最愛の妻のバケットリスト
春風秋雄
俺の妻はクラブのママ
ここは華やかなキャバクラのフロアーの片隅にあるボックス。指名の娘が他の席に行っている間に代わりにつく娘をヘルプ嬢というが、今日は座るなりヘルプ嬢がついた。指名嬢は他の席で接客しているのだろう。ついたヘルプの娘が、入店間もない新人の娘だったので、俺はまだそれほどアルコールも飲んでいないのに饒舌になっていた。
「君は、綺麗だし、とてもセンスがある。近い将来、絶対この店でナンバーワンになる素材だと思うよ」
「本当ですか?」
ユリカと名乗った新人の娘は、うれしそうに俺の顔を見た。
「ユリカちゃんは、いまいくつなの?」
「22歳です」
「22歳かぁ、一番良い年だね」
これは相手が何歳でも言っている俺の常套句だ。
「そうなんですか?」
「10代はまだまだ子供、25歳を過ぎると、女性としてほぼ出来上がっているので、男としては面白みがない。でも20代前半というのは、もう子供ではなく、甘いも酸いもある程度わかっているけど、まだまだ女性としても人間としても出来上がっているわけじゃない。これからの経験次第で、どんどん女としても人間としても磨きがかかってくる年なんだ」
ユリカちゃんは、真剣な目で俺の話に食いついてきた。
「女性の場合、まだ若い20代は、肌も綺麗で、誰でもチヤホヤされるけど、女性の本当の魅力は30を過ぎてからなんだ。30歳を過ぎても綺麗だなあという女性っているでしょ?」
「いますね。どうしてあんなに美しさを保てるんでしょう?」
「それは、内から滲み出てくる美しさなんだ」
「内から滲み出る美しさですか?」
「外見は化粧なんかで、いくらでもごまかせるけど、女性の本当の美しさは、内から滲み出てくる美しさなんだ。そのためには、20代のうちに色々な経験をしておくことだよ。日々当たり前に生きていくのではなくて、様々なことにチャレンジして、色々な冒険をして、喜んだり、悲しんだりしながら、自分を磨いていく、そうすると自然と女性としての魅力が内から滲み出てくるんだよ。だから30過ぎてからの女性の魅力は、20代のうちにどんな経験をしてきたかにかかっているんだよ」
「30過ぎてからも綺麗な女性って憧れます」
かなり、食いついてきた。もう少しだ。
「それには、今のうちに様々な経験を積むことだね」
「経験ですか。どんな経験を積めばいいんでしょう?」
来たー!ここからが俺の腕のみせどころだ!
「まずは、その第一歩が、俺との不倫だね」
「えー、そこに行くんですか?」
「そうだよ。いいかい、不倫といっても…」
そう言いかけたところで、スッと黒服のボーイが近づき「ユリカちゃん、お願いします」と言って、ヘルプの娘を抜きにきた。これからが、俺のトークの肝心なところなのにと振り返ると、指名嬢が仁王立ちで俺を睨んでいた。呼ばれたユリカちゃんは、素直に立ち上がり席を離れる。すれ違いざま指名嬢は
「あの人の言うことを真に受けちゃダメだからね」
とユリカちゃんに言って、俺の隣に座った。
「なんか、話が盛り上がっていたみたいね」
トゲのある言い方で指名嬢は俺を見た。
「新人だというから、この仕事は楽しいんだよと教えてあげてたんだよ」
「ふーん。まあいいけど」
「それより、話があるからと言って、俺をここに呼び出すのはやめてくれないか」
「仕方ないじゃない。二人とも時間帯が合わないんだから、話せるのはこの時間のここしかないでしょ?」
「だからと言って、何が悲しくて、高いお金を払って、キャバクラにまできて、娘のお前を指名しなければいけないんだよ」
「まあいいじゃない。たまには娘の仕事っぷりも見たいでしょう?父親参観日みたいなものよ」
そう、俺が今日指名したキャバ嬢は、正真正銘の俺の娘だ。
俺の名前は長瀬真也。48歳で総合コンサルタントの会社を経営している。総合コンサルタントと言っても、企業の通信設備の営業から派遣などの人材紹介、社員教育の手伝いなど、何でもやっている会社だ。社員は男女含めて40名ほどいる。この小生意気な指名嬢は娘の愛だ。今年20歳になる。一応服飾デザインの学校に席を置いているが、水商売の方が楽しいらしく、学校へは行っているのかどうかよくわからない。母親譲りでセンスが良いらしく、この店でナンバーワンになっている。妻の智里はこのキャバクラの近くでクラブのママをやっている。20年ほど前、仕事の接待で行ったクラブで出会い、俺がぞっこん惚れてしまい、そのクラブでは人気嬢で、ライバルはかなりいたようだったが、口説いて、口説いて、やっと結婚してもらった。結婚してから一旦水商売は引退したが、根っからこの仕事が好きらしく、愛が保育園に行く頃に復帰した。雇われホステスでお金を貯め、最後は俺も資金援助して自分の店を持った。そんな家庭環境だから、愛がキャバクラで働くと言い出した時に、引き留める術はなかった。それどころか、妻は接客の心構えなどを細かく伝授していた。その会話を聞いていると、この二人にかかったら男なんてイチコロだなと思わずにはいられなかった。
「それで、話って何よ」
「たまにはママのところへ行って話をきいてあげて」
「何かあったのか?」
「この前健康診断に引っかかって、再検査してたじゃない。その結果が出てから様子が変なの」
「検査結果の内容は聞いたのか?」
「聞こうとすると話をごまかすのよ」
そう言われると、ちょっと気になる。
「たまにはママのところに泊まって、久しぶりに夫婦の営みをしてきなよ」
「親になんちゅうこと言うんだよ」
俺たち夫婦は、生活時間帯が合わないので、今はそれぞれマンションを借りて別居している。娘の愛もマンションを借りているが、同じ水商売で、生活時間帯が同じと言うこともあり、智里と一緒に過ごす時間は俺よりはるかに長いようだ。親子3人、バラバラの生活をしているが、仲は良い。たまに一緒に食事にも行っている。そういえば、この半月ほど、妻には会ってなかった。俺はクラブのラスト時間を狙って店に行ってみることにした。
「いらっしゃいませ!」
店のドアを開けた瞬間、店のスタッフの元気な声が俺を迎えてくれた。
「あ、オーナー。お久しぶりです」
ホステスの順子ちゃんが近寄って来た。俺はこの店ではオーナーと呼ばれている。店内を見渡すと、お客さんは2組残っている。あと30分もすれば閉店なので、俺は客席には座らず、奥のスタッフルームに座った。
「あら、めずらしい。どうしたの?」
俺の姿を見た智里がスタッフルームに来て声をかけた。相変わらず綺麗だ。もう45歳なのに、見た目は30代半ばと言われても通る容姿だ。ただ、少し痩せたような気がする。
「さっき愛のところへ行ったら、たまにはママに会いに行けと言われてね。このあとアフターは入っている?」
アフターとは店が終わったあとに、お客さんと食事をしたり飲みに行ったりすることだ。
「一応誘われているけど、断っても大丈夫だから、もう少し待っていて」
智里はそう言って客席に戻って行った。
ひとり取り残された俺は、スマホをいじりながら時間をつぶす。ボーイが気を利かせて水割りをグラスで持ってきてくれた。
俺は極力客席には座らないことにしている。妻の店なのでただで飲めるのだが、俺は智里の接客を見るのが嫌だった。基本的にクラブではお触りはNGだが、どうしても品のないお客はいるものだ。さりげなくお尻を触ったり、胸をつついたりするお客はいる。水商売とはそういうもので、それに目くじら立てていると商売にならないということは、俺自身遊んでいるのでよく知っている。それでも目の前で妻がそういうことをされているのを見るのは嫌なものだ。だから、いくら智里が客席で飲めばいいと言っても、よほどのことがない限り俺は断っている。今では智里も店のスタッフも俺に客席に座れとは言わなくなった。
智里とバーに入ったのは夜中の1時を過ぎてからだった。
「愛に聞いたけど、健康診断の再検査の結果が出たって?どうだったんだ?」
「何でもないわよ。ちょっと胃潰瘍になっていただけ」
俺はジッと智里の顔を見た。長年連れ添った仲なので、智里が嘘をついているかどうかは、ある程度分かる。
「かなり悪い病気なのか?」
智里は俺の顔を見た。
「単なる胃潰瘍だって言っているじゃない」
「お前がそうやって右目を吊り上げて言う時は、嘘がバレないようにムキになっているときだ。それに胃潰瘍程度なら、お前は笑って言うだろ?」
智里は黙り込んだ。しばらく目の前のカクテルをチビチビ飲んだあとに静かに言った。
「愛にはまだ言わないでね。すい臓ガンだった」
俺は予想をはるかに超えた回答が返って来て戸惑った。すい臓ガンって、自覚症状がないので早期発見は少なく、見つかったときには手遅れのケースが多いと聞いている。
「手術で治るのか?」
「まだわからない。来週、紹介された病院で検査して今後の治療方針を決めるの。本当はその結果を聞いてから、あなたに言うつもりだった」
「俺は最初から言ってほしかった。何もできないかもしれないけど、心の支えにはなれると思うから」
智里はチラッと俺を見たが、すぐにまた下を向いた。
「私自身が気持の整理ができていなくって、そんな状況であなたにどう言えばいいのか、わからなかった」
こんな気弱な智里の姿を見るのは初めてだった。
とりあえず、治療方針が決まったら連絡するということで、その日は別れた。智里が「うちに泊る?」と聞いてきたが、明日の仕事が早いので帰ると言って断った。俺たちはもう何年もレスだった。智里もそんな意味で聞いたわけではないだろうが、病気の話を聞いたあとなので、俺は自分の気持ちを整理できず、ひとりになりたかった。
2週間くらいしてから智里から連絡があった。治療方針を提示されたらしい。俺は昼間に智里のマンションに会いに行った。
「どうだったの?」
「真ちゃん、ダメだった」
智里はあっけらかんと言った。
「ダメって、何が?」
「あちこちに転移しているみたいで、手術は無理だって」
俺は頭が真っ白になって、何も言えなかった。
「あと持って4か月くらいらしい。だから緩和ケアだけすることにした」
俺は、智里の言葉が聞こえているのに、何も考えられなかった。なのに、何故か涙だけがポタポタと落ちてきた。
「真ちゃん、泣かないで」
俺は、何も言えず、ただただ智里を抱きしめた。
「真ちゃん…」
「抗がん剤とかで少しでも長く生きられないのか?」
「抗がん剤の副作用とか嫌だもん。髪の毛が抜けて、ボロボロになった姿を真ちゃんに見せたくない」
「ボロボロの智里でも、俺は生きていてほしい」
「もう決めたから」
俺は何か言いたかったが、言葉が出てこなかった。
「それでね真ちゃん、私最後にやっておきたいことがあるの」
「バケットリストか?」
ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの映画『 The Bucket List』。日本語のタイトルは『最高の人生の見つけ方』だった。レンタルDVDを借りてきて、二人で観た。余命6か月を宣告された二人が、人生最後にやっておきたいことをリストアップして、本当に実行してしまうという映画だった。痛快で、心温まる映画だった。原タイトルのバケットリストとは、生きている間にやっておきたいことを書き留めておくリストのことだ。
「バケットリストかぁ、そこまで考えてなかったなぁ。でも、せっかくだから、あと二つくらい足してバケットリストにしてもいいかな。真ちゃん、協力してくれる?」
「俺は、何だって協力するよ」
智里がやっておきたいことと言っていたのは、人に会うことだった。3人の人と会っておかなければいけないという。そのうち2人は店のお客さんだということだ。
まず最初に連れて行かされたのは、長年店の経理関係を任せているという、税理士をやっているお客さんだった。その税理士の事務所まで車で送っていき、俺は駐車場で待っていることにした。当然店を閉めることになるだろうから、その後始末で税理士と相談するのは当たり前のことだった。ただ、その税理士が智里の古くからのお客さんだったというのが気に食わなかった。俺と出会った店からの常連客らしい。店を出すときに、俺に相談なく税理士を決めていた。税理士なら俺がいくらでも紹介するのに、わざわざお客さんに頼むことはないではないかと思っていた。その男と何かあったとは勘繰りたくはないが、釈然としないものが心の中に澱のようにこびりついていた。
小一時間ほどして、智里は税理士を伴って出てきた。俺の方へ近づいてくる税理士の目は真っ赤だった。智里が税理士に俺を紹介する。仕方なく俺は名刺を1枚出し、名刺交換をした。
「あなたがご主人ですか。残念ですね。本当に無念です。ご心中察します」
税理士はそう言って、真っ赤な目で俺を見た。そして、智里に向き直り、「あとは僕が全部やるから、智里ちゃんは安心して」と言った。
俺は智里にならって「よろしくお願いします」と頭を下げた。
智里は、今月一杯は店に出ると言い張った。月末までまだ2週間もある。体のことを考えたら、順子ちゃんに任せて、店は休めばいいじゃないかと言ったが、色々とやっておかなければならないことがあると、聞く耳を持たなかった。
2人目の人に会いに行ったのは、税理士のお客さんに会ってから4日後のことだった。その日、智里はお店を休み、夜の8時にそのお客さんのマンションで会うことになっていた。俺は車で指定されたマンションまで送って行き、近くの駐車場で待とうとしたが、智里が
「今日の相手は時間がかかるから、真ちゃんは帰っていいよ。帰りはタクシーを使うから」
と言って俺を帰らせた。俺は何でも協力すると言った手前、素直に従ったが、内心は穏やかではなかった。今日会う相手は、近藤さんという、智里のお客さんの中でも、一番太い客だと言っていた。そんなお客さんと、夜に、しかも相手のマンションで会うとはどういうことだろう。
俺は智里と結婚して以来、本当に俺は愛されているのだろうかと、いつも不安だった。口説いて、口説いて、最後は根負けしたように結婚を承諾してくれた智里だが、本当は俺なんかより、もっとふさわしい男がいたのではないかと、いつも不安に感じていた。俺は経営者といっても、たいして儲かっている会社ではないし、俺なんかよりお金を持っていて独身のお客はいくらでもいる。だから、愛が生まれた時は嬉しかった。愛がいる以上、俺は智里と家族を続けられると思ったものだ。しかし、別居してからは、その不安がまたぶり返してきた。ひょっとしたら他に男がいるのではないかと、いつも妄想にとらわれていた。
智里が会わなくてはいけない最後の3人目は、実の妹さんだという。妹さんがいるということを、俺は初めて聞いた。幼い頃に両親を亡くし、親戚の家で育てられ、高校を卒業と同時に東京へ来て水商売を始めたと聞いていた。育ててくれた親戚には、恩は感じているが、大事に育てられたわけではないという。想像するに、結構辛い生活だったのだろう。結婚する時も挨拶なんか行く必要はないと言われ、結局智里の親類には一切会ったことがなかった。妹さんは生まれ故郷の新潟にいるらしい。俺も一緒に行くと言ったが、複雑な環境にいるので、一人で行くと言って、新幹線で行ってしまった。
会わなければならない人に、すべて会った智里は、最後にやり残したことをしたいと言ってきた。バケットリストを作ったのかと聞いたら、リストを作るまでもない。やりたいことは、たった2つだけと言って、2枚のカードを取り出した。見せてみろというと、1枚だけ俺に渡した。そこには【真ちゃんと、愛と、3人で旅行へ行きたい】と書いてあった。そう言えば、愛が中学生になった頃から家族で旅行していない。いよいよ愛に智里の病気のことを伝えなければならない。それはとても辛いことだった。
愛には、俺から智里の病気のことを話した。休みの日に会いたいと言うと、友達と約束があるからダメだと言う。ママのことで大事な話があると言って、やっと会ってくれた。
愛は子供のように泣きじゃくった。すぐに智里に電話しようとするので、そんな状態で電話したらママを苦しめるだけだろと言って止めた。そして、落ち着いたところで旅行の件を話すと、素直に頷いた。
旅行は智里の希望で草津温泉にした。智里の体のことを考えて、もっと近くの熱海あたりで良いのではと言ったのだが、どうしても一度行ってみたかった温泉だという。草津温泉は昔から薬湯として、「恋の病以外は全て効く」と言われている温泉なので、智里の病気が少しでも良くなればと、草津温泉に決めた。
旅先で智里は楽しそうだった。移動の電車の中でも、旅館の中でも、こんな顔をするのを見るのは何年ぶりだろう。そんな智里を見ていると、病気だということが嘘のようだった。草津の湯が効いて、本当に智里の病気が治ってくれないかと祈った。
旅行から帰った翌々日、俺は智里に呼ばれて、夕方に智里のマンションへ行った。部屋に上がると、智里の手料理が並んでいた。テーブルにはワインも置いてある。
「もう何回も作れないかもしれないから、作れるうちに作ってあげたいと思って」
その言葉で俺は、胸がいっぱいになってしまった。
食事が終わり、ワインからウィスキーの水割りに変った。
「私のバケットリストの最後の1枚、渡してもいいかな?」
「もちろん、いいよ」
「無理な願いかもしれないけど、よろしくお願いします」
智里はそう言って最後のカードを俺に渡した。
カードには
【人生で、一番愛した人に、もう一度抱かれたい】
と書いてあった。俺はハッとして智里の顔を見た。
「もちろん、真ちゃんのことだよ」
「俺は、智里に愛されているという自信がなかった」
「何言っているのよ。私は、ずっと真ちゃんを愛してたよ」
俺は、思わず涙ぐんだ。
「この願い、無理かな?もうこんなオバちゃんは抱きたくないかな?」
「無理なわけないよ。これから…毎日…智里が、元気な間はずっと…」
俺は、こみ上げてくるものを抑えきれず、嗚咽しながら智里を抱きしめた。
キャバクラは、いつ来ても楽しい。智里の四十九日が終わり、そろそろ飲みにでも行こうかと思っていたところに、愛から呼び出しがかかった。今日のヘルプの娘は入店して1か月だが、なかなか指名が取れないと言っている。
「ナンバーワンになる嬢には、共通点があるんだ。それをつかめば指名は簡単に取れるし、この店でトップ3に入るのは簡単だよ」
「本当ですか?共通点って、何ですか?」
「簡単には教えられないな。俺が長年キャバクラに通って見つけた秘訣だから」
「えー、そんなこと言わずに教えて下さいよ」
「じゃあ、左のオッパイを触らせてくれたら教えてあげるよ」
「何で左なんですか?」
「右手で触るには左の方が触りやすいだろ?それに、ほとんどの女の子は心臓がある左の方が大きんだよ。だから、同じ触るにもお得感があるじゃない」
「お得感ですか?面白い!どうしようかな」
よし、もう一押しだ。と思ったとたん、後から頭をはたかれた。振り向くと愛が座席の後ろに立っていた。通路側の席に陣取ったのは間違いだった。
「だから、ここに呼び出すのはやめてくれと言ったじゃないか」
「私、今月でキャバクラ辞めるから、ここに呼び出すのは最後だよ」
「辞めるの?」
「うん、ママのお客さんが指名で来てくれて、色々話をして、来月からその人の会社で働くことになった」
「智里のお客さん?」
「近藤さんという、アパレルメーカーの専務さんで、生前ママに私のことを頼まれていたんだって」
近藤さんと言えば、会っておきたい人のひとりで、マンションまで送って行った相手だ。愛に名刺を見せてもらったら、俺でも知っている大手の会社の専務だった。
「ママは、私には水商売は続けさせたくないと言っていたみたい。それで、服飾デザインの学校にも通いながら、最初はパート勤務で、学校を卒業したら正社員として働かせると、ママと約束したみたい」
智里は、自分がいなくなったあとの愛の将来を考えて近藤さんに頼みに行ったのか。
「それで、ママのお店、今日再オープンするらしいよ。行ってみたら」
「そうなの?俺は何も聞いてないけど。誰がママをやるの?」
「さあ?行けばわかるでしょ」
俺はキャバクラを出ると、その足で智里がやっていた店に向かった。ビルのエレベーターで、智里の顧問税理士に会った。
「先般は葬儀に来て頂き、ありがとうございました」
「いいえ、落ち着きましたか?」
「まあ何とか」
「あ、そうだ。長瀬さん、今度書類持って会社へお伺いしますので、実印を用意しておいてもらえますか?」
「実印ですか?」
「あれ?智里さんから聞いてないですか?この店は会社組織にしたのですが、相続で長瀬さんと愛さんが株式を50%ずつ相続しますので、代表を長瀬さんに移すように言われているんですよ」
「私がこの店の代表ですか?」
「そうです。それで、毎月の利益の50%を長瀬さんの口座に振り込むように指示されていますので、銀行口座も教えて下さい」
「この店の利益って、どれくらい出ているのですか?」
「智里さんがいた時は、家賃や仕入れ、スタッフの給料を全部支払って、だいたい200万円くらいの利益は出ていました」
「そんなに利益が出ていたんですか!」
「まあ、ママが変わって、売り上げがどれくらい変わるのかわかりませんけど、新しいママに会えば常連客はそのまま通ってくれると思いますけどね。ちなみに、残りの利益はすべてママの取り分です」
毎月100万円近いお金が入れば、俺のコンサルタント会社も楽になる。智里はそういうことも承知で手配してくれていたんだ。
店に入ると、順子ちゃんが「代表!いらっしゃい!」と迎えてくれた。
席に案内されて、しばらくすると、新しいママが挨拶に来た。俺はその顔を見て腰を抜かした。
「智里…」
「初めまして義兄さん、智里の妹の智華です」
「智里の妹さんですか?そっくりですね」
「双子ですから。これ、義兄さんに渡すように姉から預かっていました」
そう言って智華さんは俺に手紙を差し出した。
“ 真ちゃんがこの手紙を読んでいる頃は、もう私の四十九日も終わって、私はこの 世にいないんだね。そろそろキャバクラかどこかに遊びに行って、初めて私に会った時に私に言ったように「接客の仕方を教えてあげるから左のオッパイを触らせろ」とか言ってない?
それより、妹の智華に会って、私にそっくりでビックリしたでしょう?真ちゃんが驚いている顔が目に浮かぶよ。
智華は、両親が亡くなって、私とは違う親戚に引き取られました。私を育ててくれた親戚もひどかったけど、智華は本当に苦労させられたの。高校を卒業してすぐに、水商売で働かされて、家にお金を入れるように言われ、叔父さんが脳卒中で倒れてからは、その介護もさせられて、結婚もできないままずっと家に縛り付けられていたの。先日、智華のところへ行って、まとまったお金を渡して、やっと智華を自由にしてもらいました。そして東京へ来てもらうことにして、私の店を任せることにしたの。真ちゃん、これから智華のこと、よろしくね。
真ちゃん、私、もう少し生きたかったな。あと10年、いや5年でもいい、真ちゃんと一緒にいたかったな。智華を救い出すためにお店を頑張って、そのために別居までしてしまって、そろそろまとまったお金が出来るから、智華を救い出したら、また真ちゃんと一緒に暮らそうと思っていたのにな。悔しいよ。
私がいなくなったら、真ちゃんは誰か新しい相手を見つけるのかな?その人に優しい言葉をかけて、私にしてくれたみたいに、そっと髪を撫でて、そして、ベッドで優しく優しく抱いてあげるのかな?そんなこと考えると、胸が苦しくなるよ。真ちゃんは、ずっと、ずっと、私のものでいてほしかった。
でも、仕方ないよね。私はもうこの世にいないんだもの。
でもね、その相手が智華なら、私は許せる気がするよ。智華にはこれから本当に幸せになってほしい。真ちゃんとなら必ず幸せになってくれるはず。だって、私は真ちゃんと結婚して、本当に幸せだったもの。そして、智華は私の分身でもあるから、智華を通して、私は真ちゃんと一緒にいられるような気がする。だから、同じ新しい相手をみつけるなら、それが智華だったらいいな。まあ、顔は似ていても中身が真ちゃんの好みとは限らないから、無理強いはできないけどね。でも、ちょっとだけ頭に置いといてくれたらいいな。
真ちゃん、真ちゃん、真ちゃん、大好きだったよ。いっぱい愛してくれてありがとうね。私は、真ちゃんと一緒に暮らせて、とても幸せでした。本当にありがとう。天国へ行っても、私は真ちゃんを愛しています。“
俺が手紙を読み終えると、智華さんがそっとハンカチを渡してくれた。いつの間にか俺の顔は涙でグショグショだった。
俺は顔をあげ、智華さんの顔を見た。智華さんの、その瞳の向こう側で、智里が笑いながら手を振っているような気がした。
最愛の妻のバケットリスト 春風秋雄 @hk76617661
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