糸追い

@dorche

糸追い

遠藤ひまり

 「手では掴みとれない『時間』を、絵に描いたらどうなるだろう?」

「……さあね。ぱっとは思いつかない」

「うん。形が無いって難しい、考えれば考えるほど空虚だ。白紙で出すのが正解なのか?」

「そうだね。あるいは…」

「あるいは?」


 ただがむしゃらに、縋るものが欲しくて互いの手を握っていた。色濃く重たい空気の塊が執拗に全身に纏わりき、どれだけ姿勢を低くしても、生き物であるかのようにどこまででも追いかけてきて肺を焼き焦がす。前に進もうとすれば天井に届くほど大きなゆらめく熱い柱に阻まれて、戻ろうとすればたちこめるどす黒い霧に目を塞がれる。清潔な空気は、必死で走れば走るほど肺から逃げていった。

それでも、諦めたくはなかった。

 あと一歩、もう一歩だけ踏み出すことができれば、きっともう大丈夫なのに。

 意志に反して体は言うことを聞かなくなっていく。霞む意識、遠ざかる周りの音の中で、ただ、ひたすらに。縋るように、互いの手を握っていた。

 遠いどこかで小さくサイレンの音が聞こえる。ほっとすると同時に、きっともう遅いのだろう、とぼんやりと思った。

 糸が切れたように倒れ、それにつられたように一緒にいた彼も膝から崩れ落ちた。壁にもたれかかり、満足に呼吸もできない中、彼の肩が絶えず上下するのを背中で感じる。生きている。消える寸前の微かな灯火が、今、一番強く燃えている。蝋燭でもない、線香でもない、そういった控えめな光ではなく、力強く弾け、夜空いっぱいにその手をぐんと伸ばして、持てる力の全てで散り散りに散っていく、花火のような残燭が。

 力を振り絞って、僅かに緩慢に瞼を開く。煙が染みてもこの目に焼き付けたいと思った。最後、もしこれで本当に最後なのだとしたら、最後に見るのは私たちを灰にしてしまうような炎ではなくて、消えかかった優しい命を見たかった。彼の、そして、私の。

 生まれて初めて抱いたその感情は、死への恐怖に最も近く、まるで合理的ではなかった。

 縋った体温が薄れていく。目を開けていられなくなる。落ちているのか浮いているのかも分からない。胸の躍るような走馬灯も、奇跡も、神のお告げもなく。なんてつまらないエンドロールだろう。平凡に、ただ静かに穏やかに、永遠の孤独に沈んでいく。

 深く。

 どこか遠い、戻れない場所へと、一直線に向かっている。そういう確信めいた感覚があった。

 死んだ後に行き着く場所があるだなんて知らなかった。神を本気で信じたことなんて無かったけれど、どこかの絵で見た天国や地獄のような景色が脳裏によぎる。このままきっと私の意識は暗転して、再び目覚めたときには閻魔大王の前か、それに似た存在の前で、正義と道徳のもと死後の裁きを受けるのだ。

 身構え、ただ静かに待った。

 何秒か、何分か。ひょっとしたら何十分も待っていたかもしれない。

 そこで、違和感をおぼえた。

 何かが確実に違う。

 そのまま、待てども私の思考が途切れることはなかった。覚悟した静寂も、暗闇も、いつの間にか実態を持った別の何かに変わっている。思いがけない感触、まるで生きているかのような感触。

 瞼を貫通して届く眩しい光に驚いて、反射的に目を開く。鋭い、暖かみのない無機質な明かり。飛び込んできたのは、夢というにはあまりにも現実的、悪くいえば俗世的な光景。

 そこは、全く知らない場所だった。

 白いつるつるの床と、ところどころに敷き詰められたチェス盤のような模様のカーペット。広い空間を照らす照明が目に痛い。高い天井、前後に伸びた長い廊下。吹き抜けになっているのか、床にぽっかりと空いたところから、見上げれば上階が、見下ろせば下階が見える。上と下に伸びる止まったエスカレーター。そして何より、廊下の左右に際限なく並ぶ店、店、店。今は営業時間外なのかどこも暗く、しんとして人気が無かったけれど、間違いようもない。

 どういうわけか、ここは無人のショッピングモールだ。

 「……修二」

はっとして、肘をつき起き上がる。いない。辺りを見渡せど、誰一人いない。つい先ほどまで一緒にいた人間さえ、どこにも見当たらない。

「修二!」

声を張って呼んでみる。張り上げた声は白に吸われて、響かない。そのまま十秒ほど待ってみても、一向に返事はなかった。

 そっと床に手を当て、立ち上がる。あれほど朦朧としてくらくらしていた視界も思考も明瞭だ。素肌に触れた床や空気はひんやりとしていて、少し寒いとさえ感じた。

 歩き出そうとして、はっと自分の体を見下ろす。制服のブレザー、その下によれた白のブラウス、チェックのリボン。同じ柄のスカートとソックス、四年も履き潰したローファー。穴が空くほど凝視しても、いつもと全く変わらない。よく見慣れた、学校にいるときの服装だ。

 何もおかしいところなんてない。でもそれがおかしかった。だっていくら見てみても、焦げた様子も火傷の痕も見つからない。おかしい。絶対におかしい、確かに私はさっき。

 ぐっ、と何かに足を阻まれた。

 「わっ」

 咄嗟に払おうとして足を振り上げ、そのままバランスを崩して尻餅をつく。じんわりとした痛み、冷や汗。短くうめいて、つまづいたそれに目を向ける。

 それは目立たないながらも、この空間で明らかに異質なものだった。

「……糸?」

足首より少し高い位置で張られた一本の細く白い糸。どこまでも長く、終着点がない。果てしなく前後に伸びている。通路を横切る人を片っ端から引っ掛けようとしているとしか思えないそれは、よく見れば、じりじりとどこかへ巻き取られているかのように動いていた。

 しゃがみ込み、恐る恐る触れてみる。肌触りは毛糸のように思えた。

 どうしてこんなところに、と疑問に思い、試しに軽く引っ張ってみようとしたときだった。

 「えっ!?」

ぴりり、とけたたましいメロディーが耳に届く。静寂に慣れた耳には刺激が強く、やっぱり悲鳴をあげてしまった。焦って辺りをきょろきょろと見回す。周りに人なんていないのに、恥ずかしさで顔が熱くなる。腰あたりに強い振動。そこでようやく、ポケットにスマホを入れていたことを思い出した。

 そうだ、まだ連絡手段を持っていたのを忘れていた。慌てて取り出すと、画面上部に大きく『しゅうじ』と表示されていた。一もニもなく電話をとり、スマホを耳に押し当てる。無事なのか、ここはどこなのか、今どこにいるのか、どうして私たちは。聞きたいことも相談したいことも山ほどある。捻り出した声が震えた。

 「もしもし」

『…………』

「修二?」

『…………』

「もしもし。あれ、修二?」

『………………』

 繋がっていないのかと画面を見てみても、表示された秒数ばかりが増えていく。何度呼びかけても返ってくるのは沈黙ばかりだった。おかしいのは、スピーカーに入るザザザというノイズや、何やら足音が忙しなく草を踏むような柔らかい音など、話し声以外の音は漏れ聞こえてくることだった。ただ、修二の声だけが切り取られてしまったかのようにそこに無かった。

 やがて、ぷつりと、音をたてて通話が切れる。頭の中が真っ白になり、喪失感が胸に広がる。やっと希望が見えたと思ったのに、こんなだだっ広い場所で本当にひとりぼっちになってしまった。それこそ二回死んだみたいな気分だった。

 でも、そんな思いも長くは続かなかった。今度はぴこん、とかわいらしい軽快な音が響く。聞いただけで分かる、普段から頻繁に使っているメッセージアプリだ。同時に吹き出しが流れるように現れ、文字が映し出される。今度こそ間違いない、修二からのメッセージだ。小さな文字で『大丈夫?』と書かれた吹き出しを目にした途端、床にへたり込む。

 天国がこんなに寂しいところで、誰もいないこんな場所で、永遠に彷徨っていなければならないのか。嫌な想像がぐるぐると巡っていた頭の中が、ようやく空っぽになる。

 『大丈夫だよ』

打ち込むと、程なくして返事がきた。

『僕の声、入ってなかった?』

『ずっと喋ってたんだけど、聞こえてないみたいだったから』

やっぱり、と口に出る。修二の声がしなかったのは、彼が話していなかったからというわけでは無かったらしい。

 でも、修二の口ぶりから察するに、私の声は向こうに届いていたらしい。

『ひまりの声もしなかったよ』

『変だな』

 今、どこにいるの?

 そう尋ねると、他の返信よりもほんの少しだけ間が空いて、一言返ってくる。

『さあ、さっぱり分からない』

『建物の裏口みたいなとこなんだけど、人が全然いなくて』

 どうやら、修二も同じようにおかしな場所に迷い込んでしまっているようだ。

 『ここ、あの世だと思う?』

今度は私が詰まる番だった。ここに論理が通用するかどうかは別として、順序立てて考えたならここは、いわゆる死後の世界。ただ、そう納得するにはあまりにも想像とかけ離れていた。いや、想像が及ばないという見方ではある意味ぴったりなのかもしれないけれど、何だかあまりにも、全てが現実味を帯び過ぎていたのだ。

 じっと止まって、あたりを改めて注意深く観察する。

 たとえば、吸い込んだ空気に微かに混じる繊維や香水の匂い。冷ややかな照明の下、陳列された商品や端に寄せられたマネキンはついさっきまで人の手に触れていたかのように艶めいていたし、目を凝らせばレシートの一つでも落ちていそうなほど床には誰かが歩いた跡を感じた。

 誰もいないはずなのに、一人で立っているはずなのに、すぐ横を通り抜ける風は隙間風というよりかは、背後から何人、何十人もの人が歩いては私のことを追い越していくときのふわりとした風に思えた。それに混じって、何気ない笑い声さえ聴こえてくるようだ。

 むしろ、私だけがこの世界で異質であるかのような強い孤独感は、どこか懐かしさをおぼえるものだった。そう何回も死んではたまらないのに、来たことがあるような気がする。なのに、この場所をぴったり説明する核心の部分だけが分からない。そのことにもどかしさを覚えた。

 …さあ。さっぱり、分からない。

 熟考の末、私が出した答えもまた、修二と同じだった。

 『そうか』

修二はそれ以上何も訊かなかった。私たちは何か分かったことがあったらすぐに情報共有することを約束して、ひとまずはスマホを閉じた。

 端末をポケットにしまい、顔を上げる。依然として真っ白なショッピングモールの通路の奥までを目を細めて見てみる。

 歩こう、と決めた。

 そうだ、もう死んでしまった今となっては怖いものなど何もないのだ。そう気づいた途端、びくびくしていた自分が馬鹿らしくなってきた。

 「…歩こう」

はっきりと声に出し、誰にともなく宣言する。視界にさっき躓いた糸が映る。どうせなら、この糸がどこに繋がっているのかが気になってきた。

 そう思った私は一つ深呼吸をし、ショッピングモールの存在しない喧騒の中で一歩を踏み出した。

 糸が交わるまでは、だめだよ。何かが、私の耳元でそう囁いた。


佐伯大星

 「一瞬がずっと続いてしまったら、それは永遠じゃないのかな」

「…矛盾してる。でも、そんなことばっかりだ」

「永遠か、一瞬かなんて、どこで分かるって言うんだろう」

「分かってどうする。なんたって人は!」


 「おい、ちょっと待てよ。あんまり速く行くと見つかるって!」

「同じ場所に長く留まってたほうが見つかりやすい」

「た、確かに…」

 ひそひそと、潜めているのかもよく分からない声量で言葉を交わしつつ、姿勢を低くして明かりの落ちきった廊下を抜き足差し足で駆け抜けていく。首からぶら下げたカメラは予想以上に負担がかかり、揺らさないようゆっくり動くだけで気疲れした。

 「最終下校のチャイム、あれ、何分前だったっけ」

「もう一時間は経ってる。先生たちも誰か残ってるとは思ってない」

「そっか…」

 葵にそう言われると、根拠もないのに自信満々に断言してくるその口調のせいか、何故だか本当に大丈夫な気がしてくる。俺は夜の学校を徘徊するなんていう人生初の非行に心底怯えているというのに。

 奥に行けば行くほど、闇がより濃く滑らかになっていく学校の廊下は、いつも通っているとは思えないほど知らない場所に見えた。非常階段の場所を示す青緑色のランプだけが不気味に俺たちの行く先を照らし出し、典型的なホラー映画で見るような怪物からの逃走でも始まりそうな雰囲気を醸し出す。

 「なあ、もう帰ろう。やっぱりまた別の日に…」

「大星は次来たときもきっと同じこと言う。ほら、図書館はこっち」

「うわ、こんなところに通路なんてあったんだ。なんでお前知ってるんだよ…」

 先を歩く葵にはっきりしない足取りでついていきながらも、そんな自分自身に内心情けなさをおぼえる。元はといえば、最終下校後の学校に残っていたいと言ったのは俺だったから。

 今しか撮れない画があるはずなんだ。でも、俺には撮れない画が。

 夕方、自分達以外誰もいない教室で、ここぞとばかりに黒板にチョークで絵を描く葵の背中に、俺はそう言った。いや、正確には独り言だったけど、葵がそういう俺の言葉を聞き捨てないと知っていて声に出したのだから一緒だ。

 あたしにもカメラ、持たせてくれるってこと?

 葵がそう答えたのは、ただ単に俺をからかうためだったんだろう。彼女に撮らせないようにしているつもりなんて俺には無かったのだから。実際、葵は出会う前からよくスマホを使って色んなものを撮っていたし、俺はそれを知っていた。

 だから、なのかもしれない。同好会ですらない映像研究会の活動の一環なんてこじつけで、こんなことを計画したのは。

 生徒は誰も通らないであろう、壁に何の模様かも分からない線が何本も流れているような寂れた細い非常階段。開けっぱなしの窓から吹き込む風がぴりっと乾燥している。

「不用心」

「本当だな」

全体の老朽化度合いを見れば、もう錆びてしまって閉まらなくなっているのかもしれない。三階の窓から入ってくる物好きな侵入者が居ないことを願うが。

 「しっ」

黙々と降りていた葵の足が止まった。反射で息を止めてしまい、数秒、数十秒と過ぎていくなかではっと息を吐き出した。

「どうした?先生か?」

「ううん」

葵は階下を凝視しつつ、踵を返して俺の肩を押す。

「上に戻ろう。…いや」

 その言葉にもう階段を上りかけていた俺は、二度目の不意打ちに怪訝な顔をして振り返る。

「何だよ」

 黙りこくる葵にそう言った後、俺が次に見た景色は、視界いっぱいに広がる星のない夜空だった。

 脇腹にぶつけたような鋭い痛みが残っている。五感がその痛みだけに集中して、今の自分の状況を把握するための他の情報は何も入ってこない。

 ただ、隣に葵がいない。それだけは分かった。隣どころか、手の届く範囲、どこにもいない。目が利かない。見えない。聞こえない。感じない。首筋を撫でる風、髪を逆立て、体をどこかへ引っ張っていこうとする得体の知れない力だけを強く、知覚した。

 体の外側と内側で、流れる時間の速さがまるで違っているような錯覚をおぼえる。薄目を開けて見れば世界は高速で下から上へと舞い上がっていくのに、頭の中は穏やかな眠りに落ちる寸前のように鈍臭く、攪拌した溶けた金属みたいに、何が何と混ざり合っているのかも分からなくなっていた。

 ただ、恐怖ではない。それよりも先にくる何かだった。十分に理解できていないからこそ、確かに得ることができたもの。

 撮りたい。この景色を切り取って、収めたいという願望だった。

気流を遡るように全身を駆け巡る風の全てをもって、俺は、最後に。

 この目に、現とは思えない真っ白な煌めきを焼き付けた。

 神か悪魔か。死神だろうか。ただの見間違いか。でも、覚えている限りでそれは、平凡な街の夜空にまるで似合わない、星でも月でもない輝きだった。

遠くで小さく、水風船が潰れるようなあっけない破裂音が聞こえた。

全身が痛い。脇腹だけじゃなく、頭が、腕が、首が痛い。一瞬のうちに煮えたぎっていた興奮が水をかけたように冷えていく。呼吸もままならない。生理的な涙は出ると同時に上に溶けていく。

 四肢をもぎ取らんばかりに吹いていた風がさっぱり無くなったことにようやく気がついて、俺はきゅっと細めていた目を開けた。

 背中にざらついた感触がある。そこで初めて、重力が戻ってきたことに気づいた。自分は今、どこかに仰向けに着地している。

 視界を白く染め上げる強い光が目を灼く。息が詰まってしまうほど強い木材の匂いがする。じっとしていれば、肌からじんわりと汗が滲み出してくる。熱かった。

 何度か目を瞬かせると、その光が人工のものであることが分かった。遥か高い場所から空間全体を照らしている。点々と整列したライトと、その隣から垂れ下がる濃い赤色のカーテンで、ようやく焚きつけられているのがある種の舞台照明であると気づいた。

 だとすれば、ここは一体どこの舞台だというのか。当然、心当たりも何もない。

 起き上がるだけの気力もなく、緩慢に首を横に向ければ、どこまでも続く所々ささくれた床の木目と照明の落ちた客席が見える。500人、いやそれ以上は悠に入りそうな広々とした空間。このステージだって、今の視界の限りでは端が見えないくらいには大きい。

 ここで初めて、見覚えがあった。

 100人が悠に収まり一つのパフォーマンスを作り上げる舞台と、客席。全てを抱え込んだホール。

 この場所では、たった一人の人間なんてちっぽけで取るに足らない存在だ。少なくとも、そう記憶している。今となっては思い出したくもないが。

 そう思い、俺は浮かび上がってきた過去の情景を頭から振り払った。

 なんにせよ、覚え違いでなければ、ここは俺が中学の頃に通っていた学校だ。そしてここ、大ホールには、学年集会や合唱祭など、行事があるごとに大勢の生徒が集まっていた。やたらと設備が整っていたからか、音楽系の部活や演劇部などはよく出入りしていたものだ。

 そして、これもまた疑う余地はない事柄のはずだが、俺はついさっきまで通っている高校で友人と一緒に居た。だが今、気づいたらここにいる。

 これが夢だとしたら、こんなに早く現実ではないことに気づくものだろうか。むしろ、意識がはっきりしていないのだから、もう少し冷静でいられるはずだが。

 そんなことをあれやこれやと考えながら、背中にびっしょりと汗をかく。疑問符が声となって喉から漏れ出ていくが、明確な言葉にはならない。相変わらず体は痛いし、落ちてきたことは分かっているが、見上げてもそこは真っ黒な天井。どこにも穴などない。

 恐怖が体の中心から生え出していくつかに分かれ、じんわりと四肢の先へと染み渡っていく。

 なんなんだこれは。どんな展開なんだ。現実逃避的に過去に思考を巡らせても、大したヒントは出てこなかった。理解が追いつかない出来事はこれまでにもあったが、答え合わせをしてくれるような人間が現状周辺に見当たらないのが厄介だった。

 いや、本当にそうだろうか。

 あれほど面倒だったのに、気になった途端、ばねでもついたかのように体が跳ね上がる。一見、明るい舞台上には自分以外誰も居ないように見えたが、よく目を凝らして見れば、舞台袖の暗がりに人影のようなものが見えた。

 沸き起こった安心感も、すぐに掻き消える。あれは本当に人間だろうか。今の状況は普通じゃない。これがホラー映画なら、安い展開ではあるが、近づいた瞬間に人のふりした化け物に食い殺されるのがオチだ。警戒を怠ってはいけない、決して死にたくはないのだから。

 だが、そんな思考も虚しく、先に行動を起こしたのは向こうのほうだった。

 「あ、よかった。生きてるんですね」

男の声だ。そう言って明るみに歩み出てきたその姿は、俺と同じくらいの歳に見えた。白いワイシャツに黒のズボンを履いていて、制服にも思えるが校章は外しているのか付いていない。眼鏡の奥の目は真っ直ぐこちらを見据えていた。

 「大丈夫ですか?てっきり死んでるのかと思って隠れてたんです。怪我は?」

「大丈夫…いや、大丈夫じゃないな。体打ったっぽくてめちゃくちゃ痛い…」

「ああ……」

 何かとても失礼なことを言われた気もするが、今は気にしてはいられない。正直にそう言うと、相手はあたふたし出す。手当の心得があるようにも見えないし、困らせてしまったのだろう。そう思った俺は慌てて両手を前に出して振った。

「あ、いや!痛いだけで、特に怪我とかはない、と思う」

「本当ですか?骨が折れてるかも…」

「いや…」

 言われて初めてその可能性に気づき、試しに立ちあがろうと床に手をついてみたり、足を動かしてみたりしたが、痛みが増す様子はない。むしろ、話しているうちに段々と体の内側から響くような鈍痛は引いていっているようだった。

 「…大丈夫みたい、だ」

「あ…何かあったら、いつでも」

「どうも」

 見るからに内気そうな男は、それでもなおこちらを心配してくれているのか、半分屈み込んだ姿勢で目線を右往左往させている。やがて、意を決したようにこちらに手を差し伸べた。

 「あの、一つお聞きしたいことが」

「ああ…うん。俺、高校生だから、そんなかしこまらなくても」

 男は控えめな力で立ち上がるのを手伝ってくれ、同時に俺にそう尋ねる。その目のあまりの真剣さに、俺はただただたじろぐしかなかった。まっすぐな視線の中に、どこか哀れみのようなものも混じっている気がした。

 「あなたは、どうやって死んだんですか?」

「……はあ?」

 思いがけず投げられた、全く穏やかではない質問。突拍子もない質問に俺が返したのは、処理落ちした脳が生んだありったけの沈黙と、精一杯の疑問符だった。


高田修二

 「糸、なんていうのはどうだろう。たった今、頭に浮かんだの」

「巻き取られたら巻き取られただけ、無くなっていくから?」

「そう。与えられた時間の長さだけ一本の糸があって、それが一定の速度で引っ張られている。それを寿命というのだとしたら?」

「なるほど。でも、困ったな。それじゃあだって…」


 目の前にいるのは、いかにも体育会系といった、恐らくは同じ高校生の青年。細かい歳は分からないが、僕が苦手なタイプの人間であることは明らかだ。

 それでも、これだけは聞かなければならなかった。無神経でもいい。嫌なことを思い出させて罵られるかもしれない。ほんの少しでもひまりと早く合流するために、この訳のわからない空間に対するヒントが欲しかった。

 だって、僕自身はついさっき、間違いなく死んだのだ。

 僕の高校には、大きくて蔵書がたくさんあるメインの第一図書室の他に、多くの生徒や先生たちから忘れ去られた、寂れた第二図書室が存在する。下校時間になっても誰も追い出しに来ないのをいいことに、僕とひまりはよくそこで放課後遅くまでたわいもない話をして時間を潰したものだ。あんまり誰も来ないものだから、今夜は夜の学校に泊まってみようかなんて半分冗談で言ってみたこともあった。ひまりはいつだって、ちょっと本気でそうしようとする僕を止めたけど。

家には帰りたくない。おばさんがうるさいから。僕がそういうと、ひまりは黙って電気を消して、惣菜屋にでも寄って帰ろうか、と声をかけてくれた。

 そんな、いつもと何も変わらない日常のはずだった。空がすっかり藍色に染まって、そろそろ帰ろうかと腰を上げて、全く普段通りに軋むドアを開けた。

 僕らの鼻にはじめに届いたのは、喉がきゅっと酸っぱくなるような煙の匂いだった。廊下の奥は煙に覆われてすっかり見えなくなっていた。目で見て事態を知るまでは、本当になんの音も無かった。悲鳴も、足音も、「火事だ!」と叫び危険を知らせる人の声も、防災訓練のときにはうるさいほど鳴るはずの火災報知器の音でさえも。

 僕らは逃げた。できるだけ煙の薄そうな方へ、呼吸がもちそうな方へ、最短で外に脱出できそうな方へ。そして、いつの間にか袋小路にはまった。前にも後ろにも逃げ道はなく、未来ある少年少女だった僕たちはあっけなく倒れた。

 死ぬときに一人でなかったのが、唯一の救いだった。

 ところがどうだろう。目が覚めたら、知らない路地裏だったのだ。しかも、真っ昼間だというのに車も通行人も何もいない。等間隔に立った電柱をたどり、少し歩いた先にあった学校に、開いていた裏口から入ってみたところ、ようやく誰かがいた。目の前にいる彼だ。しかも同年代らしい。

 「……はあ?」

しかし、どうやって死んだのかと聞いて、ここまで全力で訳がわからないという顔をされるのは想定外だった。

「どういうこと?」

「……だから、君はどうやって死んだのかってこと。僕は窒息死だった。学校が火事になったんだ」

 彼は僕の顔をまじまじと見て、それからゆっくりと瞬きをした。表情が小刻みに動き、さまざまな思いが目まぐるしく浮かんでいるのが読み取れたが、どれひとつとしてはっきりとしたものはなかった。

 「俺は、死んだ?」

静かに、ぽつりと落とされた言葉に僕は納得した。ああ、君は知らなかったのか、と。そして同時に、少しだけ申し訳ない気もした。もしかしたら彼は僕のように、死の間際に自分の生を惜しむ暇すらなかったのかもしれない。

 「…死んだらみんな、ここに来るのか?」

「どうだろう。少なくとも、僕にとっては君が初めて会った人間だけど。あー…なんて呼んだらいいかな?」

「…大星。佐伯、大星」

「僕は高田修二。初めまして、佐伯くん。ところでさ、君はここが具体的にどこかって知ってる?」

「え、知ってるけど」

「知ってるの⁉︎」

 あっさりとした返事に素っ頓狂な声が出る。これは、とんでもないキーパーソンに出くわした可能性が出てきた。僕の驚きっぷりに佐伯も

 「俺が中学ん時に通ってた中学校だよ、ここ。高田は、何も関係ないのにここに飛ばされたってこと?」

「そうなるかな…。少なくとも僕の中学はここじゃなかった。どういうことだろう?死んだ後に行く場所で、何か法則があるのかな?」

「…そのことなんだけどさ」

 佐伯はふいに話を遮って、思い詰めたような顔をする。その時点で、なんとなく何を言おうとしているのか読めてしまった。僕が何かしようとするたびに、もっとこうしないか、ああしたほうがいいんじゃないかと、やりたくもないことを延々提案してくる、そんな叔母の姿と重なった。

「本当に死んで、これで終わりなのかな。俺たちひょっとして、まだ生きてるんじゃないか。何せ、自分が死んだ時のことを何にも覚えてないんだ。どうにかしてここから出れば、俺たちはまた」

佐伯は言い淀む。

「まだ、遅くないはずだ。方法を探そう、帰る方法を」

 ああ、やっぱりだ。僕はため息を押し留め、宥めるように佐伯の肩に手を置いた。先ほどの彼の反応から、そう考えるのも無理はないだろう。それでも、僕は痛いほど分かっていた。

 「死んだらそれで終わりだ、佐伯くん。元の場所には戻れない。僕は死んだらそれで終わりで、何にもなくなると思ってた。でも今、ここにいる。僕はそれが不思議で仕方がなくて、その理由が知りたいんだ。だから進もう。生きたことがある僕らなら、やり方は分かってる」

 僕がそう言うと、佐伯は黙り込んだ。希望を描いてしまうのはわかる。だって僕らはまだ若い。社会的にも、精神的にも。僕だって、泣き出したくないわけではないのだ。だが、人は自分より怯えている人間を見ると、途端に冷静になってしまうのは本当らしい。現に、静かに拳を握りしめている彼と違い、僕は冷水を浴びせられたかのような頭で考え、すぐにでもひまりを探しに行こうと右足を一歩踏み出している。

 一人でないことが、僕を残酷にしてしまったのかもしれない。

 いつまでも何かを考えている様子で動かない佐伯を横目に、僕はステージから降りようと歩き出した。真っ暗な客席が無性に気になったのだ。二、三歩進んだところで、佐伯がついてきていることに気づく。

 「いいの?」

「ああ」

佐伯は舞台袖まで駆け、壁にかけられた布を慣れた手つきで外す。下には隙間に埃が積もった操作板があり、何やらつまみを回すと、客席が一気に明るくなった。

 「諦めたわけじゃない」

戻ってきながら、佐伯は言う。

「俺もお前も、別々の目的があって、そのために動く。でも。俺もお前もこの場所がわからないから、ここを調べたい。なら、俺たちは協力できる。そうだよな?」

 僕は振り返って軽く笑った。

「その通りだよ。敵じゃないんだ、仲良くしよう。僕はとりあえずこれから人探しをするつもりなんだけど、君はそれでいい?」

「構わねーよ。俺も元の世界に戻れたら問い詰めたいやつがいるし」

 よかった、と僕は呟き、佐伯と二手に分かれて客席を縫い歩き始めた。

 椅子は全て、体重をかけない限りは座面が上がっているタイプのものだった。できてからさほど経っていないのか、よく掃除がされているのか、目立つ汚れも埃もない。見上げれば、等間隔に並んだ照明が従順に僕らを照らしている。よく見える位置に高々と設置されたデジタル時計は、スマホを出して確認した時間よりも1分だけ進んでいた。

 「綺麗だね、ここは。広いし」

「そりゃあ、何十人もの部員がほとんど毎日掃除してるからな」

「ふーん。演劇?」

「いや、音楽系」

「そうなんだ。見るものによって時間が違うのはなんでだろう?」

「ああ、あそこの時計はいつも1分早い」

 前の列の背もたれを順繰りに撫でながら、狭い通路を歩く。さっきまで僕らがいた舞台は無人となり、熱い照明の光をいっぱいに満たしたまま、空間を持て余すようにそこにあった。とても広い場所だ。僕の学校にあったものよりも、ステージとは縁もゆかりもなかった僕が見てきたどれよりも、ずっと、ずっと。

 …そんなこと、あるだろうか?

 「広いな」

「え?」

 佐伯がそう零したことに、僕は心を読まれたのかと思ってびくりとした。首を傾げ、反射的に聞き返す。

 「やっぱり、いつ見ても、広い」

「そっか。…でも、佐伯くん。舞台って普通、あんなに大きいものかな?だって、ここってただの中学校じゃ…」

「ただのじゃない、強豪だ。毎日、毎晩、毎朝、あそこで人がすし詰めになって、ちゃんちゃかちゃんちゃか音鳴らしてた。上手い奴だけが生き残って、もっと上に行く。下手な奴は…」

 そう言いながら、小走りでこちらに駆けてきていた佐伯の姿がふいに消えた。

 「佐伯くん?」

傾いた彼の体が、階段上になった客席の通路を派手に転げ落ちていく。ガタン、ガタンとテンポよく痛々しい音を立てて、四肢をバタバタとさせながら、それでも勢いは一番下に着いて段差にぶつかって止まるまで収まらなかった。

「佐伯くん!」

慌てて走り寄ると、佐伯は両目をしっかりと見開いたまま腕を投げ出して床に倒れている。今度こそ二度目の死を迎えたのかと焦ったが、顔の前で手を数回かざすと瞬きをしてこちらを見た。呆然としているだけのようだ。

「大丈夫?すごい音だったよ、今度こそ骨が折れたんじゃないか」

「落ちた」

「なんだって?」

「落ちたんだ。俺が死んだ時も、こんなふうに…もっと高いところから、水ん中に落ちてべちゃって。高校にあった浅い溜め池だ。それで…」

 床に仰向けになったまま、佐伯は一心不乱に捲し立てる。だが、そこまで言ったところで不自然に口をつぐんだ。何かに耳を澄ましているようだった。

 「聞こえるか?高田」

「聞こえるって、何が?」

「拍手だよ。ものすごい音だ、まるで何百人もいるみたいな」

「僕には何も聞こえないけど」

「ああ、俺にも聞こえない」

 僕は困惑して立ちすくんだ。

 「不思議なんだ、俺たち二人以外誰もいないはずなのに、ずっと気配だけがする。俺以外の誰かが居たっていう生きた証拠がそこらじゅうに転がってる。それが、二人だけでいるよりも、一人だけでいるよりも、いちばん孤独を感じる。そんな気がするんだ、高田は感じないか?」

 ない、と言おうとしたところで、声を詰まらせた。言葉になりきれなかった中途半端な音が喉から絞り出される。死んでから、すぐのときのことを思い出した。

 煙の中で意識を飛ばして、やがて背中に地面を感じ、照りつける太陽を感じて目を覚ました。最初に感じたのが、どうしようもないくらいの寂しさだった。だからそのとき思ったんだ、ひまりを探しに行こうって。今思えばあまりにも不自然だ。ここまで激しく誰かの声を欲したことなんてない。何かに取り憑かれたように人を探して走り回ることも、縋る相手がいないことに取り乱すことも。僕とひまりは、もう一人になるだけで互いに寂しくなるような間柄じゃないから。

 あの感情の揺れは、明らかに外的な何かによって仕組まれていた。つまり、ヒントはスタート地点にあったのだ。

 「佐伯、外に出よう。僕の考えが確かなら、僕らが目覚めた場所で何かが起こってる。出来事には絶対に法則がある」

 佐伯の手を引っ張って助け起こす。出口は階段状になった通路の一番上にあった。ところどころ段をすっ飛ばしながら僕は佐伯を連れて走った。

 そして、ちょうど目が覚めた交差点のあたりまで来たとき、何かを踏んで足を滑らせ、盛大に転んだ。突然のことで受け身もろくに取れず、強かにぶつけた肘がじんじんと痛んだ。驚いて怯んだ手足を無理に起こして見れば、ビニールの包装がかけられた、とても祝い事には使わなかさそうな、シンプルな花束が花びらを散らして転がっていた。

 顔をあげて見た先にあったのは、ゆるゆると小刻みに動く、真っ白な細い一本の糸だった。


西島葵

 「永遠も一瞬も、端から持っていやしないのに」

「本当に?」

「本当さ。今っていうのはあっという間に消えて無くなる」

「本当に?…じゃあ、君のそれは、何のためにあるの」


 シャッターを切った。空いた窓から彼を突き落とす前に、首に絡まないようにと咄嗟にひったくったそれで、真っ逆さまに落ちていく大星の姿を撮った。焚いたフラッシュが、稲妻のように夜闇を裂いた。

 階下から登ってくる炎は思っていた何倍も足が速かった。あっという間に煙が上がってきて、肌に煤がつく。それでも、あたしは友達を高所から飛ばすような馬鹿げた勇気はあっても、自分が同じ場所から身を投げる勇気はなかった。

 大丈夫。下は水だ。水深が心配だけど、大星はタフだから。そんなことでは死なないはず。もしもこれで、結局どっちも死んじゃったら、天国でしこたま怒られそうだけど。

 大星のカメラを握りしめて、首にかける。両方の、自分の足でしっかり立って、目を閉じた。それが最後の記憶だ。

 目を開けたら、同じ場所にそのまま立っていた。

 首にかかったカメラが左右に振り子のように揺れて、重い。暗くてボロい階段。開けっぱなしの、不用心な窓。その向こうにある夜空も、やけに静まった街の明かりも。ただ一つ違うのは、蛇のように這っていた炎と、しつこく絡みついてきた煙が綺麗さっぱり消えていたこと。

 そう気づいても、助かった、とは思わなかった。ああ、もしかしなくてもあたしは死んでしまったんだろう。でなかったら、こんなに静かなはずがない。こんなに痛いはずもない。こんなに座り込んでしまいたくなることも、無性に何かに縋りたくなることもないはずだから。

 試しに窓枠から身を乗り出して、はるか下に見える池を覗き込む。そこに大星はいなかった。理科の授業の実験でたまに使われている人工の池は、全くなんの光も映さずに、夜の暗がりの中ではむしろ大きな穴みたいに見える。ひどく驚いた顔をして落ちていった彼が、最後にはこの穴に吸い込まれて消えていったのだと言われても、信じられるくらいには。

 確信した。ここはもう、きっと現世じゃない。そう思うと、大星がいないことにほっと胸を撫で下ろしながらも、少しだけ骨の隙間を冷たい風が通っていくような思いだった。でも、それでいい。最後にいい画が撮れた。お望み通り、大星には撮れなくて、あたしにしか撮れない画だ。それできっと、彼も許してくれるだろう。

 そんなことを考えていると、暗闇できらりと光るものを見つけた。上階からの階段の真ん中を通り、折り返して下の階へと続く一本の糸が、ぼうっと浮かび上がっている。よく見れば、下の方に向かって少しずつ、少しずつ動いているようだった。

 その動きに寄り添うように、同じ速度で歩調を合わせて追いかける。依然として校内に人影はなく、大火災が起こったような跡もない。途中、職員室を通ったけれど、居てもおかしくない残業中の先生たちでさえ、誰一人見当たらなかった。電気はしっかり点いているのに、なんだか不思議だ。

 糸は道中、どこにも結ばれていなかった。それなのに、地面につくことなく高さをキープし続けている。どれだけ長いのか見当もつかない。もっと、想像もつかないくらい遠くに、この糸の終着点があるんだ。好奇心に駆られながら、あたしは校門をくぐり、学校を後にした。

 月の光のおかげか、糸を見失うことはなさそうだ。鼻歌さえ歌いながら、のんびりと閑静な住宅街を歩く。天国って寂しいところだ。これだけ歩いても、誰も見つけてくれないんだから。

 その考えが間違いだと知ったのは、それから数秒後のことだった。

 「あのー!」

 背後から声がして振り返る。髪を振り乱してこちらに向かってくる女の子。足を一歩踏み出すごとに、短い髪が鳥の翼みたいに浮いたり沈んだりして、羽ばたいているみたいで何だかおかしい。

「すみません!ここにずっといる人ですか?私、人を探しているんですけど…」

「あー、ごめんなさい。ついさっき来たばかりだからあたしも分からないんだけど、もしかして、同じ高校の人だったりする?」

 彼女は、私と全く同じブレザーとスカートを身につけていた。彼女自身に特に見覚えはなかったけれど、もとより大星以外に顔を覚えている人間は両手で数えられるほどだから、どこかですれ違っていたとしてもおかしくはない。

 「え?…あ、そう、そう、そうです!私もついさっき、来たばかりで、何も分からなくて、迷子で。でもよかった、誰かがいて…」

「あなたも火事で?」

「…多分、そう」

「あなたも、糸を追ってるの?」

あたしが地面を指差すと、彼女はあたしの指先を目で追って曖昧に頷いた。

「そんなところ、かな?どこに繋がっているんだろうって、気になり出したら止まらなくって…もう随分歩いてきちゃった。もっと離れた場所に、最初はいたんだけど」

「どこからきたの?……ひまりは」

「え?」

 いかにも困った!といった顔をして近づいてきた表情豊かな彼女、ひまりの名前を呼ぶと、ひまりは両目を丸くしてこっちを見た。その一連のリアクションがまるでコメディ映画の登場人物みたいに仰々しくて、堪えきれずに吹き出す。

 「それ、名前じゃないの?」

そう言って、相手の胸ポケットから覗くスマホケースを指差す。簡素な無地のシリコンケースに、自分で貼ったのだろうか、可愛らしいシールでHIMARIと書かれている。右上には立体的なひまわりのシールも、ちょこんと乗っていた。

 「あ、そっか!えっと、じゃあ、えーと、お名前は?」

「教えない」

「えっ。どうして?」

「だって、ひまりが死神だったら、名前教えたら連れていかれちゃうかも」

「そ、そんなことしないよ!」

「うん。……そんな気もする。西島葵。よろしく」

 手を差し出すと、ひまりは安心したように笑った。

 ふたり並んで糸を追いかけながる。ひまりは最初にいた場所のことを教えてくれた。

 「起きたら、ショッピングモールにいた。誰もいないショッピングモール。最初は知らない場所だと思った。でも、何だか見覚えがあって。すぐ近くに糸があったから、とりあえず追いかけようと思って歩いているうちに、いろいろ思い出したの。ここ、小さい頃に住んでた、隣町のショッピングモールだって」

「隣町から歩いてきたの?びっくり」

「あはは、とにかく誰かに会いたくて…。ほんと、葵ちゃんを見つけられて、よかった」

「でも、なんでそこにいたんだろうね?よく行ってたの?」

「うーん、そういう訳じゃないんだけどな…。本当に小さかったから、ほとんど何も覚えてなくて。昔、親とはぐれて迷子になったことがあるらしいんだけど」

「迷子?」

「うん。考えてみれば、そこのショッピングモールの記憶って、その迷子になった時のことしか覚えてないかも」

「どんな記憶なの?」

「小さい私の横を、大人たちがどんどん通り過ぎていくの。川の流れが途中で石にぶつかって二手に分かれて、また合わさるみたいに。大勢人がいるのに、誰も私のことなんて見えていないみたいで、私が知ってる人も誰もいない。最後はお店の人が私を助けてくれたらしいけど、すごく怖くて、すごく寂しかった」

「…少し、わかるかも。寂しいって、ただ一人ってことじゃない」

「うん。だって、本当にたくさんの人が、その場にはいた。でも、心は取り残されて、ひとりぼっちだった」

「一緒にいてくれた人、一緒にいてほしかった人が、いない。それがきっと寂しくて、ひとり、ってことなんだ」

「そっか。じゃあ、寂しいって大変だね。もう一度その人と繋がるまでは、ずっと消えないんだ」

「うん。でも、消えなくていいときも、ある」

 気づけば、学校の小さな最寄り駅まで来ていた。建物はなく、剥き出しのホームと線路、そして踏切がじっと佇んでいる。近づくと、けたたましい音をたててランプが光出し、踏切のバーが目の前でゆっくり下がっていった。

 「電車、来るかな?」

「どうだろうね。もし今来たら糸、切れちゃうかも」

 結局、電車が来ないまま音は止み、糸が轢かれて切れてしまうこともなかった。

 踏切を渡り終えると、遠くにぼんやりと人影が見えた。電柱の横に、二つ。見覚えのある背丈を見つけて、心臓がどっと跳ねる。

 「修二?」

隣にいたひまりが駆け出した。

「修二!」

「ひまり?」

 眼鏡をかけた男の子に、ひまりが駆け寄る。修二と呼ばれた彼は、目を見開いた後にくしゃりと笑った。

 「やっぱり、ひまりなら糸に従ってくると思ったんだ!ほらね、佐伯、僕が言った通り逆に遡ってきて正解だったろう?」

「ああ、そうみたいだな」

 もう一人の人間の目が、ずっとあたしを捉えているのを視界の端で感じながら、再会を喜び合っているひまりのもとにすり寄る。心臓が早鐘を打ち、一抹の気まずさが胸の中で膨らみつつあった。修二、というらしい彼の手にある花束が目につく。皺だらけでしなっていて、とてもじゃないけど見れたものじゃない。ひどく掠れたマッキーで、『高田一家』とあった。

 「なあ、葵」

「…うん」

 大星は短くため息をつく。

 「正直、聞きたいことも問い詰めたいことも怒りたいことも、いろいろあるけどさ。今はいいよ、そんなこと」

「うん」

「お前、どこで目覚めたんだよ」

「学校」

「…そうか」

 びしっと、オノマトペがつきそうな勢いで大星はあたしを指さす。いや、正確にはあたしの首元を指しているようだ。

 「じゃあ、今はとりあえずそれ、返してもらうぞ」

「何をするの?」

「何って、お前が前に言っただろ」

「覚えてない」

「葵はそうだろうな」

 大星はカメラをあたしの首から外し、手に馴染ませるように構える。ひまりたちが話をやめてこちらを見ている。修二の方は、いたずらを始める前の子供のように、何やらうっすらと笑っていた。

 「高田がさっきまでべらべら喋ってくれた推測が本当なら、俺たちのここでのスタート地点になったのはそれぞれが人生で一番『ひとり』だった瞬間だ。でも、俺たちの戻るべき場所は過去じゃない」

 大星の目が、カメラに隠れて見えなくなる。

 「今だ。この一瞬を、永遠にするんだ」

 フラッシュの光が、辺りを包み込んだ。


 「一瞬がずっと続いてしまったら、それは永遠じゃないのかな」

「…矛盾してる。でも、そんなことばっかりだ」

「永遠か、一瞬かなんて、どこで分かるって言うんだろう」

「分かってどうする。なんたって人は!」

レンズを拭きながら、大星は眉を思いっきり顰めた。

「永遠も一瞬も、端から持っていやしないのに」

「本当に?」

「本当さ。今っていうのはあっという間に消えて無くなる」

「本当に?…じゃあ、君のそれは、何のためにあるの」

葵が、大星の手元にあるカメラを指差す。大星は手を止めて葵に顔を向け、その目が真剣そのものだということを見て取った。

「数え切れないほどの『今』を、君はそこに持っているじゃない」

小さな窓から、景色が次々と流れていく。今はもうない何かだけれど、望めば戻ることもできる何か。

「それが、撮るってことなんでしょ」


 「手では掴みとれない『時間』を、絵に描いたらどうなるだろう?」

「……さあね。ぱっとは思いつかない」

「うん。形が無いって難しい、考えれば考えるほど空虚だ。白紙で出すのが正解なのか?」

「そうだね。あるいは…」

「あるいは?」

「糸、なんていうのはどうだろう。たった今、頭に浮かんだの」

「巻き取られたら巻き取られただけ、無くなっていくから?」

「そう。与えられた時間の長さだけ一本の糸があって、それが一定の速度で引っ張られている。それを寿命というのだとしたら?」

「なるほど。でも、困ったな。それじゃあだって…」

 修二は眉を下げる。

「糸は好きなときに巻き戻せてしまうじゃないか。でも、時間は巻き戻せない」

「本当だ。あはは、これじゃあだめだね」

笑うひまりに、しばし考え込んでいた修二はああ、でも、と切り出した。

「案外、そういうものかもしれないな。僕たちが、ただやり方を知らないだけで。うん、そういうのに縋って生きていくのも、いいかもしれない!」

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糸追い @dorche

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