第20話

「フューシャ」


 虎嵩とらたかは扉の前に立ち、何度も声をかけたが応答がないため、無意識に眉をひそめた。健診の順番がまわってきても姿を見せないフューシャは、薬物療法により回復の見込みがある16歳の少年である。多感な年頃につき、とくに雨のふる夜は注意が必要だが、本日は朝から晴天だ。


「フューシャ、寝坊か?」


 少年が身をおく角部屋は、内側から鍵をかけることができるため、トリッシュは合鍵をもつユリネルに相談すべく、ふたたび1階へもどった。しかし、


「うん? なんでだ」


 ユリネルもまた、持ち場の扉に鍵をかけていた。ふだんの薬師ならば在室中の時刻につき、トリッシュは「おい、いないのか」と、やや語気を強めた。何度か扉を叩いても応答はなく、あきらかにようすがおかしい。フューシャとユリネルの身になにが起きたのか思考をめぐらせていると、食堂からグレリッヒがやってきた。


「健診は終わったのか」

「いや、まだだ。フューシャとユリネルが残っている」

「フューシャなら、部屋にいるだろう。おりてこないのか?」

「ああ。声をかけても返事はないし、扉に鍵をかけている」

「鍵を?」

「ついでに、この調合室へやにも鍵がかかっていて、なかに入れない」


 人差し指で鍵穴を示していうトリッシュは、グレリッヒの眉が片方だけ吊りあがる不自然な反応を見逃さなかった。


「もしかして、ふたりになにかあったのか」


 夜は別棟でくつろぐトリッシュは、侵入者の件を知らずにいた。〈エレメンタリーハーツ〉は子どものための療養施設につき、高価なものは取り扱いがなく、森の奥にひっそりたっている。これといって防犯対策をせずとも、穏やかな時間が流れていたが、ついに物騒な事件が発生した。侵入者により腹部を裂傷したユリネルは、トリッシュを避けるようにして、調合室に閉じこもった。フューシャが部屋から出てこない理由は不明だが、ユリネルの怪我を知るグレリッヒは、自分の顎に手を添えて視線を泳がせた。


「おい、入所者の事情はかくすなよ。治療が必要なら尚更だ」


 医者の表情が険しくなっても庭師は目をあわせようとせず、ひとまず、フューシャの件を先に対処すべく、会話を切りあげて階段をのぼっていく。しかたなくあとを追いかけるトリッシュの背後で、カチャッと調合室の扉がひらき、ユリネルが顔をだした。診療所と別棟には地下室があり、非常通路でつながっていた。地下室は昼間でも暗く、子どもたちは進入禁止の場所となっている。ユリネルは、足音をたてないよう静かに移動すると、非常通路から別棟へ渡り、自分の部屋に身をかくした。


「……トリッシュくん、申しわけありません。わたしのことは、しばらく放っておいてください」


 異変に気がつかれないうちに身仕度をととのえたユリネルは、トリッシュの個室へ向かうと、合鍵をつかって机に書き置きを残し、こっそり町へと外出した。そのころ、フューシャは角部屋の窓辺に立ち、坂道の丘をくだっていく薬師のうしろ姿を目で追っていた。


「あれは、ユリネルさん? あんなに急いで、どこへ行くのかな……」


 検診を受けず部屋に閉じこもるフューシャは、遠ざかる薬師の背中を見つめ、表情を曇らせた。


「ぼくもいつか、あんなふうに外を歩けるだろうか……」


 施設ここをでて、ひとりの人間として社会に貢献する日は、かならずやってくる。フューシャは、トリッシュが最初に旅立ちを祝う少年である。慣れ親しんだ場所を離れる覚悟をきめるのは悩ましく、もどかしいが、いつまでも、現状に甘えているわけにはいかない。〈エレメンタリーハーツ〉は、子どもたちの自立を支援する診療所なのだから──。



✓つづく

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