魔界喪失

ハッピーサンタ

〈前編〉魔界喪失

 ひび割れた大地の上には、二つの影が映し出されていた。

 つい先程まで、この場所に魔王城から建っていたと言っても、もう誰も信じてはくれないだろう。


「フンッ……実にくだらんわ」


 自分の足元に投げ転がされた『予言書』を拾い上げ、それに導かれるまま開いたページの文章を一瞥すると、アグレスは静かにそんな言葉だけを投げ捨てたのだった。

 それに対して、彼から数メートル離れた場所に立つ一人の青年は、にこんな言葉をぶつける。


アグレスッ!今日で魔族お前たちの時代も終わりだ!!」


 アグレスを睨みつける青年は、会話する際も当然ながら、剣の矛先をしっかりと、彼の首の方向へと向けていた。輝く銀色の鎧で纏われた身体は、全身どの部位を観ても鍛え上げられていることがわかる。そして、それに加え、溢れんばかりの魔力が、この空間一帯に放出されているのも肌で感じ取られる。

 この青年こそまさしく──、


「勇者か……」


「……そうだ。今生き残っている魔族も、もうお前一人だ!!大人しく、神託に従い、これまでの罪をその身を持って償ってもらおぞ、魔王!!!!」


 勇者はアグレスと対峙しているこの瞬間、まだ一度足りとも魔力の流れも解いていない。溢れんばかりの殺意が籠った矛先も、アグレスに向けられたままだ。おまけに、アグレスに向けられた憎悪によって見開かれた、今も睨みつけているあの力強い眼に瞬きすることすらも許していなかった。


「神託……神が、そうか……」


 アグレスは勇者のそんな様子と、神による『予言書』に、ようやく恐れをなしたのか、弱々しく俯きながらそう呟いた。


(流石の魔王もこれまでだな……遂に勝ったんだ、我々は魔族に……)


 絶望し、戦意喪失状態のアグレスを勇者はしばらくじっと見つめた。

 そして──、


「トドメだ!!聖剣アルフエルダーよ、魔王を塵一つ残さずに消し去れッ!!!!」


 勇者は、これまで空間全体に広げていた魔力の全てを回収し、剣に力を取り込ませる。

 それまで勇者の顔を映していた剣は、七色に光出してアグレスを目掛け、力が込められていく。


「これで終わりだ!!魔王アグレス!!!!」


 勇者が剣から放った光は、アグレスを呑み込みんだ。


 そして、途切れ途切れに瞳に映っていた黒い影も完全に消えていき、


 そのはずだった──。


(あまりにも手応えがなさ過ぎたな……)


 果たして、これが本当に、かの恐れられた魔王の最期だったのだろうか。


(まさか、な……)


 いくらなんでも、この聖剣を喰らって生きているはずがない。現に勇者である自分は魔王アグレスが消え去る瞬間を、この眼に焼き付けている程、集中して彼の動きだけを直視していた。

 そう。だから──、


「これで、魔族は全員死し──」


 この魔族と人間との戦いを、ようやく人間側による大団円へ終結させた。その事実を声を出してしっかりと言い切ろうとしたその時だった。


 でも、何かがおかしい。


 反射的に勇者の脳裏に、そう過ぎった。


(なんだ、この違和感は……)


 勇者の直感はやはり正しかった。だが、──。


 何故なら、これで、のだから。


 〈──聞こえるか?愚かな人間とくだらん神よ!!〉


(脳内に直接響き渡ってくる声……そんな……)


 勇者の頭の中を抉り込むように入ってくる刃物よりも鋭く恐ろしい声。その主は、紛れもなく、先程滅ぼしたはずの魔王アグレスの声であった。


「何故、聖剣を喰らっても、まだ生きているんだ……!?」


 勇者は唇を噛み締め、周囲三百六十度に全神経を傾けながら、また新たに剣を構える。

 何処から襲ってくるかはわからないが、戦闘力、魔力量は共にこちらの方が一枚も二枚も上手。

 しぐじってしまったのなら、もう一度倒せてば良いだけのことだ。

 勇者の自分には、人類には滅びた魔族と違って、神の加護まで付いている。

 だから、アグレスが何度立ち上がっても、人類の勝利は揺るぐはずがない……そのはずだったのに──。


(全然、気配がない……)


 勇者の冷汗が地面に落ちた瞬間、また脳内にアグレスの声が響き渡った。


 〈安心せよ、我は死んでいるぞ〉


 アグレス本人の声で「自分は死んでいる」と言う言葉を聞くことが出来た。

 だが、その言葉はこの世で最も信の置けない者の声だ。

 死んでいると油断させ、こちらの隙を狙っている可能性が高い。

 勇者はとにかく、警戒心を解かなかった。そんな彼の姿を観てか、アグレスは静かにを始めた。


 〈まだ、我の言葉を信じておらぬようだな〉


「当たり前だ!早く出て来い!!次こそ倒す!!!!」


 〈我の魂はもう既に、三千年後の世界にある──〉


「なっ……」


(まさか、転生の秘術を……)


 〈どうやら、気付いたようだな〉


「この声も、時の念話の力で三千年後の世界から、俺には語り掛けているということか……」


 〈その通りだ〉


 勇者の悪い勘は当たっていたのだ。あの時、倒した魔王は幾千年もの間恐れられた者とは思えぬ程の手応えの無さだった。

 それもそのはず。彼は全魔力を転生の秘術のために注いでいたからだ。それを勇者の自分に悟られぬようにするため、さも諦め、敗北を認めたような演技をしていたのだ。


(こんなことにすら気づけなかったとは……)


 こんな自分が情けない。相手の魔法ではなく、自分は知恵比べで負け、古典的なやり方にまんまと騙されたのだ。あの時、転生の秘術に気づいていたら、自分の魔力を時の流れに割り込ませて、防ぐことが出来た。しかし、もう転生が成功してしまった後では時の流れに入り込んだとしても意味がない。

 やられた。完全に魔王アグレスにしてやられたのだ。


 勇者の心は『絶望』の二文字が刻まれている。きっと顔や態度にもこの感情が出てしまっていることだろう。この心が捻りちぎられた思いを隠し通す術は勇者の自分でも持っていないのだから。


 しかし、


 アグレスはゆっくりと口を開いた。

 そして、足が震え、今にも全身で地面を叩きつけそうになっている勇者に、ゆっくりと呪いかけるように、こんなことを話し始めたのだ。


 〈それと、──〉


 勇者に投げ掛けたその言葉は、彼を絶望させるのに、余りに十分過ぎた。

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