〈後編〉魔界喪失
〈それと、
「……ッ!!!!」
そう。アグレスは自分が魔王の座に着いた時から、一日も欠かさず、これまでの人間の記憶を消すために、
そして、自分が勇者によって滅ぼされる瞬間にそれを発動させたのだった。
まあ、呪いが完璧に作用するまでに、少しのタイムラグは生じてしまうのだが。
〈貴様を含め、あと三分も経たぬうちに記憶が消える。人が魔法が使えたことも、魔族という存在がいたことも、そして、その者らを滅ぼしたということも──〉
「そんな……」
〈そして、そんな記憶を失くしてしまった人類は、
「……んな、馬鹿なっ!!」
〈魔法の使えない雑魚など、我にとってはハエ以下の存在だ。貴様らが滅ぼしてくれた魔族を全員蘇生させ、新たな世界を司る王となる!!〉
(まずい……冷静になれ、俺ッ!)
あと三分の間で取れるベストな行動を取るのだ。
まず、一番出来れば良いのは、自分も魔王と同じく転生の秘術を使うことだ。呪いが発動する間、この時代から抜け出すことに成功すれば、最低でも自分一人は記憶を失わずに済む。そして、三千年後の世界で魔族の復活を食い止めることも出来る。しかし、今の自分にこれは出来ない。
何故なら、転生の秘術を行うには、自分が持っているほぼ全ての魔力量を消費しなければならないのだ。だから、あの時の魔王は勇者に反撃することなく、ただ秘術を成功させるためだけに集中しきっていた。
(聖剣を使わなければ……)
あの時、聖剣アルフエルダーの七色の光を放った際、自分の魔力量の七割を消費してしまった。
あと、三分以内に魔力量全てを回復するのは難しい。
(どうするッ!どうする……俺ッ!!)
そんな中、一つの勝ち筋が、勇者の脳内を光の速さで通過していった。
それは、焦りによって、忘れ去れられていた人類が最も頼れる存在。魔族を滅ぼす意思を示し、特に勇者である自分に力を与えてくれた存在──神。
「そうだ!俺たちにはまだ神様が付いているじゃないか!!」
しかし、勇者の、人類の唯一の勝ち筋は、魔王に一蹴されてしまう。それも、最低な形で──。
〈残念だが、神が貴様らを助けにくることはないぞ〉
「は……何を言ってるんだ?魔王の戯言なんかに耳は貸さないぞ!!」
〈ふんっ。まあ聞け。
「は……!?」
〈人類を滅ぼす手伝いをするから、神託で魔族を滅ぼすように勇者たちに頼んだことについては目を瞑ってくれとな〉
「う、嘘だろ……それはいくらなんでも魔王の戯言じゃ……」
〈そんなに信じられないと言うなら、貴様の心に手を当ててみるとよい〉
「……」
神は人間の心に住みつき、護ってくれる存在。人間は誰しも手を当てれば、神の意思や意向を感じとることが出来る。
〈薄々気付いているのであろう。神の声が聴こえなくなっていることに〉
(な、何も聴こえない……まさか、本当に神様は……)
「くっ……ッ……クソッ!!」
勇者はその場にしゃがみ込むと、唇を噛み締め、今にも溢れんばかりの涙で歪んだ視界で、地面を思い切り睨みつけた。
もう、自分の心に出てくる感情がどんなものかすらもわからなくなってきた。
〈記憶を失う前に一個だけ言っておこう〉
「なんだよ……」
勇者は、信じた者から裏切られ、完全にこの戦いに負けたことを受け止めたのか、全てを諦めたように弱々しく俯きながらそう呟いた。
〈貴様の、と言うか人類の一番の敗因についてだ。貴様らが最後の最後で負けたのは、自分自身を信じてやれてなかったからだ〉
「へ……」
勇者はポカンとした顔を浮かべた。それもそのはずだ。アグレスが今投げ掛けた言葉は、これまでの流れからは考えられない程の脈絡のないものであったからだ。それに加え、先程とは打って変わって、声も優しくなっていた。
〈人類と戦ってきて我はわかったことがある。人は自分を心の底から信じられた時、予想を遥かに超えた力を発揮することが出来るということだ〉
「……」
アグレスの言う通りだった。これまでを振り返っても、魔族はそれぞれ自らの意思で、各々が動いていた。一方で、人類は全ての行動を神託で決めており、誰しもがそれに異を唱えずに従っていた。
「そうか……」
本当は神様になんて頼らずとも、なんとかなっていたかもしれない。
神のための人柱も生贄も納めなくてよかった世界線だってあったかもしれない。
(もし、神託じゃなくて、自分の意思で行動していたら、ラティーナだって……)
大切な恋人だって、死なせずに済んだかもしれない。
そこまでしてでも神様を信じ、従ってきた理由はただ一つ。
──自分自身を信じられなかったから。
アグレスに言われて、ハッとした。
人類の力では魔族に勝てないと思ったのも、神様に頼ったのも、全ては自分自身への信頼を置かなかったから。
その代わりに、過度な心配をしてしまっていたから。
やっと気付いた。
人類が滅びるルートを辿ってしまった原因を作ったのも、自分自身を一番傷付けてしまっていたのも、魔族なんかではなく、本当は人類の心の在り方の問題であったということを。
「魔王アグレス。一つ頼みがある」
〈申してみよ〉
「三千年後の世界で、人類を滅ぼし、魔族を蘇らせたその時、新たな時代生きる者が皆、心の底から自分自身を愛せる世界を、どうか創ってくれ」
〈任せておけ〉
「言ったからには、俺たち人類の過ちを繰り返さないでくれよ」
〈わかっておる〉
「あと、三千年……。神や魔族、魔法を忘れた世界で生きる人類は、今と少しくらいは変わってくれてるといいな……」
〈……〉
「ありがとな、魔王アグレス。勇者としての最期に、一番大事なことを知れた気がする」
〈……〉
アグレスは、勇者が心の底から解き放った言葉をしばらく黙って噛み締めていた。
少しだけこれは意外だった。
まさか、人類の中の一人、それも勇者と呼ばれる存在が、憎きはずの相手によって、記憶を失われようとする最中、そのような言葉をまさか自分に掛けてくれるだなんて……。
アグレスは少しだけ心を揺さぶられた。本当に三千年後の世界で、自分は人類を根絶やしにすべきなのかと。
だからか、気付けばアグレスは勇者に向かってこんなことを言っていた。
〈勇者よ。今まで持っていた全ての感情を肯定して抱きしめてやれ。魔族が憎いと思った気持ちも、神に縋ろうとしたその弱さも、それに対する自己嫌悪も誇って良いことだ〉
「魔王アグレス……」
〈勇者よ、我は──〉
***
──二〇二三年九月二十一日 日本/東京
アグレスの意識は、魂は、新たな生命は、あれから三千年後の世界へと移行した。完全に。
もう、あの時代に戻ることは出来ない。
だから──、
「我は創るぞ、我が心の底から願う新世界を!!」
アグレスは決心した。
己が望む世界へと形を変えるために──。
魔界喪失 ハッピーサンタ @1557Takatora
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