第14話

 トリッシュの危惧のとおり、灰色に変わる空から、細い糸のような雨が落ちてくると、フューシャの目を曇らせた。


「勉強中だったのか」


 トリッシュは、わざわざかなくてもいいことを口にした。そうして、フューシャの気を引こうとしたが、少年の心は少し乱れてしまう。


「……勉強なんて、こんなのは真似ごとです。あ、どうぞ、先生が椅子におすわりください」


 勉強机を立ちあがり、椅子をすすめてくる。フューシャは、ベッドの端へ腰かけた。それから、おもむろに衣服のボタンきはじめた。決まりごとであるかのように、無表情で裸身はだかになろうとする。少年のおぞましい過去は、だれも口にしてはならない。薬師のユリネルさえ、多くを語らない。しかし、トリッシュの立場は、周囲と異なっている。少年がシャツを脱ぐまえに、「よせ」とことばで制する。


「……でも、雨だから」


「天気は関係ない。きみの問題だ」


「ぼくの問題? いったい、なにをしたと云うのです?」


「逆だ。なにもしなかったから、こうなった」


「では、どうしろと……、あのときのぼくは、人形同然だったのに……」


「きみは人間だ。その証拠に、心の痛みを、みずからのからだに刻みつけている」


 トリッシュはフューシャの手首をつかみ、軽く横にひねった。ナイフで傷つけた痕は、いつまでたっても消えずに残る。あまりにも罪深い人間の欲望は、フューシャを不幸にした。だが、不治の病と決めつけるには早すぎる。事実、少年は法律に興味をもち、勉強をはじめた。不幸な弱者を救済したいという、フューシャの前向きな意志を感じることができた。


「いいか、きみは社会に必要な存在だ。施設ここでは、シェリィにミルクをあたえてくれて助かっているし、ありがたいと思っている。これからも、そうやって少しずつ、だれかと関わっていけばいい。きみにしかできないことは、たくさんある」


「……ぼくが、助けに」


「自信をもて、フューシャ。きみはまだ、いくらでもやりなおせる。……過去を忘れろとは云わない。心が痛むときは、おれたちを頼ってくれ」


「先生は、いつも、そばにいてくれるわけじゃない……」


「それは、きみの心持ち次第だ」


ずるいひとだな。先生こそ、ぼくの気持ちを揺さぶらないでください」


「どういう意味だ?」


「ご自分の頭で考えたらどうです。専門でしょう」


 フューシャにしてはめずらしく、語気が強くなった。少年の理想を絵に描いたようなトリッシュは、憧憬の対象だった。



✓つづく

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