何てことのないおしゃべり
伍月 鹿
第1話 僕のクレオパトラ
「パトラはきれいだよ」
くりくりとした瞳は明るく明瞭で、くっきりと刻まれた二重の線は中性的だ。
整えられた前髪は彼の性格や環境の証。
こぎれいな服装は彼の価値観を現しているのだろう。
照れる様子もなく言葉を続ける充は、何の憂いもなさそうな笑みで私を見つめた。
「鼻はまっすぐだし、目元ははっきりしている。唇はいつもあがっている。いつも笑顔の顔だね。それに君はすごく姿勢がいい。いつも背筋は伸びているし、顎が突き出ていることもない。最近の人は皆画面に夢中でひどい格好をしていることを意識していないからね」
彼は、当たり前のように周囲を貶す。
たとえば、今日は暖かかったから夜のうちに道が凍ってしまうのはしょうがない、というような調子で。
どんなに慎重に歩いてもタイヤで押し固められた横断歩道は危険だ。タイヤは車の性能はあがってスリップしにくくなっているのに、歩行者の危険は減る機会がない。むしろ財政負担がどうこうと言ってノードヒーティングの場所はどんどん減っているのだ。
雪国の人間はやさしいというけれど、いくつかの点に置いてはどんな場所の人間より残酷だと思う。
長い冬を越す上で、自分を守ることが大事になっていくのは生き物としての本能だろう。どんな聖人君子でも寒さには勝てない。体温の低下は生命に関わり、年を重ねるに連れて脆くなっていく骨はちょっとした転倒にも絶えられなくなっていく。
生き物の本能が危機に晒されている瞬間に転んだ仲間がいたくらいでは、人は足を止めない。
私は打ったばかりの膝を撫でながら、充のきれいに弓型にしなる瞳を見つめ返した。
「そんなことを言うのは、充だけよ」
「面と向かって言えないくらい、きれいってことだよ。嘘は簡単につけるけれど、本当のことはなかなか言えないよね」
「あなたは言葉は嘘のように簡単なのに」
「僕は嘘をつかないよ、知ってるでしょう」
彼は、涙袋で重たく見える瞳を穏やかに細める。
目尻に笑いじわが出来る人間は、素敵だ。
それだけで穏やかな人間に見えるし、笑顔はどんな場面でも相手の警戒を解く。
わたしにも、それがあれば。
もっと彼のように愛嬌がある顔立ちで、彼のように人から愛されるのが当然のような笑みを作れれば、もっと周囲から愛されていたのかもしれない。
そう繰り返し考えて、天使のような彼を憎みそうになった時期もあった。
でも、彼が美しいことで彼を責めるのは間違っているとあるとき気がついた。
むしろ、褒め称え、彼がこれまで歩んできた人生すべての瞬間に感謝するべきだと思えた。思い改めると彼ほど傍にいて心地のいい人間はいなかった。
例えば。
いい歳して道路の真ん中ですっころんで、破いたストッキングを血で濡らさないように身もだえている私を、綺麗だと表現するのは、この街の中で充くらいだろう。
なんとか辿り着いた駅のベンチで、半分泣きながら膝を抑える女と、それを見て綺麗だなんだと真剣に語る男。
奇妙な取り合わせにも道行く人は知らん顔だ。
皆、屋内に入ったことに安心して、寒暖差で頬を赤らめている。
駅の待合所は暖かいが、ホームに出ればまた冷え込む。
つかの間の休息を選ぶ者と、どうせ冷えた体温は変わらないと改札へ突進していく者。それぞれの習慣に従った行動を眺めながら、財布の中でくちゃくちゃになっていた絆創膏を膝に貼る。
ストッキングは後ほど買いに行かなければならない。
近頃はなんてことのないようなコンビニでも、伝染しにくいものが売られている。
転んだくらいでは一日は台無しにならない。
それが幸福なのかそうではないのかは、現代人の私には判断がつかない。
「なんていうかなあ。パトラは、連れて歩きたくなるきれいさがあるんだよ。女優やアイドルのように完璧な美人ってわけじゃないけれど、ちゃんとしているから」
くちゃくちゃになった絆創膏のゴミを持て余している私に、充はなおも語り続ける。
「流行りの洋服や恰好は可愛いと思うし、流行るのにはちゃんと理由があると思う。でも、皆で同じ格好をしていたらお洒落っていうよりも無難になっちゃうんだよね。背景やショーウィンドウのマネキンを見ているのと同じ」
「世の中には、お洒落かどうかよりも無難かどうかで行動している人間がいるってご存じ?」
「嘆かわしいよね。それって、人に判断を任せて自分の頭では何も考えていないってことだよね。もっと言えば、芸術ではない」
尤もらしく顔を顰めた充は、ふと目線を目の前の雑踏に逃がした。
もこもこのコートに包まれたご婦人が通り過ぎたと思うと、その後ろをマフラーだけの男子高生がだらだらと歩いて行く。
個性的なようで無個性な景色は面白みもない。
「パトラは芸術だから」
携帯電話の画面を凝視しながら目的地に向かう女性を見送ったあと、充はまた私に視線を戻した。
「目に止まるんだよ。ぼやっとした景色の中でパトラだけがはっきりとしている。無意識に目が追ってしまう。僕は考える。あれは何だろう。見慣れたものではない。でも印象に残る」
「派手で悪かったわね」
「ちゃんと自分の頭で考えた人は気づくだろうね。君がすごくきれいなことに」
私のトゲを聞き流して持論を言い切った充は、一人で満足げに微笑んでいる。
多分、充は私を褒めたいわけではない。
勿論、転んで恥ずかしいやら痛いやらで呻いている私を慰めるつもりも一切ないのだ。
彼はいつだって、自分の中の「芸術」を語る場所を探しているだけだ。
ハンカチに滲んだ血が乾いてきた。
おろしたてのそれも鞄に放り込み、寒さと痛みで赤くなった膝小僧から手を離す。恐る恐る足を動かしたが、問題なく稼働する。風呂は染みるかもしれないが、夜には転んだことすら忘れているかもしれない。
「私を連れて歩きたいって本当?」
駅のアナウンスが、私達の会話の邪魔をする。
派手とか、普通じゃないとか、変わっているだとか。
爪弾きにされることには慣れていた。
周りから浮いていることに悩んで、柄にもない努力をしてみたこともある。でも、どうしても溶け込めないとわかったときに気がついたのだ。
言いたい人には、言わせておけば良いのだ。
それに、朝のラッシュを迎えた駅の中ではどんなに奇妙な存在がいても、皆、目の前のことに夢中だ。
人と違うなんて感覚は、結局は傲慢に過ぎない。
「僕は嘘をつかないよ」
周囲がやっと静かになって、充がおっとりと言った。
彼こそ、大勢の人間が傍に置いておきたいと感じる存在だろう。
誰からも好かれるような外見。穏やかな人当たり。口を開いた彼に対して辟易しない人間は少ないかもしれないが、美しい者が語ることは無条件に受け入れる価値があると考える人間もいる。
立ち上がった私を見て、充は緩めていたマフラーを結び直した。
時間をかけて立ち上がった彼は、厚底のブーツを履く私と同じくらいの目線で目を合わせなおす。
「お供しますよ、僕のクレオパトラ」
「まずはコンビニ。それから靴屋」
「靴?」
「冬はもう少し実用的な靴を履くことにする」
こつん、と駅の床に叩きつけた靴底は軽い音がする。滑り止めがついていない靴では濡れたタイルでも滑ってしょうがないのだ。
昨日までの私ならば、その選択を軽蔑しただろう。
だが、充は愛らしい顔でにっこりと笑って、優雅に私の手を握った。
「きっと実用的な冬靴を履いた君もきれいだろうね」
いつもの調子で語る充に引かれながら歩く。
顎を引いて、姿勢を保つ。
転んだときに乱れた服や髪はもう整えている。ストッキングだけはどうしようもないが、隠すように猫背になることだけは絶対に許せない。
溶け込んでたまるか。
そう内心トゲを生やして傲慢に歩く私を、充が目を細めて賞賛した。
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