後ろから声がかかって、茜は自分より身長の高い一橋を仰いだ。
「本日はよろしくお願いします」
「悪かったね。だいぶ待った?」
「来たところですよ」
茜が言うと、一橋はほっとした顔になった。表情が緩むと、人なつこい感じになる男だと茜は思う。
「あれから兄とどんなお話を? 大丈夫でしたか?」
「うん、大丈夫よ。ちょっと息絶え絶えになったくらいで」
それは大丈夫とは言わないのではないか。それとも真に受けてはいけないのか、と茜はちょっと悩んで、追求しないことにした。
「……それで? ぜひ連れていきたいお店っていうのは、どこにあるんですか?」
「こっちだよ」
街中の喧噪から離れた、一歩奥の路地。かろうじてアスファルトで舗装された細い道を、一橋はすいすいと慣れた様子で歩いて行く。少し歩くと聞いていたので、茜も今日は動きやすいパンツスタイルにローヒールだった。追跡に支障はない。
五分ほど歩いて、一橋は足を止めた。茜は目の前の小さな店の看板を見て、顔をしかめる。
「……ここですか?」
いぶかる茜に、一橋はうなずく。
「バーじゃないんですか? ブラッスリーってちゃんと書いてあるし」
「この時間はカフェメニューもあるんだよ。さ、入って」
茜は目をすがめた。店構えは小さいが、玄関はきちんと掃き清められているし、メニューの字も整っていてきれいだ。まだ防犯ブザーの出番ではない。
茜はそろそろと、一橋が開けてくれた店のドアをくぐる。古いレジスターが置かれた大きなカウンター、それを囲むようにして二人がけの席が並んでいる。
客席は黒い椅子に白いテーブル、床はタイルでモダンな感じだ。天井から店内を照らすシャンデリアがきらきらと光って、店内に光と影の対比を作っていた。
まだティータイムには早いが、周囲には早くも女性たちの熱気がたちこめていた。そのせいか奥の席付近は蒸したため、茜たちは入り口付近に案内される。
「これは予約しといて正解だな」
「ありがとうございます。休日ですから、これからもっと混むでしょうね」
席に座ってから、一橋は茜に向き直った。テーブルに置かれたメニューには、全く目をやろうとしない。茜は気になって声をかけた。
「……あの、先にご覧になりますか?」
手を上げてそれを遮ってから、一橋はウェイターにこう言った。
「マスターに例のものを出してくれって伝えてほしいんだ」
ウェイターはうなずいて去って行く。彼の顔に、いぶかったりぎょっとするような様子はなかった。
この前の西園寺との食事では、どういう関係なのだろうとあからさまに思われている風情だったのだが……年代が近いから西園寺と並んでいる時より馴染むのだろう。若干気が休まるのを感じながら、茜は一橋に聞いた。
「一体、何が出てくるんですか?」
「面白いものだよ」
しかししばらくしてウェイターが運んできたのは、ただのブランデーが入ったグラスだった。確かに香りが芳醇で良い物だが、和菓子とはなんの関係もない。
「茜さんはワインの知識があるって聞いたから、こっちもいける口かと思って」
茜はうなずいた。確かに酒は全般強いほうで、ワイン以外の洋酒も嗜みのうちである。だが、面白いものと言われていたので、ちょっと呆れたのも事実だった。理屈をつけて酒が飲みたいだけの勘違い野郎ではないか、とも思えてくる。
「飲めますけど、仕事の話と関係があるようには──」
「うんうん。言いたいことは分かってるよ。もう少し待ってね」
茜が首をかしげていると、新たに皿が運ばれてきた。その黒い皿にのっていたのは、明らかに栗を使った羊羹だ。普通の羊羹は全部小豆の色をしているが、これは上部が透明になっていて、中に入っている栗そのものの色が見える。
「よ、羊羹にブランデー?」
「これを食べたら、きっと追加で飲みたくなると思って」
混乱のただ中にある茜を置いて、一橋はブランデーをあおる。茜は仕方無く、羊羹に添えられていたフォークを動かした。
「嘘……」
食べてみて、茜は驚いた。まず口に滑りこんでくる、上の栗入りのつるっとした寒天のような部分、中央に食感を生む小豆の粒、そして最下層はどっしりした羊羹。その中にブランデーが溶け込み、やんわりと香ることで全体がうまくまとまっている。想像以上の完成度だった。
「こんなに洋酒が羊羹に合うなんて……」
羊羹の傍らでちびちびとブランデーを飲むと、より香りが濃密になる。酒好きにはたまらない逸品だ。この前のフルーツ羊羹が若い女性なら、こちらは苦み走った紳士の風格、と茜は思う。一気に食べてしまうのがもったいない、大人のスイーツだ。
「これも向こうで売ってみたら? 酒好きには受けそうだろ」
「確かに……今までのイメージが一変しました。ここのマスターが作られたんですか?」
店構えは明らかに洋風の空間なのに、和菓子も出すとは意外だった。マスターが和菓子店になにかゆかりがあるのだろうか、と茜はカウンターの方を見る。
「まだ俺には作れないよ、こんなすごい物。こいつが買ってきたの」
マスターらしきスタイルのいい男性が、一橋を指さしながら言った。
「マスター、ありがとうな」
「急にお願いされるからびっくりしたよ」
力が抜けた受け答えに、彼の常連振りがうかがえた。温かな笑い声が響く中、茜は残った羊羹も綺麗に平らげる。空になった皿を横に置いて、茜はメニューに目を落とした。
「どうしたの?」
「せっかくだから、ワインも飲んでみたくなって。最近、地中海近辺の土着品種ワインを試してるところなので、それがあれば……あ、ちゃんと飲んだ分は自分で払いますから」
茜がメニューを凝視していると、一橋の笑い声が聞こえてきた。
「それくらいはおごるよ。そういう真面目なところは、陸斗に似てる」
彼の言葉に嘘はなく、それから茜がどっさりワインの瓶を積み上げても楽しそうに笑っていた。
さんざん飲んで戸外に出ると、行きにはなかった厚い雲がたちこめていた。空気にも湿気がこもっていて、吹いてくる風の音が変わっている。
一橋がつま先立ちになって空を見つめる。高い身長が、ますます高く感じられた。
「これは降るかもしれないな。茜さん、迎えの人は来るの?」
「はい。駅に来てもらう約束だったんですけど、少し場所を変更してもらえばなんとか。一橋さんは?」
「これから友達の家に寄って帰るけど、ちょっと歩くんだ。降ってきたら、コンビニで傘でも買うさ」
明快に言う一橋を見て、茜は考えた。この前も世話になって、今日も教えてもらってばかりだったので、何かお返しがしたかった。
「じゃあ、そこまでこれ使って下さい。女物で小さいですけど、黒だから男性でもなんとかいけると思います。ないよりはましでしょ?」
一橋が手を伸ばしてきた。二人の手が一瞬触れた瞬間、一橋が笑って口元から白い歯がちらりと見える。小麦色の肌との対比が、鮮やかだった。
「ありがとう」
ただ傘のことで感謝されただけだ、と理解していても、一瞬茜の鼓動が速くなった。
「い、急いだ方がいいですよ。本降りになるかもしれませんから」
茜はあわてて手をひっこめ、下手な逃げの手をうった。一橋はそれを見透かしたように笑い、早足で信号の向こうに消えていく。
「……ほんとに、調子狂っちゃった」
自らの気持ちにブレはない、と茜は思う。明るい未来を思い描くのは、いつだって西園寺とだった。それでも少し高鳴る胸を無視するわけにもいかず、茜は信号の光を見つめながら黙って立ちつくした。
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