第九話 変身
家路の道すがら、ふと思いついた。
夢の中で、フェリスは女になっていた。それは嫌でも義父や元師匠のもたらした、汚物めいた記憶を連想させている。しかし、一面では……あくまであんな連中とは別個に……作品への新たな手がかりがえられそうな予感を覚えた。
自分自身にも、作品にもこれまでの殻を破る要素……『変身』を果たさねばならない。
ローマにいるときに聞きかじった、ギリシャ神話の話がフェリスの頭をよぎった。様々な物語の中で、人間や妖精が蝶になったり花になったりする話は珍しくない。なかでも、『水辺』は変身の舞台としてよく使われる。
どうせなら、泉で水浴びしてはどうだろう。だからといって作品の出来映えを保証してくれるはずもないが、尽くせる手だては全て尽くしておきたくもある。
決心した彼は、小屋へいく前に泉へ寄り道した。
泉につくと、一応下着だけは残して服を脱いでから水につかった。真夏ではないので、なかなかに冷たい刺激が全身をつつきまわした。
作品への考察以前に、手足がふるえて歯がかちかち鳴り始める。サウナで我慢するときの真反対だ。
これで風邪でも引いたら本末転倒なことはなはだしい。ほどほどにして岸にあがろうとした瞬間、ここ最近になって見た三つの夢が頭のなかでまとまった。
思いだしたくもない、負の意味で現在の生活を導きだした義父と元師匠。
鎧兜を身につけた戦士達の戦場で、かつて見たゲルマン人傭兵そっくりの男にとどめを刺されようとする男。
見たことも聞いたこともない異国の風体で、女になった自分といっしょにいたゲルマン人傭兵に似た男。
『男』なるものに、フェリスは複雑かつ屈折した気持ちを抱いていた。
むろん、フェリスは精神的にも肉体的にも男だ。ただし、人形と会話をするまで同性愛にも異性愛にも関心を持たなかった。
なるほど、『変身』だ。ひょっとしたら、ハンナにマッサージされたのも一因かもしれない……母親以外の異性に触られたのは、思い返せばあれが生まれて初めての体験だった。
修道士の埋葬……それは、神に誓った貞操そのものの埋葬にはならないのか。
考えれば考えるほど、思いついたことをできるだけはやく形にしたくなった。服を着るのももどかしく、フェリスは小屋に帰った。
そこからは、時間との勝負になった。納期から逆算すると、寝食をぎりぎりまで削ってどうにかなるかならないかというところだ。そもそも、具体的な案が固まってないから大理石さえ発注していなかった。
大理石を小屋まで届けてもらうためには、どうしてももう一回街へいかねばならない。だから、乏しい時間がさらに減る。
フェリスとしては、自分の名誉にかけてもしめきりまでに完成させるつもりだった。だが、焦って怪我をしたり道具を壊したりするのは愚の骨頂だ。その意味では自分自身との戦いでもあった。
数週間後……朝もまだ早いといっていい時刻。
やつれ果て、無精髭に埋め尽くされたフェリスは小屋で二人の男と対面していた。一人はバオベ、もう一人はヤコブだ。
二人の来客は、見事なまでに対照的な外見と印象だった。先入観も大いにあるだろう。だが、フェリス苦心の快作を満足げに見守るバオベと苦虫を噛み潰したようなヤコブは、ふだんの生き方そのものに結びついていてもおかしくなかった。
フェリスは、今回の作品を『修道士の埋葬』と名づけた。奇もてらいもないが、大事なのはあくまで現物だ。
針葉樹に埋もれるように、粗末な衣をまとった数人の修道士が墓穴を囲んでいた。具体的に誰が埋葬されているかは、覗きこまないとわからない。
埋葬されているのもまた修道士だが、生者と死者は表情から衣服のひだまで一人一人こだわりぬいた。
生者はすべて老いさらばえていた。そして、ある者は右手で自分の衣服を握りしめている。またある者は、上半身を引き絞った弓のように曲げて食いいるように死者を観察している。いずれの生者にも共通しているのは……二番目に腐心した点でもあるが……『嫉妬』と『安堵』が同時に顔にでていることだ。
実は、よく観察すると生者の背は不自然に盛りあがっている。さらに詳しく観察すると、コウモリの翼めいた筋が走っている。それは悪魔の象徴だ。
大して、死者は若々しく穏やかな様子で衣服にもシワ一つない。
この作品で一番腐心したのは、死者の口元だ。微笑んでいるように思えるそこからは、水滴が一つこぼれていた。これも、意識して調べないとまず見すごすだろう。さらに、死者の襟元にはかすかな膨らみがあり首には細い紐がかかっていた。膨らみは十字架のように思えるが、実は小さな瓶だ。
「毒を飲んで自殺した同志を、仲間達がうらやんでいるのだな?」
バオベが、正確無比な解題を果たした。
「そうさ! その通り!」
くまに縁どられ、落ちくぼんだ目をぎらぎらさせながらフェリスは喜んだ。
「一見、彼らは信心深い修道士達のように思えて実は悪魔の手下達だった。それと悟ったこの死者は……恐らくは新入りだろうが……自殺によって魂の名誉を守った。自殺は破戒の大罪だが、それ以外に道はなかった」
「完璧だよ、バオベさん! で、どうかな? 合格かな?」
バオベの口元から、答は知られたようなものだ。とはいえやはり言質が欲しい。
「むろんだ。よくやった。だが……」
小躍りしかけたフェリスの手足が、思いもかけぬバオベの逆接でぴたりととまった。
「生きている方の修道士は、不本意にも悪魔に仕え『させられていた』ということか」
バオベの論評が、批判めいたものにフェリスは感じられた。
「そ、そりゃあ誰だってうしろめたさや倫理は意識しなくちゃ。でないと……」
「まったくだ。それでなくてはならん。喜びいさんで悪魔のしもべになるような奴は、しょせんは三流だ」
「なら……とにかく認めてくれるんだな?」
「当然だ。誤解のないように断っておくが、ケチをつけるつもりは毛頭ない」
バオベは言葉を切り、ヤコブに顎をしゃくった。
ある意味で、バオベの審美眼よりヤコブの存在こそが不気味ではあった。
最初、大理石の注文をしにいったときにはバオベは不在だった。臨時雇いであろう店番にメモだけ渡して帰ると、翌日の暮れには希望した品がやってきた。運んできたのは街の業者だが、バオベともヤコブとも関係ない。
作品に専念したかったので、それ以上こだわることはやめにした。
フェリスが『修道士の埋葬』を完成させたのは、昨晩だ。朝一番に街へいこうと思っていたら、バオベ達から小屋にきた。まるで、測っていたかのようなタイミングだ。
つらつら考えている間に、ヤコブは持参していた布で丁寧に作品をくるんでベルトつきの箱に詰めた。相当な重さのはずだが、軽々と持ちあげてベルトを肩にかけた。
「報酬の実行については、近い内に手配しよう。それと、読んでおいて欲しいものがある」
「なんだい?」
バオベは、懐から巻物を一つだした。かなりな厚みで、それ自体がフェリスには初めて目にする物だった。
「あえて筆者の名前は伏せよう。お前が次の歩みに至るための、重大な秘密が書かれている。ただし、最後まで読むかどうかはお前に任せる」
「ありがとう。預かろう」
「よし。一週間後のこの時間にまたここにくる。それまでに巻物を読み、荷物をまとめておくといい」
ローマ。一度は捨てたローマ。今度は挑戦するために戻る……バオベが約束を守るなら。いや、破るはずがない。『修道士の埋葬』をどう取引するのか知らないが、徒手空拳の自分をここまで手厚く保護すること自体が信用ではないか。
「どうした? 疲れたか?」
「い、いや。夢のような話で、喜びのあまり心が定まらないだけさ」
「れっきとした現実だ。では、達者でな」
「ああ、一週間後に」
バオベと、『修道士の埋葬』を抱えたヤコブは小屋をあとにした。巻物を手に二人を見送ったフェリスは、これまでの消耗が一気に襲いかかってきたせいでめまいがし、膝を床についた。
まずは、睡眠からだ。手足に力が入らず、這うように寝床へいくのがやっとだった。
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