第2話

「トリッシュくん、おはようございます。きょうも元気にきましょう!」


 語尾の漢字変換は、誤字ではない(念のため)。洗濯ずみのシャツに着がえようとして半裸になったところへ、いきなりユリネルが顔をだす。寝る前に部屋には鍵をかけたはずだが、薬師は施設と別棟のマスターキーを常に所持しているため、なんの前置きもなしに扉を開けてくる。下着姿のトリッシュは(またか)と思いつつ、ため息を吐いた。


 ふた月ほど前、〈エレメンタリーハーツ〉という入所型の施設(診療所)で働くことがきまったトリッシュは、敷地内にたつ別棟に住み込む、若手の医者である。専門は心療内科だが、ちょっとした外科手術(怪我の手当て)も可能で、すでにその実力を何度も発揮していた。


「おい、ユリネル。ネクタイががってるぞ」


「え、本当? おかしいな、ちゃんとかがみを見てむすんだのに……」


 トリッシュの部屋は家具つきで、浴室とトイレもついている。長いあいだ空き室だったわりに、最近のものと思われる本が書棚に残されていた。ひとり部屋にしてはひろく、ベッドも大きい。かばんひとつで引っ越してきたトリッシュには、じゅうぶんすぎるほど贅沢な空間だった。


「こっちに来いよ。結びなおしてやる」


「お願いします」


「子どもじゃあるまいし、ひとりでネクタイくらい結べねぇのかよ」


 ぶつぶつ文句を云いながら薬師と向かい合うトリッシュは、細い首もとへ視線を落とした。


「あんた、子どもと植物の面倒ばかりに時間をかけすぎなんだよ。自分の健康状態も気にしろよな。あと、痩せすぎだからもっと肉を食え」


 いつもは白衣のたけをあまらせる薬師だが、きょうは朝から細身のスーツを身につけている。ようやく、引き取る許可がおりた子どもを、迎えにいく日であった。しかも、生後わずか半年の乳児である。1歳未満の赤ん坊まで世話することになるとは、トリッシュ的には予想外の出来事だった。いくら訳ありの少年たちを放っておけない性格とはいえ、〈エレメンタリーハーツ〉は保育所ではない。共同生活を送る少年のなかには、高い声が苦手な症状をもつ子もいた。


「トリッシュくんこそ、きたえているようですが、なぜ、そうする必要があるのでしょう。均整のとれたからだつきをしていますよね」


 床に置いてある両端に重りがついた鉄アレイは、トリッシュの持ちものではなく、庭師にわしのグレリッヒからもらった筋トレ器具である。事情を知らないユリネルは、トリッシュの足腰に目をとめ、顔をのぞき込んでくる。……からだの距離が近すぎる。キスでもされるのかと期待したトリッシュは、顔をそむけた。


「鉄アレイは、ただのひまつぶしだよ。ほら、ネクタイできたぜ。さっさと行け。汽車に乗り遅れるぞ」


 かされた薬師は、廊下にでたところでふりかえり、トリッシュに向かって首を伸ばすと、ほおへ軽く口づけた。朝のあいさつと、感謝の気持ちを込めて。勘違いするほどまぬけではないトリッシュは、「帰りが遅くなる場合は連絡しろよ」と云って、ユリネルを送りだした。書類かばんをさげて歩く薬師は、朝食の準備をするため丘をのぼってきたグレリッヒとすれ違い、なにかことばをわすと、ふたたび歩きだした。


 駅舎へ向かうユリネルの背中を見つめるグレリッヒは、かつて、恋人を病気でうしなった経験をもつ男である。薬師とは旧知の仲だが、トリッシュはふたりの関係に(あいまいさが見てとれるため)、違和感を覚えた。


 薬師が留守るすともなれば、助手の役割は責任重大である。身仕度みじたくをすませ、施設の少年たちと食堂で合流する。


「先生、おはようございます」


 食器棚から人数分の皿を用意する人物はフューシャといって、16歳の少年である。去年、社会復帰した18歳のバンジをのぞけば、いちばんの年長者で、着任したばかりのトリッシュを、2階の窓から熱心にながめていた人物である。


「おはよう、よく眠れたか」


「はい、おかげさまで」


 明るい調子で会話をするフューシャだが、言語化げんごかできない葛藤に直面すると、衝動的な自傷行為に走ってしまうため、薬物療法による治療を受けている。とくに、雨のふる夜は注意が必要だった。


「いいにおい。グレさんの味つけは塩かげんが絶妙で、じゃがいものミルクスープは最高においしいよね。先生は、なにがいちばん好き?」


 フライパンで玉ねぎを炒めるグレリッヒは、作業服のうえに白いエプロンを身につけている。台所がせまく見えるほど体格がよい。職柄しょくがらのせいか手先は器用なほうで、料理の腕も磨きあげられている。フューシャにいちばん好きな料理を訊かれたトリッシュは、「なんでもうまい」と答えた。共同生活を送る少年のなかには、食物アレルギーをもつ子どもも存在する。グレリッヒは材料をむだにしないよう工夫しながら朝食を準備すると、トリッシュへ目配せした。



✓つづく

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