第十話 魔宴

 ルブルムは、古びた神殿の前で目をさました。柔らかく心地よい枕が、自分の安眠をささえていたのを実感しながら。


 壁ぎわには、槍と盾が置いてある。ここ数ヶ月ほど臨時雇いの傭兵となったあと、ようやく契約満了となった彼はまっさきにここへ帰ってきたところだ。身内が待つ故郷へ。


「よく寝ていたね」


 男とも女ともつかぬ抑揚で、ルブルムを寝かせていた巫女……フェリスはささやいた。枕とは、彼女のふとももに他ならない。


 二人はまだ二十代の中盤になるかならぬかといった歳で、良くも悪くも人生になにかしらのはっきりした目標をたてねばならない時節だった。同時に、若さを気楽に楽しむことでも意見が一致していた。


「ああ……変な夢を見ていた」


 晩春から初夏に移りかわりつつあるうららかな陽射しを、ルブルムはフェリスの黒髪ごしに吸い込んだ。そして右手で目をこすった。


 神殿の周りは森の木を切り払って家や畑を構えた集落で、さらに外側は手つかずの木々に囲まれている。


 ルブルムは、フェリスの太ももに頭をあずけたまま彼女を見あげた。あごのしたに目をこらすとかすかに喉仏が見える。昔はもっとめだっていた。


 いや、喉仏などべつに問題ではない。いつものことながら、自分の顔をのぞくように眺める彼女の、黒く長い髪と瞳に吸いこまれそうな気持ちになってきた。


「夢?」

「最初は見たこともない鎧を着て、敵を討ちとった夢だ」


 夢の中で、自らの剣が切り裂いた敵の喉からは血があふれでていた。もちろん、血は赤かった。


 ルブルムとはラテン語で『赤』という意味だ。ゲルマン人らしくローテと名づければ良いものを、生まれた赤子あかご……まさしく『赤』い……を目にした父親が聞きかじりのラテン語でそう名づけた。


「ふーん」

「そこへ、どこかで目にした魔女が現れてキリスト教の隠者がでてきてもっともらしい話をして……えーと、自分の親だった骸骨と踊りそうになったら毒を盛られた」


 夢の記憶は、その辺りで一度あやふやになってきた。実際の両親にまつわるそれと同じように。


 ルブルムが幼い内に、両親はともに流行り病で亡くなった。親の愛情にいつも飢えていた彼を満たすように、彼女……フェリスが現れたのである。もっとも、最初はフェリスも『彼』だった。


「なにそれ? 私がいうのもなんだけど、支離滅裂じゃない」


 ルブルムは生粋のゲルマン人だが、フェリスはいつの間にか集落に住み着いた流れ者だ。陰に陽になにかといじめられていた。そんなフェリスをルブルムはかばい、しまいには身内にした。


 感謝の印として、フェリスはルブルムへ木や石から作った彫刻をいくつか贈った。ついでに身の上話も語った。


 フェリスはローマで生まれた。ルブルムと同様、実の親は早くに他界している。義父や師匠の倒錯愛にうんざりして放浪し、とある小さな街の近くにある森に小屋をかまえた。その小屋で、芸術家として修行したそうだ。美のデーモンがフェリスにキリスト教をてさせ、ここまで至らしめたとも。


「どうせ夢は夢さ。もう一つ見たぞ」

「どんな?」

「最初のよりもっとひどい。見たこともないまっすぐで四角い建物が整然と青黒い道路にそってならび、車輪が四つついた四角い箱がひっきりなしにとおる。俺は、その建物の一つを支配していた。力はあまり強くなかった。俺の子分で上納金を滞納している奴がいて、そいつを追っていたら魔女がまた……」

「また魔女? 呪いでもかけられたのかな」

「ふんっ。どこかのクソ坊主みたいなことをいうなよ」


 ここ数週間というもの、一人の熱心なキリスト教徒が神殿にきて聖書の一節を大声で叫ぶようになっていた。


 最初は面白がっていた人々も、やがてはうんざりして石を投げたり罵声を飛ばすようになっている。


 日増しに衰えていく西ローマ帝国は、キリスト教にすがって異端を弾圧することで力を保とうとしていた。キリスト教に帰依するゲルマン人も大勢いる一方、異端とされる先祖代々の信仰や帝国外の宗教にこだわるゲルマン人も少なくない。


 皮肉なことに、ローマ人からは蛮族と呼ばれる彼らゲルマン人こそが、傭兵として西ローマ帝国の安全のためになくてはならぬ存在となっていた。国家そのものにおける矛盾した状況は、もはや爆発寸前になっている。


 二人のうしろにある神殿は、数百年前……共和制の末ごろ……にさるローマの大富豪が建てたそうだ。ここ数十年のうちに、ルブルムらゲルマン人が勢力をのばしたことで自然にすたれてしまった。同時に併設した円形闘技場は壁しか残っておらず、この神殿は一応原形を保っている。いわば、これらは滅亡にひんした西ローマ帝国を雄弁に象徴していた。


「まあ、私だって広い意味ではクソ坊主みたいなものだよ」

「おい……」

「冗談だって、冗談」


 ローマ人がこの入植地を放棄すると、新たに住みついたゲルマン人は自分達の宗教を好き勝手に持ちだした。そんな集落はここだけではない。ドイツのあちこちにできている。素朴な自然崇拝者もいれば、ドルイドもいる。どこかで聞きかじったゾロアスター教のまねごとをする者もいた。


 そして、キュベレーの信奉者。


 ルブルムは、ただの義侠心や気まぐれだけでフェリスを身内にしたのではなかった。


 一年前……フェリスがルブルムとともに暮らすようになって、数ヶ月すぎた日の白昼。フェリスは、円形闘技場の壁に書きつけてあったラテン語を偶然発見し……ルブルムもふくめ、大半が読み書きのできない人間だったのだがフェリスは例外だった……キュベレーの教えを学びとった。


 フェリスは、ルブルムに頼んで集落の人々を神殿前に集めた。


『俺にとって、自分の性別こそ最後に棄てるものだ。そうしてようやく、俺のメメント・モリは完璧な形になる』


 フェリスはそう宣言し、一同の目の前で自分自身の男性を切除した。


 そして真っ赤にそまった股間を見せつけつつうしろをむき、キュベレーはあらゆる信仰を受けいれる、その証拠にだれにでも尻を提供するといいはなった。


 ルブルムが率先してフェリスの『処女』を公衆の面前で奪うと、興奮した集落の人々は歯止めがきかなくなった。老若はおろか性別すらまったく無意味だった。ようやくフェリスは、名実ともに集落の一員となった。同時にキュベレーの巫女にもなった。


 ルブルムは、そんなフェリスの真意を測りかねることが時々あった。集落に溶けこむ必要はあったのだろうが、なにもあそこまでする必要はなかったろう。もっとも、ルブルムはルブルムで最初から肉の交わりに性別を差しこまない主義ではあった。


「ごめんごめん。ふわぁ~あ」


 巫女は大きくあくびした。


「はしたないな」

「たまには男だった時のくせがでてもしかたないだろ」

「フェリス……俺の可愛い小鳥。女もいいが、お前の尻のしまり具合は毎晩たまらないな」

「なぁんだ、ルブルムの方がよっぽどはしたないじゃないか」


 そう返しながらも、フェリスは背をまげてルブルムの頬に軽くキスした。


「さて、ぼちぼちいくか」


 ルブルムは身体を起こした。はずみでフェリスのまとう短めの衣服の裾がめくれ、かつては男性の象徴があった股間がさらされかけた。


「ちょっと、気をつけてよ」


 慌てて裾を直しながら、フェリスは軽く怒って見せた。もっとも、まんざらでもなさそうな笑顔だった。


「悪い悪い。じゃあ、待っててくれ」

「うん」


 ルブルムは茶色い腰巻きをしめなおし、槍と盾を手にして神殿をあとにした。一度だけ振りむいて、まだ手を振っているフェリスをちらっと見てから森の奥を目ざした。


 森は、あまり深く食いこむと魔物がでるという噂があった。だから、ほとんどの人間が必要のないかぎり集落をでたがらない。


 彼としては、想像上の魔物よりもずっと差し迫った課題を解決せねばならなかった。


 いくつかある枝道には、それと知った者しかわからない秘密のサインがある。たとえばウサギの骨を雑草の下に横たえたり、馬の尻尾の毛を木の幹に巻きつけておいたりする。


 それらをたどり、ルブルムは一軒の質素なあばら家にいきついた。ノックすると、しばらくしてドアが内側からゆっくり開けられる。羊毛製の修道衣を身体に巻いた、壮年の男が戸口に現れた。


「父と子と聖霊の御名において」


 男は自分からそう述べて十字を切った。ルブルムも同じようにした。


「今夜だ」


 短くルブルムは伝えた。


「うむ」


 尊大に近い態度で男性はうなずいた。


「テルカンプ、本当にローマ兵は俺達をみのがしてくれるのか?」


 ローマがキリスト教を国教にしてから、ルブルム達がいるような小さな集落でも異端は容赦なく弾圧されるようになっていた。


 テルカンプにかぎらず、隠者はローマ……いや、キリスト教徒の尖兵であることがままあった。ルブルムが彼をそれと判断するきっかけをえたのは、傭兵として従軍していたときにそうした噂話を耳にしたからだ。自分達の集落で辻説法を繰り返すテルカンプを何度か尾行するうち、ローマの兵士を目にしたのが決め手になった。その場は、とっさに隠れてことなきをえた。


 いざローマ軍が本気になって攻撃すれば、ルブルム達の集落などひとひねりだろう。


 だから、彼はあくまでフェリスを女性ということにして隠者テルカンプと取引きした。集落の面々を裏切るのについては、とくに良心は痛まない。フェリスをいじめていたのだから。


 神殿で異端の儀式が開かれた決定的な瞬間を、ルブルムはローマ兵達にもたらす。その代わり、自分とフェリスはローマ兵に保護され快適で安全な街に移してもらう。


 蛮族の集落より、人口の多い都市の方がかえって異端は隠れやすかった。変事が起こらないかぎり、市民からすれば自分達は同じ価値観を持っていると無意識に思いこんでいるからだ。


 キリスト教では同性愛が厳しく禁じられているので、このさいフェリスは女でとおすしかない。それやこれやに『合理的な』整理をつけるためにも、集落には犠牲になってもらう。失敗は許されない。だからこそ、あえて一部始終を彼女には内緒のままテルカンプに交渉していた。


「神の御名のもとに」


 テルカンプはおごそかに宣言した。


 それからは、ルブルムが室内にははいらないまま正確な時刻やローマ兵の人数といった実務が情報交換された。最後の詰めが調整され、何度も確認された。


 今晩、ルブルムがいけにえの牝牛めうしを神殿につれてくる。ルブルムが力自慢をつのり、そのなかでフェリスの選んだ人間が牝牛の首をはねる。このとき、ルブルムは牝牛を引いてきた人間なので斬首役は免れる。


 度胸と力自慢がステータスとなるゲルマン人のこと、だれもが斬首役に挙手するだろう。フェリスに適当に選ばせればよい。


 次に、斬首役がみずからの『成果』を祭壇に捧げるようルブルムがあおる。当然、斬首役は大見得を切ってそれを実行するだろう。


 祭壇に生首が捧げられた瞬間、異教徒の儀式が成立してローマ兵が乱入する。どさくさまぎれにルブルムはフェリスを抱えて逃げる。そういう段どりだった。


 納得がいくまで打ちあわせができたルブルムは、テルカンプと別れた。


 その晩。


 時刻は宵の口を若干すぎた。神殿にいたる道筋に、等間隔でかがり火が焚かれている。フェリスは巫女なので、夕方から神殿にこもっていた。集落にいる彼女以外の人々は、全員が神殿の前に集まっている。


 ころはよしと見てとったルブルムは、衆目にさらされつつ神殿まで牝牛を引いてきた。本来は家畜だが、くじ引きで選ばれたものであり異論を口にする者はいない。鼻輪にとおしたロープを握る彼の手は、まず確実と期する策の帰趨きすうに武者震いを禁じえなかった。


 いざ神殿の正面に至ると、一同の興奮が一気に盛りあがった。神殿では、フェリスがすでに牛の生首を手にしている。


「ちょっと待て! 話が違うじゃないか!」


 牝牛から手をはなさず、ルブルムはわめいた。


「ああ、ルブルム。ついさっき野生の牛が神殿に紛れこんだんで、神意だろうということで皆が力をあわせて倒したんだ。牡牛おうしだったけどな。お前が引いてきた牝牛でつがいの生贄にすればいいってフェリスもいってたし」


 群衆の一人が興奮もあらわに教えた。


 フェリスは牡牛の生首を両手で支え、一同に背中をむけて祭壇にそなえた。祭壇の両脇には、高い支柱にささえられた銀色のボウルから乳香が一筋ずつたちのぼっている。


「待て! フェリス、待つんだ!」


 牝牛のロープを握ったまま、ルブルムは牛ごと神殿に走ろうとした。自分のつれてきた牝牛がヘソをまげて座りこみ、彼はうしろから引っぱられてつんのめった。


 その瞬間、ローマ軍の角笛が鳴った。


 四方八方から突然弓矢が射かけられ、悲鳴と怒号が飛びかった。さっきまで座りこんでいた牝牛がパニックに連鎖反応を起こして暴れ、よけいに無残な状況になった。


「フェリス! フェリスーっ!」


 ルブルムもまた、逃げまどう群集の渦に飲まれた。黄銅色の胸甲と脛当てをつけ、とさか状の羽飾りをつけたローマ兵達が彼らに斬りこみ次から次へと剣の餌食にしていく。


 フェリスは髪と左腕をそれぞれ一人のローマ兵に掴まれ、神殿から引きずりだされた。別な一人のローマ兵は牡牛の角を右手でぶらさげていたが、悲鳴をあげて倒れていく人々のなかに投げ捨てた。

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