第六話 検証 一
どういうことだろう。
馬場の発言は全部正しいのか全部間違いなのか、それとも部分的には正しいのか。一応は、たとえば美術館を見学してから山にいくというのも不可能ではない。
よく考えると、馬場がいついなくなったのかまでは赤野は知らない。ポンコツビルなので防犯カメラがなく、ビルそのものの出入りにしてもザル同然だ。
「ユダは、イエスがだれなのかを民衆と祭司長に示したのですよね。キスすることで」
なんの脈絡もなく、銭居が三人にまとめて尋ねた。
「ええ、そうです。三十枚の銀貨と引き換えに」
渕原が答えた。馬場の家賃とどう結びつくのか、赤野にはさっぱり理解できない。
「じゃあ、私が三十万円出しましょう。皆様、どなたでも馬場さんが本当はどこにいるのか早い者勝ちで教えて頂けませんか?」
銭居は平然と人間性の欠片もない提案をした。さすがに三人は眉根を強ばらせた。
「当院は、人をお金で売るようなことは絶対に致しません」
光川院長が、表情を改めて厳しく宣言した。
「それは失礼しました。オーナー、そろそろお暇致しましょう」
銭居はあっさりと引きさがった。
「え? ええ、はい」
あまり突然の転換に、うなずくのが精一杯だ。
「お二人とも、魂をわざわざユダと同じ運命にさらしてはなりません」
渕原が静かに忠告した。
「いえ、馬場さんはイエスではありませんし、私達はローマ人ではありませんから。お茶、ご馳走さまでした」
空になった湯飲みを、銭居は軽く押しだした。
「あー……ご馳走さまでした」
赤野もぎこちなくまねをした。
誰も見送る者のないまま、赤野は銭居とともに博慈院をでた。
「いったい、どうしてあんな台詞を述べたんです?」
風まで強くなってきて、赤野は傘の柄をぎゅっと握りしめた。
「カマをかけただけです。馬場さんはあの三つの場所のどこにもいません」
銭居は髪を手でおさえた。
「どうしてそんなことが……?」
「最初から私達を撹乱するつもりなんです。聞き違いとか勘違いとか、いくらでもいいわけできますし。でも、目星はたちました」
「目星?」
「九里さんです。ドイツ語講師の。三十万円と聞いて一番動揺した表情になりましたから」
あの一瞬でそんなことまで……。赤野は舌を巻くほかなかった。
「それで、九里さんをどうするんですか?」
「見張りましょう。そのうち動きだします」
銭居の言が正しいのかどうか、その時点では赤野は半信半疑だった。だが、どこでどうやって見張るのか。それが大きな問題だ。
「赤野さんは、そこの角にたっていて下さい。私のスマホに電話をいれっぱなしにして、建物から人がでたらすぐ教えて欲しいです」
「わかりました。……銭居さんは?」
「見張りの段どりをつけます。作業が終わったら、一度電話を切って私からかけ直します。もっとも、その時はコールだけでいいでしょう」
何やらわかったような、わからぬようないいぐさだった。とにかく、いわれたとおりにするしかない。
赤野は、まず自分のスマホをだした。銭居の電話番号は名刺にあったので問題ない。銭居が電話をうけたので、そのまま車をでた。
ものの数分ですぐにスマホが振動した。建物の出入りは一切ない。赤野が車にもどると、銭居はすでに車内で待っていた。
「うまくいきました」
こともなげに銭居は述べ、車のエンジンをかけた。
「どこで九里さんを見張るんです?」
いかにも素人くさい質問だと自覚しつつ、赤野としては聞かざるをえない。
「もう見張っています」
いま一度、自動車は街の中心地を目指し始めた。
「ええっ!?」
「私はスマホを二つ持っています。もちろん、両方とも使えます。一つをガムテープで車体の下に取りつけておきました。あとは、そのスマホの現在位置を定期的にネットで確認すればいいです」
業務用と私用でスマホを使いわけるのは珍しくない。しかし、こんな発想はまったくなかった。
「どうやって、九里さんの車がそれと判断できたんです?」
「まず、孤児院にいた職員は四人ですね。車も四台ありました。そのうち、座席とハンドルまでの距離が九里さんの体格と一致したのは一台だけです」
「じゃ、じゃあどこかで車を……」
「いえ、九里さんが車を使うまでにはかなり時間があるはずです。これから図書館にいきましょう。万が一、光川さんの意見が正しかったらというのもありますし」
「……」
もはや絶句。スパイ映画のような感覚になってきた。いまさら降りるわけにもいかない。
「図書館までは大して時間がかかりません。ただ、場所が場所だけにうかつな私語は慎んで下さいね。スマホもマナーモードで」
「はい、わかりました」
赤野はスマホをそのとおりに切りかえた。
「それで、あらかじめ方針を決めておきましょう。図書館には最大でも二時間しか滞在しません。そのあとはお昼をはさんで美術館にいきます。それまでに九里さんが動いたようなら、そちらを最優先します」
「はい」
「図書館では、まず目で見て馬場さんがいるかどうかをたしかめます。一般の人間は、二階までしかいけないので大した手間にはなりません。馬場さんがいなければ、直近一ヶ月の貸出記録を検索用コンピューターで確認します」
「貸出記録?」
本人の在不在はともかく、本そのものに手がかりがあるとは思えなかった。
「これは、副次的な調査です。馬場さんの部屋にあった絵にかかわる資料があれば、捜索する手助けになるかも知れません。『聖クリューガー』をキーワードにして下さい。どうせ大した量にはなりません。貸出記録の上半分を私が、下半分を赤野さんが本棚で探します。見つけた本は借りる必要まではありません。時間までざっと流し読みしておいて下さい」
赤野の不安を見透かしたように、銭居は補足した。
それからは、あっけなく図書館に到着した。県立レベルだけあって赤野のポンコツビルよりはるかに大きく、塗装も新しい。最近の自治体は文化事業にまで予算が回らないとよく嘆かれるが、立派なものだ。
車が専用駐車場にとまった。二人で図書館の正面玄関をすぎると、白を基調とした明るい内装が目にはいった。一階は、トイレを別として幼児むきの本しか置いてない。外からもたしかめたが、誰もいなかった。
二階にあがって盗難防止用のバーを手で押し開けると、カウンターや書棚がすぐに視界を占めた。はなれた場所には検索用のコンピューターもならんでいる。利用者は数十人といるものの、やはり馬場はいなかった。
予定どおり、赤野は銭居とならんで検索用コンピューターの前に座った。『聖クリューガー』を検索すると、結果は二冊。『中世の聖人』と『悪魔の印章』だ。つまり、赤野は『悪魔の印章』を探せばよい。書籍の名前とコードをスマホのメール作成欄に控え、パソコンを閉じて席をたった。ほぼ同時に銭居もそうした。
図書館の書棚ごとにつけられているコードと、自分のメモを照らしあわせていけば簡単に見つかった。元々、できるだけ時間をかけずにすむようになっているのだから当然といえば当然だ。まあまあ分厚い本で、文庫本二冊分くらいの頁があった。
閲覧室へいき、さっそく中身を読んだ。もっとも、一から熟読する時間はない。聖クリューガーにかかわる検索だったのだから、その名前がでてくる箇所だけ拾えばよかろう。
目当ては、全体からすれば半ばくらいの部分にあった。『聖クリューガーが記録した悪魔のシンボル』と章題がついている。
要約すれば、十二世紀の悪魔崇拝者達が聖クリューガーの手で実態を暴かれた話だ。証拠の一つとして、彼らが秘密の暗号に使っていたマークがあるらしい。
悪魔崇拝者達は、さる貴族の領地にいた。その貴族は、現在のベルリンからかなり南にはなれた場所を治めていたそうだ。当の貴族はローテ子爵といったが、恐るべきは身内にもメンバーがいたという。
身内のメンバーとは、彼の妻エリザに次男で司祭のゲルト。ゲルトは、当時としては珍しくもないが堕落した聖職者だった。簡単に魂を売ったそうだ。長男のロルフは、下戸だったために悪魔の贈ったワインが飲めず難を逃れた。
ただ、エリザが何故メンバーだったのか、当主のローテ子爵自身は無事だったのかどうかまでははっきりしない。
そして、エリザやゲルトが用いていたマークは、長方形の長い方の一辺をわざと波線にして、両端から角のようなものを生やしたものだった。現物が描かれたスケッチも写真で記載されている。博慈院で幼児達が描いていたのとまったくかわらない。
では、彼らは悪魔崇拝のシンボルを競って絵にしていたのか。よりにもよって教会が運営する孤児院で。
赤野は頭がくらくらした。つじつまがあわなさすぎる。この現代でそんなマークがなんの力を持つのか。ただの抽象画かもしれない。じかに結びつける方がどうかしているのだ。
その時、スマホにメールの着信がはいった。銭居からだ。『時間です』とだけある。そういえば、銭居の姿は閲覧室になかった。一声かけられるような場所でもなし、他の閲覧者に気をつかったのだろう。
席をたち、本をもどしてから図書館をでた。玄関先で銭居が待っていた。
「いかがでしたか?」
「いや、本で力説されていたマーク……悪魔のシンボルが、博慈院で見たのとそっくりでした」
「それは収穫でしたね」
「収穫?」
「いざとなったら、博慈院どころか運営元の教会まで芋蔓式に糾弾できるじゃありませんか」
「そ、それはそうですが……」
「日本にもないわけじゃないんですよ。キリスト教を看板にだした悪魔崇拝のカルトが」
「どうして、そんな馬鹿なことをするんです?」
「キリスト教のパロディです。わざと下手な物真似をして馬鹿にするんです」
無宗教の赤野にはピンときにくい話だった。
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