第3話

 朝食の片付けをすませたあと、食堂の裏口へ呼びだされたトリッシュは、「めずらしいな」とつぶやいた。庭師のグレリッヒは虎嵩とらたかを色めがねで見ている人物のひとりで、当初から馬があわない。物事を判断するうえで、先入観にとらわれてはいけない。だが、わざわざ外部から足を運んでくるグレリッヒはありがたい存在で、仕事ぶりはまじめにつき、ユリネルにとっては頼れる人物だった。トリッシュをこころよく思わない理由は、のちに判明する。


「それで? おれになんの話だ」


 薬師が留守のすきに、けんかを売るつもりじゃなかろうなと、本気で血迷ったトリッシュは、常緑樹の葉が風に揺れる音で、われにかえった。挑発的な態度をあらため、グレリッヒの声に耳をかたむける。


山羊やぎを飼おうと思う。ついでに世話をしてくれるか」


「おれが? なんで?」


 唐突すぎる。いきなり切りだされたトリッシュは、変な顔をした。グレリッヒは門のあたりへ目を向け、森の方角を気にかけている。数十秒ほどだまり込み、意見を述べた。


「山羊のほうが、乳牛にゅうぎゅうより小型で飼育しやすい。運動場の雑草を食べてくれるだろうし、寝るための小屋なら使わなくなった鶏舎がある。……きょう、ユリネルが連れてくる乳児には、ミルクが必要だ」


 たしかに。施設を出入りする関係者は、男ばかりである。母乳による養育が望ましい赤ん坊を引き受けた以上、栄養価の高いミルクの入手経路は必須事項であろう。メスの山羊を飼うことで搾乳さくにゅうが可能となり、チーズやクッキーの材料としても使えるため、台所をしきっているグレリッヒは、ユリネルに相談せず、市場で見かけた手ごろな山羊を、つい買ってしまったと云う。


「その山羊、どこにいるんだ?」


「森のなかだ。連れてくる」


 食器棚に、粉ミルクの缶や哺乳瓶ほにゅうびんが置いてある。それは、あくまで非常用であり、実際に使ったことはない。トリッシュの前から姿を消したグレリッヒは、しばらくすると、ひもでつないだ山羊といっしょにもどってきた。すでに成体のようで、おとなの人間の足取りにあわせ、のんびり歩いてくる。山羊の目は顔の側面についているため、前方だけでなく後方も見渡せるほか、瞳孔どうこうも横長であるのが特徴だ。オス、メスともに角があり、やわらかい毛は高級品とされ、4つの胃をもっている。偶蹄目の草食動物の多くは、反芻はんすうという摂取方法をおこなう。青空の下、のんびりと口をモグモグさせながら緑の草を食べる姿は、思いのほか癒やされる。


「名前は」とたずねるトリッシュに、「ない」と答えるグレリッヒ。「白いから、シロでよくないか」という青年に、「かまわん」とうなずく庭師。こうして、ユリネルが乳児を引き取りに向かう間に、新たな共同体が増えた。頭をなでてやると、気持ちよさそうに「メェェー」と鳴いた。


 山羊は成長が早い動物で、2歳ていどで性成熟し、比較的長く生きることができる。子どもたちのあいだですぐさま人気者となったシロは、たくさんの笑顔に囲まれ、その後、数十年をともに過ごした。


 

 時間軸じかんじくを巻きもどし、乳児を抱いて帰ってきたユリネルは、なぜか今にも泣きそうな顔をしていた。


「どうしよう……どうしよう……」


 と、薬師はうろたえている。玄関ホールを通りかかったトリッシュは「おかえり」といって、そばまで歩み寄った。ユリネルの腕のなかには、生後わずか半年の赤ん坊がいた。これから先、〈エレメンタリーハーツ〉で長い月日を共有すことになる。



✓つづく

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る