第2話 御曹司の挑戦

 目の前の存在に注目してみれば、なんのことはない──狼にも似た、巨大な犬だ。その犬が立ち上がって、あかねの唇に濡れた鼻先をくっつけている。


 久々のキスが犬の鼻とだと悟った茜は、ちょっとショックを受けた。西園寺さいおんじがまさか唐突に──とは思っていなかったが、その可能性があるなら嬉しいなとは考えていたのだ。人生、そんなに甘くない。


「こら、チビ!! お座り!!」


 西園寺があわてて指示を出すと、その巨犬はおとなしく地に尻をつけた。しかしこの体格でチビとは、違和感がありすぎる。茜は首をひねった。


「うちの飼い犬なんです。神月こうづきさん、お怪我は?」

「大丈夫よ。それにしても大きな犬ねえ」

「秋田犬です。かなり大きくなる犬種なんですが、子犬の頃に母がうろ覚えの日本語で名前をつけてしまって……」


 なるほど、それでチビかと茜は納得した。


「申し訳ありません。お召し物が汚れて……」


 布施川ふせがわが眉間に皺を寄せながら言う。


 確かに、ブラウスの胸元に犬の足跡がうっすらついていた。しかし犬があまりに無邪気にブンブン尻尾を振っているので、茜はつい笑ってしまった。


「いいわよ。洗えば落ちるでしょ」


 茜が言っても、布施川はまだ恐縮していた。


「普段はこんな邪魔をする子ではないのですが……」

「西園寺くんが久しぶりに帰ってきたから、嬉しかったんじゃない?」


 わしゃわしゃとチビの頭をなでていた西園寺が、それを聞いて嬉しそうに笑った。


「そうか。お前も嬉しいか」


 チビは飼い主の言葉が分かるように、わん、と高く鳴いた。その声を聞きつけたように、息を切らした使用人とおぼしき男たちが集まってくる。


「坊ちゃま、チビをこちらに。今度は逃がしませんから!」


 まだ名残惜しそうなチビが重装備の使用人たちに連れて行かれた後、ようやく東屋から誰か出てきた。


「ご機嫌麗しゅう、坊ちゃま。お嬢様もどうぞこちらへ」


 新しく登場した女使用人に誘導されて、茜と西園寺は先へ進む。


 東屋の中に掘りごたつがしつらえてあって、その卓の上にすでに和菓子が置かれている。赤いテーブルクロスの上に黒く四角い器、それにのる菓子は桃色と緑に彩られている。


 菓子の表面に刻印されているのは、八重桜よりも精巧な何枚もの桜の花びら。花が二つ寄り添うデザインは、夫婦のための菓子にも、友人のための菓子にも見える。そしてその下には緑色の若葉がのぞき、桃色一色の菓子にはないさわやかな印象を与えていた。


 茜はしばらく、その光景に釘付けになった。今まで目にも入っていなかったけれど、なんて綺麗なのだろうと心がざわつく。


 ぼうっとしている茜の横で、使用人たちが茶を入れ始めていた。ふわりと立ち上った玉露の匂いが、茜を現実に引き戻す。


「では、私どもにご用がありましたらいつでもお呼び下さい」

「ああ、ありがとう」


 数名の使用人が西園寺に頭を下げ、東屋の奥へ下がっていく。二人きりになった茜は、改めて西園寺に向き直った。


「じゃ、お茶が冷めないうちにいただきましょうか」

「そ、そうね」


 先に「頼み」とやらを聞いてみたかったのだが、西園寺は話す気がなさそうだ。茜は仕方無く、和菓子を見つめる。


 その繊細な造形を刻むのはあまりに勿体ない気もしたが、茜は思い切って漆塗りの楊枝を振り下ろした。


「中は白あんなのね。だからピンクが綺麗に見える」


 茜は八重桜を思い出す。あれも中の黒さは一切見えなかったから、白あんが入っていたのだろう。


「ん、美味しい」


 口の中で素朴な甘味が広がり、消えていく。ケーキと違って罪悪感なくすっと食べられるのは、甘さのキレがいいからだろう。


「良かった、気に入ってもらえて。まだいくつかありますよ」


 微笑む西園寺が、お茶を入れてくれた。茜はおかわりの和菓子をもらいながら、つぶやく。


「手折りといえば、和歌にそんな歌があったわね。古今和歌集だったかしら」

「『見てのみや 人にかたらむ さくら花 てごとにおりて いへづとにせん』……素性法師の歌ですね」

「確か、見ただけでは話ができないから、桜を折ってお土産にしようって歌だったわよね……考えてみれば、だいぶカジュアルな歌だわ」


 自分の見立てが間違っていなかったことに茜は安堵した。一応伝統文化も勉強しておいてよかった、と胸をなで下ろす。


「そうかもしれませんね。でも、昔はカメラなんてありませんから……桜の美しさを伝えようと思えば、よほど物語の才能がある人以外は、持ってくるしかなかったのかもしれません」

「そう思うと、画像って偉大ね」


 目が見える相手でさえあれば、一瞬でかなりの情報を受け渡せる。これは、他の五感にはないアドバンテージだ。


 茜の言葉に、西園寺はうなずく。


「大正時代にも、顧客に見せる菓子一覧──今で言うカタログのようなものがあったんです」

「へえ。写真なの?」

「さすがに絵ですよ。でも、鮮やかで見ているだけで楽しくなります」


 その当時から、広告の重要性は認識されていたということだ。


「ちなみにそこに『手折桜たおりざくら』があるので、これはかなり古いお菓子ですよ。僕も原本を見たことはないので、デザインは現代向けに少しアレンジされているかもしれませんが」

「へえ。時代が変わっても、愛され続けてきたのね」

「間違いないですよ。和菓子は、食べられる最高の芸術品なんですから」


 茜がつぶやくと、西園寺は自然と身を乗り出していた。


「……西園寺くん、そろそろ聞きたいんだけど。私に頼みたいことって何?」

「そうでした。一番重要なことを、まだお伝えしていませんでしたね」


 問いかけた茜に向かって、重々しい様子で西園寺が切り出した。


「神月さん。どうか、和菓子の海外展開を、手伝っていただきたいんです!」

「和菓子をわざわざ、海外で売るの?」


 茜は首をかしげた。


「今、洋菓子メーカーやアイスクリームメーカーはしきりに海外に売り込みをかけています。好調なメーカーは売り上げが五割増し、という報告もあり、市場があるのは間違いありません。しかし、和菓子は完全にその波に出遅れました」

「確かに、聞いたことがあるのは洋菓子メーカーの名前ばかりね」


 高級アイスクリームやクッキーの話題は茜も聞くが、和菓子が海外で成功したという話は非常に少ない、というかほぼ聞かない。その違いは明らかすぎた。


「洋菓子が次々と海外進出しているチャンスを逃さないために、先日海外で桜でまとめた和菓子の展示もやってもらったんです。見た目はとても好評だったんですが、やっぱり買うのは日本のお客さんばかりで……」

「まあ、向こうの人はあんこを気持ち悪がるっていうわよね。甘い豆っていう概念がそもそもあまりないらしいし」

「残念ながらおっしゃる通りです」


 西園寺は珍しく、苛立っている様子をちらりと覗かせた。だがすぐに、愚痴を言ったことを恥じるような顔に戻る。


「ですが僕は信じています。洋菓子と同じく和菓子にも、世界を魅了する力があると」


 断言した西園寺の顔がまぶしく見えて、茜は思わず見入った。その目は、間違いなく希望を宿している。


「重要なのは売り方、広め方だと思うんです。ですが、まだこちらには手が足りません」

「……このご実家の力でそれは、謙遜しすぎじゃないかしら?」

「これは僕が個人でやり始めた仕事です。実家や家族からの支援は受けていません」

「なるほど」


 そうなると、若い西園寺だけではきついかもしれない。茜が納得してうなずくと、西園寺は頭を下げた。


「神月さんなら外国の方ともお付き合いがありますし、文化にも詳しい。どうか助けていただけないでしょうか」


 西園寺を、茜はしばし見つめた。


 面白そうだ、とまず思う。それに、この案件を扱っているうちは西園寺に合理的に連絡がとれる。これは、茜にとってこれ以上ないメリットだった。平然とした様子を装ってはいても、頭の中ではひっきりなしに計画が動いている。


「分かったわ。協力しましょう」

「ありがとうございます! 報酬の件は後ほど、書面でご提案しますので」


 純粋に感謝してくる西園寺を見て少々茜の胸は痛んだが、その分仕事で返そうと決意する。


「とりあえず、もう少し情報を集めておくわ。私、ほんとにこの分野については素人だから。時間もらっていい?」


 味覚は変わるものだ。和食が進出して久しいし、海外の人の舌も発達しているかもしれない。もしかしたら他国の事情は一律ではなく、中には和菓子に好意的な国もあるかもしれない。


 幸い、父の会社を通じて、欧米で活動している知り合いならたくさんいる。彼らはエリートならではのコネを通じて、色々探ってきてくれるだろう。


「勿論ですよ。本当に、神月さんにお願いして良かった。よろしければ、桜並木も少し見て歩きませんか?」

「いいわね」


 絶景を二人でゆっくり見られるなんて、またとない機会だ。使用人が縁側に靴を持ってきてくれたので、そこで外履きに履き替える。


「本当に綺麗ね……あら?」


 桜の間に、何か小さな影が見える。人ではない。だが、息を弾ませてこちらに走ってくる影に、茜は見覚えがあった。


「チビ!!」


 影はわふんと低く吠えて、再び茜にのしかかってきた。今度は座っていたので、茜はなんとか膝でその巨体を受け止める。


「……あなた、本当に怖いもの知らずねえ」

「チビ、お前また逃げ出してきたのか……困った奴だな」


 チビは褒められていると思ったのか、扇風機のように尻尾を振っている。視線を向けた茜は、思わず微笑んだ。


 使用人たちにとっては厄介そのもののようだが──腹をさらけ出し、子供のように身を預けてくる大きな犬が、茜には無性に可愛かった。


「仕方無いわよ。ご主人様に会いたいんだもの。今度はどうやって逃げてきたのかな?」


 結局外に出ても東屋から大きく離れることはせず、チビと遊んだ。使用人たちが持ってきたボールやフリスビーを投げてやる。茜はパンプスだったのでやや不自由だったが、それでもできる限りチビの希望に添うようにした。


「いいなあ……犬。やっぱり、また飼いたいわね」

「お家の事情で無理なんですか?」

「ええ、ちょっとね」


 昔は神月家でも、犬を飼っていた。名前はシャル。小さな犬で、よく世話をしていた茜の母、たまきに特になついていた。環も無償の愛を注ぎ、私用で外出する時はシャルを連れていくのが常だった。


 その日も何事もなく、環とシャルは連れ立って出かけ──そして、事故に遭った。神月家の車は頑強な特殊車だったが、横転してきた大型トラックに体当たりされてはなす術ない。高速道路から落下し、車は大破。爆発・炎上し、環とシャル、それに運転手と使用人が犠牲となった。


 落下の時点で意識はなかったろう、と慰めるように医者は言ったが、そんなことを言われたくらいで神月家にたちこめる悲嘆が消えることはなかった。特に最後に環を見送った徳三とくぞうの悔恨はすさまじく、何故止めなかったとずっと自分を責めていた。……彼のせいでは、全くなかったのに。


 その悲哀は、時間が解決してくれた。徳三はまた笑うようになり、神月家も事業が発展して良い方に変化した。しかしそれでも、茜は徳三に犬の話をするのはためらわれた。もう二十年になるから、可能性は低いとは思うが──環のことを思い出して、彼が不安定になってしまうのは避けたい。


 ……だが、また犬が飼いたいという思いは、茜の中にずっとあった。そのことを、チビに会って再認識させられた。


「はい、どーどー。ほら、また投げるわよ」


 チビは体を前のめりにして早く投げてくれとせがむ。茜がボールを投げると、チビは勢いよく走ってそれを取りに行った。


 それを何回繰り返したろうか。


「犬ってやっぱり元気ねえ……」


 興奮したチビに小一時間付き合っていると、段々茜はくたびれてきた。息が乱れ、思わず東屋の縁側に腰掛ける。


「チビ、遊んでもらって良かったな。おやつを食べよう」


 横から西園寺の声が聞こえる。ようやく座った安心感とともに、温かい日射しが降り注いできた。


 しばらくすると、体の内側から眠気がこみあげてきた。茜はそれに抵抗できず、いつの間にか深い眠りに落ちていた。


「ん……」


 しばしぼうっとしてから、茜は覚醒する。空中に漂う香りの中に、少し男性コロンのような匂いが混じっていた。そして、側頭部に何やら温かいものの感触がある。


「私はどういう……状態……」


 状態を把握した茜は驚いた。我知らずのまま、隣に座った西園寺の肩に、茜は頭を預けていた。細身に見える西園寺だが、その肩はしっかりして温かい。


「いやいや、そんなことを言ってる場合じゃなくて!」

「あ、本格的に起きましたね」


 茜が頭を起こすと、微笑んでいる西園寺が目に入った。


「倒れそうだったので、ちょっと肩をお貸ししてました」

「どれくらい眠ってたの、私」

「一時間強じゃないですか?」

「ご、ごめんなさい、迷惑かけちゃって」


 茜は血液が集まって真っ赤になっているであろう顔を、そむけながら言った。一時間もの間、隙だらけの顔をさらしていたことが恥ずかしくてならない。


「構いませんよ。神月さんの髪、とてもいい匂いがしました」


 西園寺が黙って見守ってくれていたことに気づき、茜はさらに耳まで熱くなってくるのを感じる。汗をかいていたことは間違いないのに、気を遣ってくれているのだと分かったからだ。


「……もう夕方ですか。楽しい時間は、早いものですね」


 西園寺が言う。赤い顔を隠してくれるような夕日をゆっくり眺めながら、茜はうなずいた。気を取り直して、大事な次回の約束をとりつける。


「近いうちにまた相談に来ていいかしら? チビにも会いたいし」

「ええ、どうぞ」


 茜は西園寺が差し出してきた手を握った。


 果てしない橙色の光に包まれながら、いつまでも二人でこうしていたい。そのためには、絶対に計画を成功させる。茜は心の中で、はっきりと誓った。

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