第8話

「温室に? それはかまいませんが、ロザンギーヌのとげには毒性がありますので、けっしてれないよう、注意してください。あと、リリカルフラワーと、フィッシュボーンは、れているわけではなく、葉っぱや根っこを乾燥させている最中ですので、水を差してはいけません。それから……」


「いっそのこと、おまえもいっしょにきたらどうだ」


 フィッシュボーン(魚の骨)ってなんだよと思いつつ、ユリネルのことばをさえぎるトリッシュは、白衣を脱いで椅子の背もたれに掛けた。スーツベストの内側からハンカチを取りだし、ホワイトシャツの袖をまくると、水道の蛇口をひねり、ていねいに指を洗う。温室にはいる前は、両手や靴底を消毒する必要があった。空気中には、目に見ない細菌やウイルスが無数にただよっている。それらの浮遊菌ふゆうきんは人間の健康だけでなく、ときとして、植物にも被害を引き起こす可能性があった。


 トリッシュと同じくフューシャも調合室の水道で念入ねんいりに指を洗い、準備をととのえた。ユリネルの役割は、より安全で効果的な薬品を開発することである。施設の運営と温室の管理と子どもたちの交流とで多忙な日常を送る薬師の研究時間は、深夜におよぶ。


「少し痩せたか?」


 トリッシュは、ユリネルの顔色を気にかけた。もともと筋力のつきにくい体質のようだが、さらに手首が細くなっている。横から顔をのぞき込まれたユリネルは、くすッと笑い、温室の鍵を差しだした。


「ご安心を。わたしなら至って健康です。さあ、これをどうぞ」


「おまえも来いよ。ついでに薬草の話をフューシャに聞かせてほしい」


 トリッシュは、かたわらのフューシャを親指で示す。ユリネルは、申しわけなさそうな表情をした。


「すみませんが、わたしは行けません。このあと来客がありまして……」


「また契約の説明か?」


「ええ、そうです」


 トリッシュが住み込みで働くまえから、新たに2名の入所相談があり、管轄の行政機関に申請書が提出されていた。そのうちの1名が、シェリィである。もうひとりの手続きはなぜか遅れていたが、すでに決定事項につき、空き部屋のそうじは子どもたちが順番におこなっていた。そこへ、さらにもうひとり増えるかもしれない状況である。施設の2階には、大部屋がひとつあり、シングルベッドを4つならべれば、いちどに13人まで受けいれることは可能だ。


「体力と気力に余裕がなければ、断るしかないだろう」


 トリッシュは正論を述べたが、ユリネルは首を横にふる。


「できるかぎりのことはします。これまでもそうしてきたように、きっと、なんとかなります」


「あぶない考え方だな。ぎりぎりの計算ならやめておけ。責任者が倒れたら、うしなうもののほうが多くなる」


 ユリネルは、トリッシュの雇用主でもある。事務的な内容に口をはさむつもりはなかったが、疲れぎみの薬師を危惧きぐして、あえて言及げんきゅうした。理想を語る薬師と、現実を直視するトリッシュは、意見が衝突しやすい。〈エレメンタリーハーツ〉にきてまもないトリッシュだが、少なからず、ユリネルの人間性を理解したうえで、支えるべきだという義務感が芽生めばえていた。


「トリッシュくんって……」


「なんだよ」


「いいえ、なんでもありません」


「待て、最後まで云え」


 来客を理由に立ち去ろうとする薬師の上膊を、トリッシュがつかんだ。ふたりのあいだに不穏な空気が流れると、フューシャは庭師を呼びにいった。ちょうど、玄関ホールに姿を発見し、「グレさん!」と呼びとめる。あわてたようすのフューシャを見たグレリッヒは、痴話げんかを仲裁した。



✓つづく

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