魔女と和菓子と年下王子

刀綱一實

第1話 魔女は年下王子に恋をする

 その日、魔女は恋人(になる予定)の男を尾行していた。


 男は会社が終わるとそそくさとオフィスを出て、最寄りの百貨店に飛び込んでいく。そして迷うことなく地下フロアに向かった。


「なるほど。食材の調達かしら」


 魔女はつぶやき、改めて思い人を見つめた。


 黄色みの強い金髪に、周囲から頭ひとつ抜け出た背の高さ。品の良い顔立ちに、すっきりとほどよく筋肉がついた体。肌は下手な女性より滑らかかつきれいで、一度握手をしてもらった時、彼の美しく手入れされた指先にうっとりしたこともある。まさに爪の先まで王子様にふさわしい姿だった。


 その肉体に、明らかにオーダーメイドの高級なスーツをまとって、ほのかな柑橘系のコロンの匂いを漂わせ、思い人はさらに進む。


 今日も一日仕事をしたはずだが、その歩みに疲労の色は全くない。彼が通り過ぎた道にいる女性は、全てぼうっとなって、必死に甘い視線を送っていた。


 自分もあんな顔になっているのだろうかと思いながら、魔女は彼を追う。最近、なんとなくいい雰囲気になっている自信はあるのだ。今日こそはちゃんと話をして、週末に会う予定をとりつけなくては。


 通りの先はお菓子売り場。しかし、非常にお似合いだと思われる洋酒や洋菓子のゾーンを若き麗人はすすすと通り過ぎた。目もくれないその様は、かえって見事といってもいい。


「あら、これは趣味じゃないってこと……」


 魔女は残念がった。彼が無視した品々は魔女が愛してやまないジャンルであり、美味しい店も、知識も豊富に持っている。できるなら彼と熱く語り合いたかったのだが、その希望は叶わないようだ。


「どこへ行くの?」


 魔女は返事が来ないと分かっていても小さくつぶやく。


 男はすぐ右の角を曲がって、ようやく足を止めた。目当ての店に到着した彼は、躊躇なくそこにできていた列に並ぶ。列の人数は数人ほどで決して多くない。並んでいるのは、年配の女性ばかりだ。


「ちょっと待ってよ、ここって……」


 きちんと一列に整列し、色とりどりの飾りが施された練り切り。それとは反対に無造作に並べ、たっぷりきな粉をかけられたわらび餅。そこはまごうことなき、和菓子売り場だった。


「そっちかあああ……」


 魔女は思わず膝から崩れ落ちた。小さなつぶやきを耳にした通行人が、怪訝な声で立ち去っていくのが見え、慌てて気を取り直す。煙が出そうなほど激しく頭を振って、魔女は立ち上がった。


「和菓子には全然興味なんてなかったけど。いいのよ。これから勉強すれば!」


 魔女は売り場の様子をうかがった。並んでいた女性たちは皆、同じ品名を店員に告げている。よほどそれが美味しいのか、と気になった魔女は、ゆっくりとそちらに近付いていった。


 今度会ったとき、こっそり人気の菓子を渡して、お話しする機会を作ってもらおう。場所は職場の近くでもいいし、なんなら二人で遠出しても──


神月こうづきさん?」


 いきなり名字を呼ばれて、せわしなく思考していた魔女は思わず棒立ちになった。


「さ、西園寺さいおんじくん。偶然ね」


 もちろん偶然ではないのだが、見つかってしまった魔女はこう言うしかない。怪しい奴とだけは思わないでくれ、と心中でひたすら祈った。


「こんばんは、神月さん。和菓子を買いに来たんですか?」

「え、ええ。今度のゲストがお好きらしいので、少し勉強しておこうと思って」


 必死に頭を回転させて魔女が言い訳を述べると、西園寺はぱっと顔を輝かせた。


「いや、嬉しいなあ。神月さん、こういうの興味ないと思ってましたから」


 自分に少しは思うところがありそうな男の表情を見て、魔女──その名を神月茜こうづき あかね──は心の中で思い切りガッツポーズをとった。


 無論、それを無闇に外には出さない。感情を爆発させるのは恥ずかしいこと、と小さい頃から言われて育ってきた。


「西園寺くんはここが好きなの?」

「ええ。亡くなった祖母が贔屓にしていたので、思い入れがあるんですよ。特に、最中とよもぎ餅が大好きで」

「へえ……」


 どちらもここ数年口にしていない茜は、適当に誤魔化すしかなかった。そのうちに列が進み、西園寺が先頭に来る。


手折桜たおりざくらを二つください」

「申し訳ありませんが、先ほどの方で終わってしまいまして……桜のお菓子ですと、八重桜やえざくらのみになってしまうんです」


 店員が指さす先には、小さなピンクの練り切りがあった。表面を切って桜の形に立ててあり、立体的でなかなかかわいらしい。


「では、八重桜を二つ」

「かしこまりました。お包みしますので、少々お待ちください」


 無事に買い物を済ませても、西園寺はニコニコしながら近くに立っている。魔女がいぶかりながら軽い世間話をしていると、店のBGMが変わり始めた。閉店十分前の合図だ。


 店の前の行列もとっくになくなっている。それでもショーケースの中には、色とりどりの練り切りや餅が残っていた。日持ちしないものだから、これは全部廃棄になるのだろう。そう思うと、和菓子好きでない茜でもちょっともったいない気がした。


 すると西園寺がすっと進み出て、ショーケースを指さした。


「ここからここまで、全部ください」


 店員が一瞬、不可解なことを言われた顔をした。しかし西園寺の様子を見て、冗談ではなさそうだと思い返す。


「お包みいたします。先にお会計を……」


 カードで支払いを済ませた西園寺の背中を、茜は思わずつつく。


「でも、ちゃんと食べられるの? これ全部、賞味期限は今日中って聞こえたわよ」

「実家で仕事をしてくれてるみんなに、差入れです。迎えに来てくれる布施川ふせがわは、実家付きの執事ですからそのまま持って帰ってもらおうかと」


 己の父と同じ買い方をしている西園寺にやや頭を抱えつつも、茜はなんとなくほほえましい感じを抱いた。


「ご実家にいるわけじゃないの?」

「しばらく前から一人暮らしなんです。でも、布施川は心配して毎日送り迎えに来てくれるので……」


 西園寺が少し照れた様子で肩をすくめると、通路の奥から初老の男が迷いのない足取りでこちらに近付いてくる。真っ白な髪に控えめな白髭、そして隙の無いスーツ。おそらく彼が「布施川」だろう。


わたる様。お迎えにあがりました」

「うん。今、お菓子を包んでもらってるから、少し待ってくれ」

「おやまあ、こんなにたくさん」


 いたずらを咎めるように、布施川は軽く眉をしかめる。西園寺はちょっと困った顔で目をそらした。


「お待たせしました。またお待ちしています」


 気まずい空気を散らすように、大量のお菓子が差し出される。紙袋を手にとってほくほくしていた西園寺が、ふとその中に手を入れた。


 そしてその美しい手で、茜に向かって何かを差し出す。


「これは?」


 どうやらミニサイズの羊羹のようだ。真っ赤な包装紙に金箔が散っていて、とても豪華な外装である。


「神月さんの名前は茜でしょ、あげるなら赤がいいかなあって。ここの羊羹、あっさりしてて僕好みなんです。食べてみてください」

「あ、ありがとう」


 茜はどぎまぎしながらそれを受け取った。西園寺はそれを見て、さらに言う。


「和菓子、勉強されてるんですよね。これだけではなんですから、今度一緒にお茶でもしませんか?」


 茜はにっこり笑い返した。西園寺の好意が素直に嬉しい。


「今度はぜひ、手折桜を見てみたいわ。八重桜も可愛かったけどね」


 同じ桜の名前を持っていても、どう違うのか比較してみたい。茜が正直に言うと、西園寺はぱっと顔を輝かせた。


「ではさっそく、来週末はどうでしょう?」

「ちょっと待ってね。うん、大丈夫」


 余計な予定が入っていないことを祈りつつ見たスケジュール帳。幸い、その日は空白だった。


「じゃ、お迎えにあがりますよ。ご自宅はどちらで?」


 茜は素直に自宅の住所を告げようとして、はっと思いとどまった。……男性が迎えに来るという行為が発覚したら、おそらく過保護な父がむせび泣くに違いない。これは比喩表現ではなく、過去に実際に泣かれたことがあるのだ。


「……どうかしました?」

「い、いえ。ちょっと駅前で用事があるので、カフェで待ち合わせてもいいですか? あのオープンテラスのあるところ……」

「構いませんよ。それでは、十三時にそちらに伺いますね。失礼します」

「当日は私が運転いたします。お嬢様、よろしくお願いいたします」


 西園寺と布施川が、綺麗な仕草で頭を下げる。彼らは共に、出口の方へ消えていった。茜はややぼうっとした心持ちで、それを眺めた。


 やった。ついにやった。デートの約束だ。


「今日はワインあけちゃおうかなー!!」


 一緒に趣味の話で盛り上がるプランは捨てざるを得なかったが、店を出る茜の足取りは喜びに満ち、とても軽かった。





 そして待ちに待った約束の日がやってきた。


「……おかしくないかしら、植草うえくさ。やっぱりこっちの方がいい?」


 茜はワンピースやアンサンブルを大量に抱えて、自室内をうろうろしていた。考えれば考えるほど、選ばなかった方がいい感じに見えてくる。その様子を見て、メイドの植草が声をかけてくる。


「お嬢様はお綺麗ですもの。だから『美魔女』と呼ばれておいでなのでしょう。なんでもお似合いですから、自信をお持ちなさいまし」


 熟練メイドで、最近の言葉を知らない植草はにこにこしている。美魔女はもう少し上の女性に使う言葉だし、茜が魔女と呼ばれているのは、確かに美人ではあるがキツそうだよね、という揶揄が多分に含まれているからだ。しかし植草が口にすると、純粋な気遣いの言葉に聞こえるから不思議である。


「今日も完璧ですよ」


 茜の白い肌には染みひとつなく、黒髪は外出用に美しく結いあげられている。耳元には輝く一粒ダイヤのイヤリング。桜のお菓子を食べるので、今日はピンクのシフォンシャツにベージュのスカートという組み合わせを選んでみた。ちょっとチークを入れて、口紅をひけば全体が女性らしくまとまる。


「……そ、そうね。確かに、おかしくはないわね。ありがとう、植草」


 最後に全身鏡でファッションを確認した茜は、食堂へ向かった。


 卓の上には、すでに食器のセットが置かれている。茜が席に着くと、いつものように湯気のたつ紅茶が運ばれてきた。


 そこから野菜の前菜で朝食がスタートし、最後にパンとふわふわのオムレツが運ばれてくる。オムレツにはデミグラスソースがかかっており、中にパンチェッタとマッシュルームがたっぷり入っていた。茜の好物だ。


 それを食べ終えると、執事の蒲田かわたが聞いてくる。


「デザートをご用意いたしましょうか?」

「そうねえ、果物があればいただくわ」


 シェフが手ずから飾り切りしたメロンが運ばれてくる。その横に、チョコレートのムースが添えられていた。


「うーん……今日は出先でお菓子をいただく予定だから、こちらはいらないわ。ごめんなさい、伝えてなかったわね」

「じゃあ、せっかく用意してくれたんだから僕が食べるよ」


 茜が言うと同時に、奥から父、徳三が現れた。朝から趣味の油絵を描いていたのか、服のあちこちに絵の具がついている。


「こんなに美味しそうなんだから、食べたらかえって悪いものを燃やしてくれそうだねえ。チョコレートダイエット」

「なるわけないでしょう。お父様、クロスに絵の具がつくから上だけでも着替えてください」


 茜は完全に素に戻って、呑気な父親に苦々しい声をぶつけた。徳三はそうかなあ、とか言いながら、フラフラと食堂から出て行く。


「……全く。いくつになっても、あの父親は」


 にこにこと友好的な表情ができるのはいいのだが、常識が少々欠けている。それに、笑い顔のまま時々突拍子もない買い物癖を披露する徳三である。


 ある時は「欲しくなったから」と言っていきなりヨーロッパの城を買い、またある時は「茜ちゃんに似合うと思って」とまだ名前もついていない宝石を大量に持って帰ってくる。たまーに買った土地から石油が出たり、名前もついていなかった宝石が値上がりすることもあるのだが、たいていは丸損だ。


「百回買ったら一回は当たるんだよ、僕の投機は」


 当たる確率一パーセントという格好悪い事実を、ここまで堂々という男を茜は他に知らない。


 だが、その変人っぷりがいいといって魅了されている部下もいるのだから、人間というのは分からないものだ、と茜はため息をついた。


 ようやくすっきりした姿になった徳三が戻ると同時に、茜は席を立った。


「茜ちゃん、あんまり遅くならずに帰ってきてね。今日はどこに行くんだっけ?」

「お、お友達の家で和菓子をいただくの」


 さして疑問に思った様子もなく、徳三はうなずいた。お菓子と男性、というイメージがあまり結びつかないのだろう。茜はちょっと騙している罪悪感を感じつつも、家を出て車上の人となった。





 駅前の大きなカフェは、ピークの時間を前にして早くも混み合っていた。幸いテラス席の最後の一席を確保できて、茜はほっと息をつく。一番狭くて植え込みの影という、コンディションは良くない席であるが……それでも席数の多い店内よりは西園寺に見つけてもらいやすいだろう。


「それに、この季節の風って気持ちいいのよねえ……」


 熱くも冷たくもない、肌を撫でていく心地いい流れ。それにちょうど桜は八分咲き。来週末にはもう散ってしまっているから、今が見頃だ。西園寺の家にも、桜の木はあるだろうか。


 そんなことを思いながら視線を巡らせていると、茜は知った顔を目にした。


「あれは……」


 テーブルを囲んでケーキを分け合っているのは、西園寺と同じオフィスで働く女性陣だ。いつも数人でかたまって行動して仲の良さをアピールしているが、実際はそんなに仲良くはないのだろうと茜は見ている。


 茜は彼女たちから蛇蝎のごとく嫌われている。最近、西園寺と話をするようになってからは余計だ。だからもしかしたら、と思っていたら──


「でもあの『魔女』、ホントに迷惑よね」


 案の定、茜の悪口が聞こえてきた。


「毎日来る時もあるじゃん、うっとうしい」

「西園寺さん目当てでしょ。どうせ」


 それは正解、と茜は思いながら、運ばれてきたアイスティーを口にした。


「西園寺さん、なんであんな魔女と仲よさそうなんだろ。素敵だと思ってたのに、ちょっと幻滅」

「体でも道具にしてるんじゃない?」

「道具って言ったって、三十六のおばさんの体でしょ? 西園寺さんには古すぎるわよ。子供だって産めるかわかんないじゃない、そんな人」

「本人はできると思ってるんじゃない? なんの保証もないのにね」


 あまりにも幼稚な悪口がたれ流されている。だから、茜の意識はかえって冷静になった。


 己が子供を産める保証がないことなんて、百も承知で分かっている。おばさんが無理しちゃってさあ、なんて攻撃されることは、とっくに予想できていた。しかしそれでも、欲しいものがあるのに手を伸ばさずに諦めるなんて言葉は、茜の辞書には存在しなかった。


 言いたければ陰でいくらでもわめけ。そして何も手にしないまま死ね。


 茜はそう思いながら漏れ聞こえてくる話を聞いていた。しかし、次の瞬間、茜はくわえていたストローを噛みつぶす。


「西園寺さんが構ってあげてるのは、利用価値があるからでしょ。あの人、腐っても神月製薬のお嬢様だし」

「金目当てってこと? 西園寺さんも意外とゲスねー」


 茜は思い切り女たちの後頭部をハイヒールで殴り飛ばしてやりたくなった。自分のことならいくら失礼なことを言われてもいいが、西園寺は別だ。彼の人間性まで疑われるのは我慢できない。


 ふん捕まえて謝らせてやる──と茜が席を立った瞬間、目の前を人影が横切った。


「僕はお金目当てで人と付き合うようなことはしません。自分がその程度の人間だからって、他人もそうだと思わないでほしいんですが」


 現れたのは、西園寺だった。しばらく聞いていたのだろう、彼の表情には、ありありと不快感が現れている。その顔を見て、女たちは「ひい」と、小さく悲鳴に似た声をあげた。


「神月さんとお話しするのは楽しいし、何より彼女は尊敬すべき女性です。それが分からないなら、そちらの目が曇っているだけ。……さっきからの口さがない悪口とともに、今日のことは上に報告させていただきます。こんな人の多いところで取引先の悪評を流したとあれば、なんらかの手を打たなければなりませんから」


 悪口大会が上にばれる、と分かった瞬間、茜を目の敵にしていた集団は急にしゅんとなってしまった。


「も、申し訳ありません……」

「謝罪を受け取る義理はありません。すべきことをするまでです。とっとと俺の前から消えてくれませんか。目障りなので」


 本気で怒っているらしく、西園寺の一人称が「僕」から「俺」になっている。茜はその様子を、物陰からじっと見ていた。


 目に涙を浮かべ、ぞろぞろとまとまって帰り支度をする集団を見て、西園寺は大きなため息をついた。


「全く、神月さんがまだ来てなくてよかった……」

「それがさ。いるのよね」

「え!?」


 茜が声をかけると、西園寺は握り締めていた拳をほどいた。奥にいる女性陣も呆然としている。


「そっちの席に座ってたの。全部聞いたわ。最初から最後まで」


 今度こそ、女性陣の顔から完全に色がなくなった。


「私からも、できる限り正確に報告させていただくわ」


 おそらく西園寺は、自分に対する悪口は率先して報告しないだろう。だからそこを茜が補足するつもりだった。……取引先と自らの同僚に対する侮辱の糾弾という大義名分を得た以上、みっちりねっちりと。


 女性グループがその場に座りこんでしまったため、茜は西園寺の腕を引いて店を出る。迷惑料も兼ねて、一万円札をテーブルの上に置いてきた。


「車はどこ?」

「……店の、正面口に」


 まだ言葉少なな西園寺に向かって、茜は微笑んでみせた。


「ありがと。西園寺くん、正義感強いのねー。あんなに見事に撃退してくれるとは思わなかった」

「神月さん、気にされてますか? すみません、僕がもう少し早く来ていれば……」


 茜はため息をついた。


「……わずらわしいけど。ああいう程度の低い物言いに傷ついてるほど、私の時間は余ってないのよ」

「強いんですね」

「そう?」


 茜が腕を曲げて力こぶのポーズを作ってみせると、西園寺はようやく面白そうに笑った。


「そんなに笑うことないじゃないの」

「今日も本当にお綺麗ですから、その格好がどうも合わなくて。……でも、ありがとうございます」


 ひとしきり笑ってから、西園寺は茜に手を伸ばす。


「ではお嬢様、お手をどうぞ」

「うむ、くるしゅうない」


 茜は微笑みながら、その手に自分の手を重ねた。





「西園寺くんの家、マンションって言ってなかった? どんどん違う方に向かってるみたいだけど」


 車窓から周囲を見ながら、茜が問うた。車は川を越え、市内でも屈指の高級住宅街に入ろうとしている。土地の分割を防ぐため、独自のルールが課せられることで有名な地域だ。そのため、居並ぶ家々には全て立派な庭がついている。


「せっかく手折桜が買えたので、実家の庭で食べようと思っているんです。それに、神月さんにどうしても聞いてほしいことがあって」


 西園寺はそう言って、ふと考えるような顔になった。


 茜がその真意を聞き出す前に、車はとある門の中に吸い込まれていく。そして小さな東屋の前で止まった。


「わあ……」


 車を降りた茜は、思わず感嘆の声をあげた。


 見渡す限り、桜並木が延々と続いている。その奥に、まるで城のような日本家屋が小さくぽつんと見えた。あれがおそらく母屋だろう。


 それにしても広い。大雑把に見繕っても、敷地は茜の家の倍……いや、三倍でもきかないかもしれない。一等地にこれだけの広さがあれば、土地だけでも目もくらむような金額だろう。西園寺の実家も資産家だろうなとは思っていたが、まさかこれほどとは思わなかった。


「広くて気持ちいいところね、西園寺くん」


 そう言って振り返った次の瞬間、茜の唇になにか冷たいものが触れた。

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