第五話 矛盾

 教会が運営しているわりには、事務室には十字架だの聖書だのは置いてない。パソコンや、教育にかかわる法律書のほかは卓上カレンダーがあるきりだ。


「自己紹介が遅れました。私、渕原 久恵と申します」


 ポロシャツの女は名乗った。赤野も銭居も名のったあとなので、型どおりにお辞儀すればすんだ。


「どうやって当院にこられたのでしょうか」


 渕原の表情が、一段と厳しさを増した。赤野は、はたとつまった。教会でビジョンを目にしただのユーチューバーからまた聞きしただのとは答えられない。


「馬場さんが、なにかあったらお宅様によっているかも知れないとおっしゃっていたのです」


 よどみなく、銭居は嘘を重ねた。


「はあ……まあ、そうでもなければこちらを探されたりはしませんよね」


 どこかしら、自分で自分にいい聞かせているような口調だった。


「私どもはよく知らないのですが、馬場さんはなにか博慈院様とかかわりがあるのですか?」


 どうせ尋ねなければならない。そう開きなおった赤野のそばで、銭居はほんのかすかに笑った。


「はい。馬場さんはここの卒院生です」


 渕原はためらいなく答えた。


「卒院生……」


 赤野にもある程度の予想はついていた。むろん、馬場の滞納を孤児院に結びつけて愚弄するつもりは毛頭ない。しかし、去年調べた経歴とまるで異なる。へたをすれば文書偽造だろう。ここで騒ぐつもりはないが、赤野としてはいっそう身構えざるをえない。


「そうです。ここを運営している、カトリック伯林教会という教会の正門前に生まれたばかりの馬場さんが捨てられていたんです」


 カトリック伯林教会! なかなかに劇的な偶然だ。


「じゃあ最初から……」

「はい、孤児でした」


 渕原は、赤野の発さなかった言葉を正確にひきとった。


「馬場さんはすくすく育ち、やがて美術の才能を開花させ始めました。数年前に中学を卒業した時、パリで学んではどうかという話もでました。でも、本人はドイツにいくと強く主張したんです」

「なにか、特別な思いいれがあったんですか?」


 赤野は、冷淡なのか熱心なのかはっきりしない渕原の説明にすっかり没頭していた。馬場の居場所か行方さえ聞けばすむはずのに。


「ええ。当院では、職員だろうと院生だろうと月に一回あるカトリック伯林教会のミサに全員で参加します。その教会にあるステンドグラスを、馬場さんはとても気にいっていました。それがドイツで作られた物だと知ってからは、他の国なんて頭にはいらなくなっていました」


 それを幼少期からの刷りこみとするか、開花しつつあった芸術的センスが自然に求めたとするか。赤野には判断しかねた。


「失礼ながら、学費や生活費はお宅様がお世話をなさっていたんですか?」


 銭居は助手という触れこみにふさわしい質問をした。


「はい。学費は当院で、生活費は……」


 ヤカンが甲高い音をたてて沸騰を告げた。


「失礼。お湯が沸きましたので」


 渕原は席をたった。彼女が給湯室に入ったのとタイミングをあわせ、ドアが開いた。一人の若い……赤野や銭居よりは少し歳上の……男性が現れる。半袖のワイシャツに背広用のズボンをはいていて、髪を丁寧になでつけていた。全体的に痩せており、背は外国人なみに高い。


「これは、いらっしゃいませ」


 驚きのまじったぎこちない挨拶を、新しく現れた男は口にした。


「やっ、これは……。お席を邪魔していましたか」


 赤野も慌てて腰を浮かせた。


「いえ、むこうの椅子ですから。ああ、私は九里くりと申します。ドイツ語の講師です」

「赤野賃貸ビルオーナー、赤野です」

「助手の銭居です」


 この辺のやりとりは、誰だろうと変わらないはずだった。


「銭居さん……? 失礼ですが美術商の?」

「それは副業です」


 間髪を入れず、銭居は答えた。赤野は仰天した。

 

 雨は小降りになった反面、窓を打つ風が次第に強くなっている。


 赤野が口を開く直前、給湯室から渕原が現れた。盆に急須と湯飲みを四つのせている。


「いいタイミングでもどられましたね」


 いかにも温和な様子で九里に声をかけつつ、渕原は盆をまず自分の机に置いた。急須を持ち、それぞれの湯飲みに順繰りにわずかずつ茶を注いでいく。


「さ、どうぞ」


 赤野と銭居にまず湯飲みがだされ、ついで九里に。最後に自分自身へ湯飲みを置いてから渕原は座った。


「ありがとうございます。頂きます」


 異口同音に赤野と銭居は感謝し、湯飲みを手にした。軽く息を吹いてから一口飲むと、ほのかな甘味がする。煎茶でも番茶でもなかった。


「お口にあいましたか? 実はこれ、野ぶどう茶なんですよ」


 渕原もまた一口すすった。


「美味しいです」


 素直に赤野は賞賛した。


「はい、とても」


 銭居も同意見だった。


「身体にもいいですよね」


 九里も上機嫌だ。


「聖書では、イエスは最後の晩餐を前にユダを裏切者と明かしましたね。そして、ワインを自分の血と思って飲みなさいと語りました」


 渕原が語った直後、風が荒れて窓がゆれた。


「では、馬場さんが、ここからどこへむかったのかをぼつぼつ教えて頂けませんか?」


 茶飲み話をしにきたのではない以上、自分から主導権を握らねばならない。そこは、赤野もわきまえていた。


「はっきりとはうかがっていませんが、県境にある山にはいるとは聞きましたね」


 渕原は答えた。


「いや、私は隣町の美術館とうかがいましたよ」


 九里がけげんな顔をした。


「じゃあ、どっちかが……」

「失礼ですが、お二人とも具体的にいつそのお話を耳にされたのでしょうか」


 赤野が問いかけ終える前に、銭居が別な質問を投げかけた。渕原と九里はたがいに目をあわせ、はなした。


「私は二時間ほど前で……」


 渕原は、ゆっくりと慎重に答えた。


「私は夕べの十時くらいでした。久しぶりに電話がかかってきたので」


 九里の説明は腑に落ちなかった。馬場は固定電話もスマホも持っていない。公衆電話かも知れないが、赤野のビルの近くにはない。


「なら、時系列としては県境の山の方が新しいですね」


 銭居は渕原をじっと見ながら結論づけた。


「はい。目の前の国道をそのまま進めばたどり着きます」


 いかにも熱心に助言する様子で、渕原は補った。


 また事務室のドアが開いた。白髪が申しわけ程度に残った男性で、少し曲がった背によれよれのワイシャツが年寄り臭さを強調していた。人好きしそうな目鼻だちをしており、襟元に琥珀色のポロタイをしめていた。


「おや、いらっしゃいませ。賑やかだね」


 その声はインターホンで耳にしていた。


「ああ、院長先生。こちら、馬場さんが今お世話になってらっしゃる赤野さんと助手の銭居さんです」


 渕原が紹介したので、赤野達は椅子から立ちかけた。


「ああ、いやいやお座りになっていて下さい。私は当院の院長で光川 欽也きんやと申します」


 無難に挨拶を交わしつつ、光川も椅子に座った。


「私もお茶を頂いて構いませんか?」

「ええ、すぐにおだしします」


 渕原は、空の盆を持って給湯室に入った。彼女を目で追ううちに、赤野の視野に窓ガラスが映った。おりからの雨で濡れている。かと思うと、吹きつける風で水滴が散った。散ったはずの水滴がひとりでに集まり、さっき幼児達が描いていた絵……角の生えた長方形……そっくりになった。


「どうかなさいましたか?」


 光川院長が聞いてくるまで、赤野は自分でも時間を忘れるほどその模様に注目していた。


「え? いや、こんな嵐の日に馬場さんは美術館ならまだしも山にいくだなんて……」

「美術館? 山?」

「院長先生はご存知なかったんですね」


 それはそれでありえなくはないと、赤野は思った。


「いや、私はたったいま本人からの電話で県立図書館にいると聞きましたよ」


 さらりと光川はいった。

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