第三章 学生と画商、現代日本

第一話 催促 一

 旧式のノートパソコンを操作しながら、赤野はしかめた顔がますますしかめられていくのを意識した。ところどころ錆のういた机がかすかにきしみ、椅子の背もたれが耳障りにキーキーうなる。


 日本人にしては濃くはっきりした目鼻だちの彼だが、ういた話にはなかなかありつけないままだ。


 窓は六月の雨に濡れていた。窓ごしに見える看板も、ひっきりなしに雨水をしたたらせている。道路から見れば、『赤野賃貸ビル』と白地にゴシック体で描かれているのが目にできるのだが。


 よく観察すると、看板と建物の外壁のあいだに鳥が巣を作っている。本来なら糞害もあるし撤去した方がよい。実のところ、オーナー……つまり赤野自身……が処理を面倒がって放置していた。


 彼が見つめるノートパソコンの画面には、『入居者家賃入金状況』と題名のついた表が現れていた。大半の入居者は毎月契約どおりの家賃を払っている。


 一人だけ、滞納常習犯がいた。馬場 汎都はんと。美大生。去年からこのビルの一室を借りている。二十歳を回っているからぼつぼつ就活せねばならない時分だろう。


 本人からすれば、借りている部屋は住居兼アトリエのようだ。どうやって学生がそんな資金を工面しているのかは勝手として、振りこみ日までに入金があったのは最初の数ヶ月までだった。


 これまでの滞納最高記録は三ヶ月で、去年の話だった。保証人にはなにをどうやっても連絡がつかず、裁判所をとおして強制退去させると宣言してやっと払わせた。もっとも、保証人の件は宙にういたままだ。


 今回、滞納二ヶ月目にさしかかる。今年としては初の滞納ながら、去年の段階で次はないと宣言していた。赤野としてもいよいよ決断が迫られた。


 画面には、表のみならず自分自身の顔もぼんやりと写っている。馬場より多少歳をとったくらいか。そのくせ、くたびれたネクタイと無駄にがっちりした肩幅が我ながら野暮ったい。もう一つ、自分の背後にある壁も写っている。どうにかひび割れが入らないくらいに古い、むき出しの白いコンクリート。


 気づいたら、赤野は不動産業を営んでいた。もっとも、本格的なものではない。


 三人兄弟の末っ子としてほどほどに裕福な資産家に生まれた結果。彼、赤野 灰津はいつは大学を卒業してから親のあてがったこの古ぼけた鉄筋ビルのオーナーになっていた。ろくに就活しない彼に、世間体を気にした両親が形ばかりの肩書きを投げわたした次第である。あるグループの人々からすれば、それが途方もない幸運なのは彼とて知っていた。


 さておき、滞納者の放置は許されない。椅子からたち、壁ぎわにあるむきだしのハンガーラックから上着を引っぱりだした。それを身につけてからドアを開け、廊下に踏みこんでから鍵をかける。


 ビルは五階建てで、エレベーターがついていた。事務所は一階、馬場の部屋は三階だ。ボタンを押すとすぐ扉が開いた。先客がいる。つまり、先客がきて扉が閉まってすぐに赤野がまた開けた形になる。


 先客は若い女で、ブルネットに染めた髪を高く結っていた。モデルなみのスタイルをしているにもかかわらず、洗いざらしのジーパンにくたびれたリンネルシャツという地味な着あわせだった。肩からは古めかしい黒いバッグを下げ、左手には安物のビニール傘。傘の尖った先からは、水がたれている。


 いかにも怪しげな雰囲気と思えば思えたが、赤野は軽く頭をさげて箱の奥に進んだ。彼女は階数ボタンの前にいる。


「何階ですか?」


 女から聞いてきた。理知的である反面、どこか引きこまれそうな声音だった。


「三階をお願いします」


 彼女は軽くうなずいた。ボタンは一回しか押されず、同じ階にあがるのがわかった。


 エレベーターが三階に達し、まず女が降りた。ついで赤野も降りる。すると彼女の背中を追うことになり、赤野はわずかながらも困惑した。しかも、彼女は馬場の部屋で足をとめた。困惑はますます強くなった。


「あなたも同じ方に御用ですか?」


 彼女は赤野に振りむいて聞いた。


「ええ。私はここのオーナーで、赤野と申します。失礼ながら、あなたは?」

「あら、失礼」


 彼女はバッグを開け、名刺入れをだした。


「これはどうも、ご丁寧に」


 赤野も上着の内ポケットから同じように名刺を出し、その場で交換した。


 古美術商、 銭居ぜにい 英里砂えりさ。お洒落な名前だ。


「赤野 灰津様ですね。ご挨拶が遅れて大変失礼しました」

「いえ、こちらこそ。……それで……」

「馬場さんのご作品を買いにうかがいました」


 わざわざ古美術商が……。そんな実力があるなら、滞納などするはずがないだろうに。


「それはそれは……」

「失礼ですが、家賃がたまっていたのですか?」


 ずけずけと、しかしにこやかに銭居は聞いてきた。


「まあ、そうです」


 守秘義務に反するが、思わず答えてしまった。銭居の問いかけには、逆らえない優しい檻のような迫力があった。


 銭居は呼び鈴を押した。返事はない。居留守だとしたら無駄な抵抗だ。赤野は事前に何度も警告しているし、合鍵も持参している。


 もう一回銭居が呼び鈴を押した。結果は同じだった。もうためらわず、赤野はポケットから合鍵をだして鍵を開けた。


 室内は、半ば予想していたとおりの状況だった。散らかっているうえに、絵の具の臭いがこもっている。ちなみに、ここは住居というよりオフィスを意識した賃貸ビルだ。だから土間はない。ただ、ポンコツビルのくせにどのテナントも……真夏の営業回りも意識してか……シャワーが使える。小さければ洗濯機も置ける。


 一応、馬場はパーテーションを使って創作と私生活を大雑把に区切っていた。最低限に狭い私生活スペースだけは、きちんと片づいている。


 創作スペースには大人の胸ほどの高さをしたイーゼルがたててあり、一枚の絵がセットされていた。


 絵には、薄暗い森の中でだれかが埋葬されている場面が描かれている。灰緑色の針葉樹に埋もれるように、墨染の衣をまとった数人の人々が墓穴を囲んでいた。具体的に誰が埋葬されているかはわからない。


 絵の中で唯一、はっきり女とわかる人間がいた。スコップを両手で持ち、微笑みながら土を墓穴にかけている。


「見事なテンペラ画ですね」


 銭居はプロらしく一目でいいきった。


「テンペラ?」


 ほんの一瞬、アナゴやキスの天婦羅てんぷらを思いだした赤野であった。


「簡単にいえば、卵白などに顔料を溶いて描いた絵です」

「はあ」


 芸術的センスがゼロの人間としては、それ以上の台詞がでてこない。


「『修道士の埋葬』……ね」


 コツコツとパンプスを鳴らしてイーゼルの後ろに回りこみ、銭居は読みとった。


「銭居さん、絵は完成しているんですよね?」


 無粋な言葉はだしたくないものの、しかたない。


「はい」


 絵のうしろで、銭居は眉一つ動かさなかった。


「放っておけば、もどってくると思いますか?」

「それはどうでしょう」


 ふたたび絵の正面にたち、銭居は様々な角度から絵を観察した。


「やはり、とても秀逸な技術です」


 本来聞くべき人間とそうでない人間がとりちがえられているにもかかわらず、銭居の論評には自然な説得力があった。商売柄当たり前なだけではない。部外者だろうと素人だろうと、誰にどんな聞かせかたをすれば良いのか最初からわきまえているようですらあった。


 そうなると、銭居の格好はますますちぐはぐに思える。もっとお洒落すればいくらでも人目をひきつけられるだろうし、それこそ商売の足しにもなるだろうに。


「はぁ……」


 赤野としては、我ながら芸のない生返事をするしかない。


「メメント・モリをずばり現しています」

「メメント・モリ?」


 テンペラ画だけでもさっぱりなのに、ますます意味不明だ。


「死を想え。いつかやってくる死に備え、思索や考察を怠るなという意味ですよ」

「……」


 今度は、気のぬけた返事はしなかった。銭居の説明が、心の奥底にあるうずくような痛みを刺激した。もっとも、どうしてそんな感情が湧いてきたのか見当がつかない。


「やはり、買わねば。本人の居場所を探し当てましょう」


 当然至極といわんばかりの銭居。


「どうやって?」


 馬場はスマホも携帯も持っていなかった。固定電話すら構えてない。いまどき浮世ばなれしており、それがゆえに居場所を特定しにくい。


「失礼ながら……赤野様のオフィスはこのビルの中ですか?」

「ええ」


 唐突に的にされた。


「大変不躾なのですけれど……よろしければパソコンをお借りしたいです」

「借りてどうするんです?」

「馬場様の居場所を特定します。いえ、犯罪や裏社会とはまったくかかわりのない探し方ですから。もちろん、その場で作業をご覧になられて結構です」


 たったいま知りあったばかりの人間に、なんと奇妙な願いごとだろう。いかにも正当な要望に思えて、一方的ですらある。

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