第2話 星座のように並ぶかさぶた



「セックスシンボルというのは、そこに特定の誰かを愛する姿勢があるからこそ、なわけで」

 とおるさんはたまにこういうことを言い出す人だ。

「どんな人にも愛想を振りまくけれど、どの人にも同じように鼻であしらってこそという考え方は好かないね。いけ好かない阿婆擦れに僕は興奮するのではない」

 真剣に語る彼は、横に座った中年女性が顔をしかめるのなどお構いなしに、コーヒーに三個目の砂糖を追加した。



 昼下がりのカフェは混んでいた。

 回転率をあげるための空間だ。

 隣の席とこちらの席の間には半端な距離しかなく、客が好きなようにテーブルを動かす所為で床には消えない跡が無数に残っている。

 居心地の良さが評判のようだが、私にはあまりその魅力がわからない。

 ただ、時間を潰すのには丁度良い。

 通さんが買ってくれたのはブラックコーヒーだった。

 レジでどこの豆だとか説明があった気がしたが、カウンターを離れた瞬間に忘れてしまった。ミルクも砂糖も好まない私は、受け取った瞬間に口をつける。

 まだ砂糖入りコーヒーをかき混ぜている通さんも、この店が気に入っているというわけではないのだろう。

 周囲に溶け込むための手段は弁えている。

 そんなポーズで座る彼は、うんと年上なのにどこか可愛らしい。


「色気というのは開放と閉鎖の中間に存在するものなのだ。無防備かと思われるくらい明け透けに見せていたと思うと、秘めた真実の愛も内包している。そこに人々は興奮し、セクシーさを見いだす。要は想像力の話なのだよ」

 ポーズとは裏腹に、彼の語る内容はのどかな昼間には似合わない。

 彼は長く節が目立つ指を突然広げたと思うと、病的な慎重さで折り曲げはじめた。


「イヴ・サン・ローランなんかはわかりやすい例だと僕は思う。彼はゲイで、長年連れ添ったパートナーがいた。女性達は決して手に入ることのない肉体美に恍惚として、せめて彼のミューズになりたいと懇願した。だから彼のヌードはこれ以上ない成功作としていまも語り継がれている。

 ブラッド・ピットは共演者とすぐに付き合うことで有名だ。彼がスクリーンの中で脱ぐたびに、共演者に愛を語るたびに、彼が演技の外ではどんなに魅力的に愛を表現するのだろうと人々は想像する。

 アダム・レヴィーンは愛の歌を、傍に居るとびきり美人な妻に送っている。だから彼の掠れた切ない歌声には物語が感じられる。ああ、あの無数のタトゥーを私にもなぞらせて。そんな叶わない欲求が彼を前にした女性達を興奮させるんだ」


 次々と折り曲げられていく指を眺めながら、私は彼のシャツから覗く皮膚の色を意識する。

 日焼けとは無縁の手首には、ミミズ腫れのような跡が残っていた。

 前に尋ねたことがある。

 彼は仕事で段ボールを扱うことが多いから、しょっちゅう傷つけてしまうのだと言っていた。体調や乾燥の具合で傷の程度は変化するらしく、今日は指先にもかさぶたがよく目立っていた。

 これも秘められたものの一つだ。

 私は小さな発見を楽しみながら、また濃厚なコーヒーで喉を湿らせる。


「だが、多くの人間は低俗なものの方を好むことはわかっている。わかりやすい色気。わかりやすいセクシー。むき出しの欲望。僕は自分が男であることが時折憎いよ」

「男と女は染色体の違いにすぎないと、以前言ってませんでしたか」

「その通りだ。だが、男は下半身でものを考える生物である以上、即物的は発散が必要だ。そこに美しさや神秘を求めている暇がないのが正直なところである」

 ため息をついた通さんは、ようやくコーヒーに口をつけた。


 訪れた沈黙に、店内の穏やかな音楽が重なる。

 隣の女性は私達を黙殺することに決めたらしく、何やら手元の手帳に熱心な書き込みをしていた。

 私は覗き込みたいような、気味が悪いような気持ちを抑えて、彼女と同じくらい彼女の存在を無視することに決めた。


 待ち合わせの時間まで、あと十分少々だった。

 彼は直接ここに来ることになっている。急ぐ必要は互いにないから、あと十五分は現れないだろう。

「そもそも、性欲というのは変なものだ」

 腕時計を一瞥した通さんも、まだ時間があると判断したのだろう。

 独り言のようなトーンで語る彼は、つまらなそうにテーブルに肘をつく。

「人類全員に備わっているはずなのに、秘め事として扱うのは何故なんだろうね。そこにあってはいけないものように扱い、目を逸らすのが正しいとされている。女性なんかは抑圧されていて表だって発言するだけで嫌なイメージをつけられてしまうだろう」

「まあ、最近は昔ほどではないでしょうけれど」

「少し目立った発言をすると、スケベだから何をしてもいい勘違いした頭のおかしい連中も出てくる。性欲に無関心な人や個々の羞恥心は尊重しなくてはならないのに」

 通さんはこの世の女性全てに謝罪するように、頭を低く垂れた。


 私は彼のこういうところが嫌いではない。

 欲望に正直で所構わず持論を展開するが、相手を尊敬する気持ちは忘れない。

 周囲の人間がテレビ番組やご近所付き合いに興味があるように、たまたま通さんの興味がその手の方向に偏っているだけなのだ。

 通さんが収集している様々なグッズは見応えもあるし、一度足を踏み入れてしまえばそっちの界隈の人間は優しい人も多い。彼のおかげで広がった見聞には感謝しないこともなく、少なくとも目の前の人間の性欲には寛容になれる。


「パトラちゃんは無関心な人種かな?」

 ふいに通さんが尋ねる。

 隣の婦人が耳をそばだてているような気配を感じながら、私もコーヒーカップをテーブルに戻した。

「私にも否応なしに搭載されているので、人並みに考えることはありますけど」

「『』んだ」

 当然顔を出した充が、出し抜けに言った。

 彼にしてははやい到着に驚く暇もなく、彼は隣の中年女性の向かいにあった椅子を引き寄せた。謝罪も断りもない堂々とした所作は、控えめな日本人を驚かせて有無を言わせない。

 充は私達の方へ身を乗り出すように腰掛けると、挑戦的な瞳で微笑んだ。


 遅刻魔が考えていることは、聞かなくてもわかる。

 クスクスと笑う彼は、相変わらず愛くるしい顔をしていた。

 微かに外の匂いがして、彼がいましがた到着したのだと想像させる。


「ホルモンのサイクルで生きている限りは、そりゃあね」

 驚きを隠せているのかわからなかったが、私は平気なふりで会話を続けることにした。

 対照的に口をあんぐりと開けていた通さんは、残っていたコーヒーをがぶがぶ飲んでから、マフラーをほどく充を睨んだ。

「なんだ。はやく着くならそう言ってくれないと。折角彼女から貴重な話が聞けたかもしれないのに」

「通さんに話すなら、僕が一緒に聞いても同じじゃないですか。どうせ貴方はパトラから聞き出したことをペラペラ研究室で語るんだから」

「それはそうだが」

 妙な納得を示した通さんは、私の会話を中断させたことを謝った。

 こんな会話、謝られるほどの内容ではない。

 思わず笑った私の手元で、コーヒーカップがカタカタと揺れた。


「関心を持っても、それを自分自身に投影する機会がなかったといいましょうか。お伽話のお姫様に憧れても、天皇制で城や貴族階級が廃止されているこの国では姫になれないと分かりきっているのと同じような感覚です」

「お姫様のように振舞うことは誰だって出来るよ」

「でも、お姫様のように扱ってもらえる機会に恵まれる人は稀ですし、その為には自らの働きかけが必要じゃないですか」

「パトラちゃんにないのは、その働きかけかな」

「そうですね。恋愛に限らず」


 好きになってほしい。

 心地よい思いをしたい。


 そう考えることがあっても、相手の顔を想像すると、途端に気持ちが萎んでいく。

 相手がいるということは、私が相手のことを同じだけ好きになって、心地よい思いをさせなければならないということだ。

 愛らしい容姿。魅力的な仕草。相手に自分を捧げたいという思い。

 そういうものが無縁な私には縁遠い話で在り続ける次元の話だ。

「いつか相手に出逢ったら自然に、なんてよく言いますけど、それこそ黙っているだけで出逢えるなら、」

「世の中に風俗はいらないだろうね」

 私の言葉を引き継いだ通さんは、うんうんと力強く頷いた。

「パトラはされたくないの、お姫様扱い」

「されたいされたくないの話ではないのだよ、充くん。それに、全ての人種が権力者に憧れるわけではない」

 ループする話に、コーヒーカップが空になる。

 隣の学生らしい二人組が席を立って、少ししてまた似たような風貌の男女が座る。

 まだ隣の婦人は熱心に書き物をしていたが、存在はもう殆ど意識する必要はなかった。


 通さんの背後には忙しなく動く店員の姿が見える。

 向こうに覗く通路には、様々な人種の人が行き交っている。

 それらの人間全員に性欲が備わっているのに、それを悟らせないまま歩いている。意識し出すと寛容さは吹き飛んで、気色の悪さに鳥肌が立つ。


 男二人は気がつかないようだ。

 通さんが手をあげた瞬間、またシャツの隙間からミミズ腫れの痕が覗く。

 星座のように並ぶかさぶたを眺めながら、私は時計が待ち合わせ時間になる瞬間を見た。





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