第6話

 スフィーダは、好奇心旺盛な10歳の少年である。トリッシュは、フューシャと食堂でミルクをいれた哺乳瓶をもってシェリィの部屋に向かうと、庭へ遊びにいく途中のスフィーダと鉢合はちあわせた。


「トリッシュと、フューシャ!」


 言語症により〈エレメンタリーハーツ〉の住人となったスフィーダだが、有効な薬物などは明らかになっておらず、治療としては機能訓練をおこなうていどである。むしろ、環境の変化による悪影響が懸念けねんされたが、生活面に問題はなく、自然治癒が認められる一歩手前といった具合だ。現時点で、診療所から家に帰れる日が、いちばん近いと思われる少年だった。ただし、消灯しょうとう時間後にかくれて絵本を読むくせがあり、視力の低下が進み、ふちのないメガネをかけている。


「それ、シェリィのミルク?」


 哺乳瓶をもつフューシャが「うん」と答えた。ならんで立つトリッシュは、バックベルトつきのスーツベストのうえに、ユリネルが新調した白衣を身につけている。革靴かわぐつを日常づかいにしていたが、別棟でくつろぐときは医療用サンダルに履きかえた。スリムな着こなしにこだわり、ふだんの衣服もからだにフィットするものをえらぶ。


「スフィーダも行くか」

「じぶんは庭に行く!」

「そうか」

「じゃあね、ふたりとも」


 スフィーダは、トリッシュと短いやりとりをして、階段をかけおりていく。施設の外には庭師にわしのグレリッヒが仕事を兼ねてうろうろしているため、子どもたちはいつもだれかに見まもられている。〈エレメンタリーハーツ〉には、トリッシュと薬師と庭師のほか、もうひとりおとながいた。


「じきに帰れそうだな」


 少年の背中を見送るトリッシュは、患者の回復をよろこんで云う。しかし、かたわらのフューシャは無反応をしめした。不自然な間合いがしょうじたが、シェリィの泣き声が廊下まで聞こえてくると、フューシャが先に歩きだす。書類によると、生後半年の赤ん坊を施設が引き取ることになった理由は、養育が困難な家庭に産まれたとあった。では、なぜ出産したのかという疑問は禁句きんくである。新たな生命体につみはない。本来ならば、祝福されて誕生すべき存在だ。産科のひとり息子である虎嵩とらたかは、赤ん坊がだれの子であろうと、無事に成長することを願わずにはいられない。


 

 ベビーベッドのなかで両手をバタつかせてミルクをほしがるシェリィを、フューシャがのぞき込む。


「先生、やっぱり、ぼくには無理です」


「なんでだよ。ここまできておくしてどうする。哺乳瓶をよこしな。おれが見ているから、まずは抱きあげてみろ」


 トリッシュにうながされ、フューシャはおそるおそるといった手つきで赤ん坊の頭を両手で少し持ちあげた。


「よし、それでいい。片方の手で首のうしろを支えながら自分の胸もとへ引き寄せるんだ」


 泣いていたシェリィは、フューシャの体温を感じて安心したのか、丸い目でじっと少年の顔を見つめた。トリッシュは、体勢を保ちつつ椅子に腰かけるよう指示をだす。シェリィを横抱きにして哺乳瓶の乳首をふくませるフューシャは、ぎこちない手つきで授乳を開始した。


「赤ちゃんのからだ、やわらかくて緊張する。……先生、ミルクはどれくらいあげていいの?」


「ほしがるぶんだけあたえてかまわない」


 多くの人間は、3歳より前の記憶は思いだせないという。これは脳の発達に関係していたが、こんなときがあったなと想起そうきすることは可能である。たとえ意味のある情報を、忘れてしまったとしても。



✓つづく

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