第二話 混迷 一

 ワインも肉汁もハインツがテントで食べたものなど比較にならないほど上等だ。


 ほどほどに広い室内には丸テーブルが置かれている。三つ席があり、一つはあいていた。残る二つに、真っ青なロルフと真っ赤なゲルトがグラスを握りしめてむかいあっている。


 長兄ロルフは下戸ながら、自分の盃を断られた父親がどれほど怒り狂うかをよくわきまえていた。


 次兄ゲルトは父親の酒を飲み過ぎては何度も罵倒されていて、そのたびに聖書を持ちだしてはずる賢く怒りを解いていた。


 テーブルの下からはいびきが聞こえる。父、マクシミリアンのそれだ。子爵閣下は寝床代わりに敷いた熊の毛皮に大の字を作り、いびきをかいていた。


「遅いじゃないか、ハインツ」


 ゲルトの上機嫌な声が、テーブルのうえをすべってやってきた。


「申し訳ありません、父上、兄上」

「こ、今回のいくさ……うぇっ。いくさでな。お前の手柄を認めた父上が、よ、よ、よ……」

「失礼ながら、ロルフ兄上、水でも飲まれてはいかがです?」

「だ、黙れっぷ。嫁を探してやったから改めて挨拶にこ……ぐべっ」


 長兄の酔態に顔をしかめたハインツだが、言葉の内容にはもっと顔をしかめた。


 父だか兄だかの愛人が妊娠して清算を迫られて、まだ腹が大きくならないうちに押しつけてくることさえ普通に考えられる。でたらめな経歴を添えて。


「どうしたんだ、黙りこくって。祝杯をあげようじゃないか!」


 ゲルトはわざとらしくグラスをかかげた。


「少し驚いただけです、ゲルト兄上。お屋敷にはいつうかがえばいいでしょうか」

「明日の晩にはきた方がいいぞ! 知ってのとおり父上はお気が短い」


 領主として、昼間は公の政務を行わねばならない。家族や私生活にまつわることどもは夜に入ってから処理された。


「承知しました。では、明日」


 会釈してハインツはきびすを返した。


 自分のテントにもどると、出入口の裏でバッハが粗末な毛布にくるまって眠っていた。とくに無礼ではない。休んでいいといったのはローテなのだから。


 用があれば起こせばすむし、休める時に休めない人間はどのみち役にたたない。


 あどけない寝顔をほんのしばらく眺めてから、爪先で軽くバッハの左腕を小突いた。


「うーん……あっ、お帰りなさいませご主人様」


 藍色の瞳が、ローテを認めるや否やすぐに輝きだした。


「引きあげるぞ。支度しろ」

「かしこまりました」


 テントや食糧はすべて荷車に載せ、愛馬に引っぱらせる。梱包はバッハの仕事なので彼にやらせ、ローテ自身はたったまま手近な木に背中を預けつつ腕を組んだ。


 嫁。いらん。それですませたらどれほど楽か。彼とて女性とつきあいたいという平凡な願望はある。ただ、独身の方がなにかと自由だ。


 もっとも、基本的には親が決めた相手と結婚するのが……特に上流階級では……当たり前ではある。四つ五つで縁組みする家庭もざらにあるから、むしろローテは遅い方だろう。


 ちなみに、ロルフはとうに結婚している。辺境伯の分家筋から迎えたらしいが、毎日頭があがらないらしい。ゲルトは神に貞操を誓いつつせっせと姦婬に励んでいる。


「ご主人様、準備が終わりました」


 愛馬には荷車がつないであり、畳んだテントやずだ袋が理路整然と荷台に詰められていた。


「ご苦労」


 ローテは馬にのり、バッハは荷物の見張りをかねて荷台にあがった。


 馬上になると、勝利を祝う酒盛りの歓声が宿営地のあちこちから聞こえてきた。ローテが少々屈折した立場にいるのを騎士達は知っており、わざわざ声をかける者はいない。


 手綱で軽く愛馬の首を叩くと、ローテは荷車ごと宿営地をはなれだした。自宅までは、森の縁にそってのびる道路をそのまま進めばよかった。月明かりも申しぶんない。ゆっくり進んでも二時間ほどだ。月が明るすぎて、かえって星の瞬きは控えめに見えた。


 フクロウの鳴き声が断続的に闇をかき回している。せめて、家に帰ったらまたワインでも飲もう。まだ見ぬ嫁とやらは明日の晩まで置いても差しつかえはなかろう。


 そんなことをつらつら考えながら手綱を握っていたローテだが、急に馬の足が軽くなったような気がした。なにかしら不審なものを感じて振りむくと、荷車がない。


 バッハはなにをしていたんだろう。 居眠りか。苛だちながら、ローテは馬から降りた。手綱を手近な木の枝に巻きつけ、自分の足でいくばくかあともどりする。荷車はどこにもなかった。


 舌打ちしたいのを我慢しながら馬にもどり、手綱を解いてまたのりなおした。


 気分が一気に重くなった。実のところ、ローテは一回もバッハを叱ったことはない。しかし、居眠りしていたなら小言ぐらいではすまない。


 いずれにしても、荷車は回収しなければならない。バッハの様子もたしかめねばならない。つまり、きた道を逆もどりするほかはなかった。……どこまでさかのぼっても、痕跡さえ現れない。


 一本道をゆっくり走っていた記憶しかないし、 まるで妖精にいたずらされたような感覚だ。


 実りのない捜索を諦め、ローテは馬をとめた。そして、初めて自分が道からはずれて森にはいってしまったことだけがわかった。さっぱり意味がわからない。


 たしかに多少のワインは飲んだ。酩酊してはいない。あくまでも自宅を目指して、まっすぐに進んでいたはずだ。


 では呪いかなにかなのか。ローテは決して信心深くないが、聖書や聖職者には敬意を払ってきた。ゲルトのような例外はいるにしても。


 その自分を、呪いなどが右左できるはずがない。それならなぜ理不尽な状況になっているのか。


 せめて現在地だけでもなんとか確かめようと、頭上を仰いだり周囲を見回したりもした。うっそうとしげる木の群れの中で、細い踏みわけ道が続くばかり。夜空はなにも答えない。野宿はぎりぎりまで避けたかったこともあり、半ば自暴自棄に馬を獣道にそって進めた。


 どのぐらい時間がたったことか。フクロウさえ沈黙した時、急に木だちがとぎれて一軒の館が目の前に現れた。


 窓からは明かりが漏れている。つまり、人がいる可能性が高い。門番こそいないが、ノッカーのついた頑丈な扉だ。館の持ち主がなかなかの資産家であることを暗示している。


 これは不幸中の幸いなのか、それとも悪魔の誘いなのか。


 毒を食らわば皿までという気持ちになり、ローテは馬を下りて手綱を引きつつ扉まで歩いた。


 ノッカーでドアを叩くと、しばらくして足音が聞こえてきた。


 こうなると、武装していたことが正解のようでもあり失策のようでもあった。


 いずれにせよ、扉は内側から外側にむかってゆっくりと開かれた。明かりが漏れはじめ、まぶしくなってローテは顔をしかめた。


 光が収まると、一人の若い女性が時代遅れなドレスを身につけてたっていた。バッハよりは年上で、ローテよりは若い。華も極めようかという顔だちに、ブルネットの髪は高く結いあげられ、モスグリーンの瞳を飾るまつげは丁寧に手いれされている。


 それだけに、ドレスの仕たてはいっそうちぐはぐに思えた。


「今晩は。突然の訪問申し訳ない。我が名はハインツ・フォン・ローテ。ローテ子爵の四男だが、道に迷った。願わくば一晩の宿をお貸し願えまいか」


 女性の衣服はともかく、まさか召使いとは思えない。ローテは丁寧に問いかけをした。


 パーティーでも開いているなら、客の出迎えを当主の婦人や令嬢がするのはなくもない。


「まあ、それはお困りでしょう。当主は私です。エリザ・フォン・ツェニーと申します。爵位はございません。子爵様のご子息をお迎えできて光栄に存じます。さあ、おはいり下さいませ。お馬は、厩舎にてお預かりしましょう。武具と防具はいかが致しましょうか?」


 なめらかにツェニーは応じた。当主の体面を考えると、戦場からの格好そのままはさすがに失礼だろう。


 さりながら、丸腰になるのは不安だ。山奥で経営されている旅館が、不用心な客を殺害して身ぐるみ巻きあげるような話も二、三回は聞いている。


「申し訳ないが、このままで。雨露さえしのげれば望外の幸せにて」


 腹は減ってないし、明日の朝を無事に迎えられたらそれで構わなかった。


「かしこまりました。ただ、丁度ささやかな晩餐会を開いております。ご臨席頂いて、名誉を添えてくださいませんか」


 頼んだはずが頼まれて、ローテは困惑した。それなら、用件の重要さからして最初に打ち明けねばならないだろう。気が利かないのか、やはり一物あるのか。


「ご当主自らの願いとあっては喜んで」

「ありがとうございます。それでは、こちらへ」


 軽くお辞儀して、ツェニーは背中をむけて歩き始めた。半歩遅れてローテも続いた。馬は召使いがどうにかするのだろう。


 玄関から十数歩の距離になる廊下を歩き、端にあたる両開きの扉をツェニーが開けた。品よく控え目に抑えられた蝋燭ろうそくの輝きと、暖炉の炎で二重に照らされた人々がいっせいにこちらをむいた。


 晩餐会場は屋敷のホールを丸ごと使っている。白いテーブルクロスをかけた長テーブルには、七、八人の参加者が背もたれつきの椅子に座っていた。


 老若男女様々な取りあわせで、さすがに鎧兜姿なのはローテだけ。もっとも、ベルトに短剣をさしている人間はちらほら見える。結婚式でも短剣を構えてくるのが当たり前なので、それはそれでよい。


 奇妙なのは、ツェニーだけでなく彼らもまた珍妙な衣服や髪型だった。


 ローテは洒落者とはほど遠いが、みすぼらしいわけではない。世間なみな身だしなみは教育されている。


 あまりじろじろ眺めるのも失礼なので、ローテは暖炉に目を転じた。さっきは見落としたが、大理石でこしらえた握り拳二つ分ほどのレリーフがある。長方形をしていた。針葉樹の木々のさなかに、粗末な衣をまとった数人の修道士が墓穴を囲んでいるものだ。『修道士の埋葬』と題してあった。

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