第23話

 デューイとゆきちがいになったトリッシュは、食堂へ行くまえに2階の角部屋に足を運んだ。


「フューシャ、おれだ」


 返事を期待するだけむだだとわかっていても、いちおう声がけをする。こっそり施設をつユリネルのうしろ姿を最後に見たフューシャは、トリッシュの健康診断を受けず、部屋からでようとしない。しばらく虎嵩が廊下にたたずんでいると、グレリッヒが少年のぶんの食事を用意してきた。


「甘やかしすぎじゃないのか」


 湯気のたつコンソメスープを見、トリッシュは本音を吐露とろした。不都合な現実から目をそむけたところで、問題は解決しない。本人の力で乗り越えることができない場合、周囲に協力を求めるべきであり、耳をかたむけた者は、理解ある態度を示し、断じて、突き放してはならない。トリッシュは、医者としてフューシャの病気を治す義務があり、些細ささいな悩みであっても、真摯に受けとめるべき立場である。事情を相談してもらえないかぎり、動くこともできない。


 グレリッヒは、廊下に食事の盆を置くと、トリッシュに向かって「ちょっときてくれ」という。なにやら重たい空気が流れた……ような気がした。フューシャの顔色だけでも診ておきたかったトリッシュは、ひとまず黙ってうなずき、グレリッヒのあとにつづいた。庭師に案内された場所は、備品室だった。


「なんだよ、こんなところになにかあるのか?」


 トリッシュがぼやくと、グレリッヒは隠しておいた割れた窓ガラスを手に取り、声を低めて説明した。


「見ろ。こいつは食堂の窓ガラスで、いつのまにか割れていた。おれが予備のガラスと付け替えたから、子どもたちは知らないはずだ」


「ふうん? ガラスの破片は、どっち側、、、、に落ちてたンだ」


「食堂の床だ。つまり、庭から割られたことになる」


 部外者が侵入し、フューシャが被害に遭ったとすれば、ただちに調査機関への通報が必要である。だが、グレリッヒはユリネルとの約束を守るため、トリッシュにすべてを話すことはできない。ユリネル自身も負傷していたが、それさえも、伝えることができなかった。命に別状はないとはいえ、薬師の健康が損なわれたことに変わりはない。グレリッヒの表情にかげりをとらえた医者は、小さく肩をすぼめた。


 なにかが起きている。ユリネルの失踪と、フューシャが引きこもる原因には、かならず理由がある。トリッシュは、いったんシェリィにミルクを飲ませに向かい、食堂に顔をだしてデューイの姿を確認したあと、ふたたびフューシャの部屋を目ざした。


「おい、フューシャ」


 グレリッヒが運んだ食事に、手はつけられていない。胸騒ぎがしたトリッシュは、「おどろくなよ」と前置きをしてから片足を持ちあげ、開き戸の板が薄い部分を思いきり蹴りつけた。バキャッという音がして、破片が床に散らばる。扉を破壊して踏みこむと、ベッドに浅く腰をかけた少年は小型のナイフを自身の胸に突き刺さそうとしていた。今、まさに。


「よせ!」


 腕をのばしたが、間に合わない。医者の目のまえで自殺行為など、あまりにも衝撃的な展開である。心臓に突き立てたナイフにより、白いシャツが赤く染まってゆく。人形のように無表情なフューシャは、トリッシュの腕のなかでまぶたを閉じた。


「なんで、わざわざ痛いほうをえらぶんだよ。少しでも楽になりたけりゃ、おれを頼ればいいってのに……。おい、フューシャ、聞こえるか。悪いが、そう簡単には死なせてやらねーぞ」


 トリッシュは外科医でもある。むしろ、心理学より外的な医術のほうが得意だった。冷たくなってゆく少年のからだを抱きあげ、急いで診察室に運ぶと、治療を施した。



✓つづく

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