第3話 一番幸せだった頃の残骸



 普段掃除なんか滅多にしない姉が、家捜しのように引き出しをひっくり返していた。

「何してるの?」

 思わず尋ねた私に、彼女はおっとりとした顔を向ける。


 ゆるくウェーブした色素の薄い髪に、ぽってりとした口元が印象的な顔。

 全体的に小柄で、とても女性らしい風貌の彼女は、どこにいても愛される人間だった。

 ただ、生まれたころから彼女と時間を共にしている私は、彼女の憎むべき場所も多く知っている。


 例えば、彼女が使ったあとの脱衣場がどうしようもなくびしょびしょなことや、部屋の中が散らかっていること。

 いつまで経っても自立せず、親に甘えているところ。

 感情が熱しやすく冷めやすいこと。

 時間を守れないところ。


 挙げだしたらキリがない姉の欠点を、私は長いこと享受してきた。

 おかげで私はしっかりものの称号を得て、取れない呪いのようにいつまでも貼り付けられている。少なくとも私は片付けができるし、自分の感情は自分でコントロールができる。時間に遅れることは滅多にないし、遅れてもきちんと詫びを伝えることができる人間だ。


 私は姉より優秀なのだ。

 そんな自負がアイデンティティだった頃もある。勿論、思春期の遠い昔の話で、それで姉と大げんかをしたことも含めて黒歴史というやつだ。


「ゆびわをさがしているの」

 私をおっとりと見上げた姉は、抑揚のない声でそんなことを言った。

 彼女は人形のように愛くるしいが、時々中身まで人形なのかもしれないと思うことがあった。

 友人や両親の前ではしゃいでいるときとは全く違う、無の表情。

 それは妹である私にしか向けない、彼女の一番空虚な内面だった。

「指輪?」

「夢でね、ゆびわがでてきたの。変でしょう、私普段アクセサリーをつけないのに、そのゆびわがすごく大事なのよ」

 彼女は夢見心地で語りながら、長い指を顔の前に掲げた。


 女性にしては大きめだが、傷一つない美しい手だ。

 彼女の美しさを底上げするパーツの一つを眺めながら、私も彼女が荒らした部屋と目線を合わせる。

「とてもきれいなゆびわでね、私はそれを誰かからもらったものだとわかっていて、その人のために大事にしないといけないと知っているの。でも、誰からもらったものなのかは覚えていないのよ。

 だからこそ、なくさないようにしなきゃって思っていたのに、起きたらなくなっていたのよ」

 だから、探しているの。見つけなくてはいけないの。

 そう繰り返した姉は、言葉のわりには慌てた様子もなく部屋のあちこちをひっくり返している。


 彼女が学生の頃から使っている学習机は、まだ学用品の一部が残ったままになっているらしい。

 子供の頃に流行っていた香り付きのペンはもう中身が分離していたし、文房具を分ける透明なケースには消しゴムと思われるカラフルな物体がカチカチに貼り付いていた。一番大きな引き出しからは、子供らしいレターケースやシールがびっしりと残されている。


 私はとっくの昔に処分したような、一番幸せだった頃の残骸だ。

 彼女がそれらのものを、敢えて取っておいているのか、本当にただ捨てないだけなのか、判断はつかない。


 今更使うこともないような物であっても、いつか使うかもしれないと大事にする人だ。

 思い出が詰まっているから手放せない。

 無機物にも愛を込めてそう囁く人だ。

 だから姉は愛されるのだろう。


 数ヶ月後、彼女もようやくこの部屋から出ると聞いている。

 自立が遅い代わりに、彼女の親離れもあっという間だった。

 両親も知らない間に彼女はパートナーを見つけ、遠い地へ嫁ぐことになっている。やっと手に入れた仕事も友人も全て捨てて、見知らぬ土地へ行ってしまうのだ。

 私が就職で一人暮らしをすると言ったときにはあんなに悲しんだというのに、彼女の報告はひどくあっさりしたものだったのを覚えている。


「旦那さんからもらったもの?」

「そうじゃないような気がするのよね。はじめさんからもらった指輪は、ちゃんと毎日持ち歩いているもの」

 ほら、と彼女が示したのは、彼女の部屋をそのまま小型化したような彼女のバッグだった。

 私でも知っているブランド品だ。

 私では絶対に選ばない少女趣味のデザインのバッグには、確かにジュエリーケースが押し込まれている。


 他にもコスメ、身分証明書、携帯の充電器。

 物忘れが激しい彼女は、大事なものはバッグに詰め込んで、決してなくさないように気をつけているのだという。

 入り口付近に放置されていたそれを持ち上げてみたが、変な場所についた皺は取れなかった。

 形状記憶のように元のくたりとした形に戻ったバッグを哀れみながら、今度は彼女が本の隙間を探し出すのを眺める。


「お姉ちゃん、この部屋の片付け間に合うの? お母さんがやきもきしていたよ」

「あら、平気よ。必要なのは服くらいだもの。あとは全部置いていく」

「全部?」

「ほしいものがあったら、持って行っていいわよ。ほら、この本とか香里好きだったでしょう」

 彼女が見せた少女漫画は、確かに幼い頃に夢中になって読んだものだった。

 美少女戦士が悪に立ち向かう話だ。

 彼女たちは仲間を集め、どんな敵にも立ち向かっていく。私もいつか主人公のように気高く美しい女性になりたかった。

 いつのまにか歳を追い越してしまった主人公は、あの頃と変わらない無邪気な笑みを浮かべている。

 私も好きだったのは確かだが、そのシリーズに誰よりも憧れていたのは姉のはずだった。

「いいよ。うちの部屋狭いもん」

「そう。やっぱりいくつかの本は持って行こうかしら。結構こういうのって、年々価値があがるのよね」

 集めたコレクションを眺めながら、姉は俗っぽいことを口にする。それは彼女の旦那の影響だろう。


 空虚な調子は、いつのまにか消えていた。

 私は立ち上がって、決して忘れることのない実家の香りを吸い込む。

 埃と黴。

 それと木とコンクリートの匂い。

 子供の頃は全てだった世界が、いまはとても小さく感じる。


「この部屋でなくしたのだと思うのだけどねえ」

 最後にまた呟いた姉の背中は、記憶よりも人形には似ていなかった。



 実家で上げ膳据え膳を堪能し、真夜中に家に帰る。

 車だとあっという間だが、電車を使うと一時間かかる。微妙な距離の実家は足が遠のきがちで、年々、帰宅後の疲労感も強くなっていく。

 帰り道のコンビニで買った酒とつまみをテーブルに並べて、何もかもから目を逸らして晩酌をする。

 携帯電話に届いていたいくつかの通知を拾い読みしていると、ふと視界の隅に見慣れないものがあることに気がついた。


 テレビ台の下で淡く光っているものに腕を伸ばす。

 蛍光灯に反射していたのは、小ぶりな可愛らしい石が埋まった指輪だった。


 以前、祖母から譲り受けたものに似ている。

 本物かどうかもわからないほどくすんだパールと、金色の台座の指輪は、磨いたわけでもなくただ年月を纏ったまま私の手に渡ってきた。

 祖母がどのような思いで持っていたものなのかわからず、とりあえずどこかに放り込んでいるはずだ。

 それが何故、こんなところに。

 首を傾げたところで、ふと、昼間に見た姉の様子を思い出した。

 酒も入っていたのだろう。

 幼い頃からいい思いばかりしているように見えた彼女への嫉妬や、羨望の気持ちに、些細な悪戯心がわく。


 私は拾い上げた指輪をテーブルに置いて、手にしたままだった携帯電話で写真を撮った。

 画像は加工をすることもなく、姉とのトークアプリの画面に直接貼り付ける。


『お姉ちゃんが探していた指輪ってこういうもの?』


 しばらくして、姉からの返信が届く。


『そう。そういうゆびわだった』

『うちに落ちていた。次会ったときに渡すね』

香里かおりが持っていたのね。見つからないはずだわ』


 送られてきたにっこりマークの絵文字を見ながら、私は訳もわからず泣きたい気持ちをかみ殺す。


「ばかみたい」

 声に出した嘲りは、がらんとした一人だけの部屋にぽとんと落ちた。




 数日後、恋人が家にやってきた。

 彼がうちに寄るのは初めてではない。

 うちは彼の職場に近く、仕事帰りにふらりと寄って休んでいくのがいつしか習慣になっていた。

 彼は勝手知ったる様子で冷蔵庫を開け、ソファーに座ってテレビを見出す。

 在宅の仕事がまだ片付いていなかった私は、彼がそうやって過ごしてくれるのがむしろ有り難かった。



 禄に会話もないまま数十分が過ぎた頃、ふいに彼が私を呼んだ。

「ねえ、俺、前に来たときここに指輪を置いていかなかった?」

「指輪?」

「姪のおもちゃ。いつのまにか上着に紛れてて、なくさないようにこの辺りに置いたんだけど」

 こういう色で、こういう形の。

 そう彼が説明した指輪は、先日、姉に渡したものと殆ど同じものだと思えた。


 なくさないように避けておいたのに、帰る頃にはすっかり忘れてしまったらしい。

 どちらかというと、彼も片付けは不得手なタイプだ。

 姉ほどではないが忘れ物やうっかりも多く「しっかり者」の私と相性がいい。


 両親と彼の兄夫婦、その娘の六人で実家に暮らしている彼は、すっきりと片付いた私の部屋が居心地が良いと言う。

 子供がいる家は乱雑になりやすいだろう。

 きっと家を心地よくするという発想もないまま、姉のように子供の頃からの蓄積に埋もれて暮らしている人だ。

 生活感を極限まで拭い去った私の部屋は、彼にとっては家とは違う空間に見えているのかもしれない。


「知らないわ。ごめんなさい」

「ううん。じゃあ、やっぱどっかにまた紛れてるかもなあ。なくしたって言ったら、また新しいのせがまれちゃうよ」

「じゃあ今度、一緒に買いに行かない? おもちゃ屋さんにはもう何年も行ってないから、行ってみたかったの」

 おもちゃの指輪を、大事そうに受け取った姉。

 大事なものが一緒くたになったジュエリーケースに、おもちゃの指輪を加えた姉。

 姉もいつか娘を産んで、おもちゃの指輪を子供に与えるのだろうか。


「香里が選んでくれると、助かるよ。俺子供苦手だから、わけわかんないんだ」

 晴れやかな表情で告げる恋人は、再びテレビに夢中になる。

 私は開いていたディスプレイに向き合って、そこに映る人形のような笑みを浮かべた女とぼんやり見つめ合った。


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