第73話 キッショ


「このタイミングで、記憶喪失だなんて……怪しいです。何か、罠の可能性が————」


 福来彩香は聖典を止めたが、聖典にはどんな嘘も通用しない。

 たとえば、この他人の顔を変える異能を持つ彩香に顔を変えられた誰かがその人物になりすましたとしても、覚りは心を読める。

 演技なんて通用しない。

 だからこそ、直接確かめなければならない。

 直接会うことはなくても、せめて、心の声が聞こえる距離の場所へ……


 結局、聖典は顔を念のため顔をこの病院で働く医師の顔に変えてもらい、鳥町が入院している病院へ急いだ。

 年末だが、多くの人間が入院し、多くのスタッフが働いている大病院。

 面会に来ている家族や友人たちを入れると、もっと多くの人間がいる。

 飛び交う雑音をかき分けて、聖典は鳥町璃子の心の声を探す。


《お嬢様……ああ、なんということでしょう。この美田園が近くにいたなら……》

(————見つけた!)


 その中から、美田園の心の声を捉える。

 美田園の心の声が聞こえたのは上の階。

 上りのエスカレーターに乗り、美田園の声がする方へ行くと、鳥町が入院している病室が簡単に割り出せた。


《俺の璃子が、こんな目に……許せない…………ちくしょう!!》


 病室に近づくと、知らない男の心の声が聞こえて来た。


(誰だ……? 俺の璃子……? は?)


「璃子!! 本当に、本当に俺のことを覚えていないのか?」

「ごめん……なさい。わからない……です」

「そんな……!! 俺たち、あんなに愛し合っていたじゃないか!!」


(愛し合っていた!?)


 病室から漏れ聞こえてくる会話と、心の声。

 そのどちらにも矛盾は一つもない。

 恋人が記憶喪失になり、悲しんでいるが、記憶喪失になっている彼女の方は……


《どうしよう。ごめんなさい……何も覚えてないや……この人、だれ?》


 本当に何も覚えていない。

 見知らぬ男が、なんだかとっても悲しそうにしていることに戸惑っている————という状態だった。


(愛し合ってた? は? 何言ってんだこの男、一体誰だ!?)


 聖典は病室のドアをそっと開けて、中を覗く。

 一体どこのどいつだと思ったら、捜査一課の新人・茶木刑事。

 爽やかな笑顔が売りの青年だが、そこまでイケメンというわけでもない。


「来年には、結婚するって……約束したじゃないか!」

「け、結婚!? ご、ごめんなさい……本当に、覚えていなくて————」


《どうしよう。結婚だなんてそんな、私、まだ小学生なのに……あ、でも、本当は二十五歳なんだってばあやが言ってたけど…………わかんない。記憶喪失って、本当なの? なんなのこれ……私の体、どうなってるの?》

《ああ、なんて嘆かわしい。お嬢様、せっかく恋人ができたと喜んでらしたのに……なぜ、こんなことに……》


(はぁぁ!?)


 その場にいた全員の心を聖典は読んだが、状況としてはこうだ。


 鳥町は、非異能者に襲撃され、頭を強打。

 この病院に搬送され、命に別状はなかったものの、目を覚ました時には記憶を失っていた。

 鳥町の中では、今日は平成十九年の二月。

 実際はもう十五年以上も経っていることが悲しくてたまらない。


 茶木と美田園によれば、茶木と鳥町は密かに付き合っており、先日嬉しそうにプロポーズされたと美田園は報告を受けていた。

 それが、非異能者による襲撃により、こんな状態に。

 一体どうしたらいいのかわからない……そんな状況だった。


 それともう一人。

 見舞いに駆けつけた女————


「リコピン! それじゃぁ、とものことも覚えてないのぉ?」

「ごめんなさい……誰、ですか? お姉さん」


 鳥町の親友。

 ともちんこと進野知世だ。

 彼女のことも、鳥町は覚えていない。


(本当に……記憶が…………璃子ちゃん)


 そこに嘘偽りがないとわかり、聖典は男子トイレに入る。

 洗面台の鏡の前に立ち、福来彩香に電話をした。


「彩香、今すぐ僕の顔を元に戻して」

『え……? どうされたのですか?』

「璃子ちゃんが記憶喪失なのは、本当のことだったよ。それもね、僕と出会った後の璃子ちゃんなんだ」

『はい? どういうことですか?』

「いいから、今すぐこっちに来て。加賀かがの異能で、移動できるだろ?」

『……かしこまりました』


 平成十九年の二月なら、聖典はすでに鳥町璃子と出会っている。

 当時から全く顔の変わっていない美田園と、見知らぬ男である茶木と知世がそばにいるより、自分が、自分こそがそばにいるべきだと聖典は思った。

 鏡さえあればどこでも自由に移動できる異能を持つ部下の加賀美羽みうによって、鏡の中から現れた福来が手をかざすと、聖典の顔は一瞬で元通りに。


「————璃子ちゃん!!」


 聖典は病室へ戻ると、鳥町の手を握っていた茶木を押しのけて、鳥町の手を握る。


「だ、だれ……?」

「僕だよ、聖典だ。御船聖典」

「せい……てん?」

「かわいそうに、記憶をなくしてしまったんだって? 僕が来たから、もう大丈夫だからね!」

「聖典!? 聖典なの!?」


《聖典だ! この顔、大人になってるけど、聖典だ! それじゃぁ、私、本当に……》


「そうだよ」


《それじゃぁ、ここにいる人、みんなの心の声がわかるよね!? 本当かどうかわからないの、教えて聖典!! この人たちの言っていることは、本当のことなの?》


 記憶のない鳥町は、突然あわられた恋人の茶木と親友だという知世の話が信じられなかった。

 しかし、聖典なら本当のことがわかると安心する。

 鳥町にとって、平成十九年二月の時点で、聖典は唯一の秘密を共有した友達だった。


《よかった。聖典がいるなら、大丈夫……!》


 安心して泣き出した鳥町を、聖典は抱きしめる。


「大丈夫だよ、璃子ちゃん。君は僕が守るからね」

「たすけて聖典、私、何も覚えていなくて……怖くて……」


 鳥町も聖典に抱きつく。

 だが、次の瞬間だった。


 ————パンッ!


 風船が破裂するような大きな音が、鳥町のベッドの下から聞こえた。


「え……?」


(なんだ……? 今の音————)


 何が起きたかわからず、鳥町を抱きしめたまま、視線だけ風船の割れる音がしたベッドの下に向けると、割れたオレンジ色の風船と画鋲を手に持った、木場聖莉がよっこりと顔を出す。


「————ああ、本当に良かった。来てくれてありがとう、聖典」


 泣いていた鳥町の声色が変わる。

 それまで、本当にあの頃の、小学二年生の当時のままのような声を出していたはずが、明らかに変わった。


「あーしのことがそんなに好きなの? キッショ」


(しまった————!!)


 気づいた時にはもう遅い。

 光すらない、真っ暗な空間。

 右も左も、天地さえわからない、黒の中にいる。

 何もない。

 空っぽの、真っ黒な空間。

 どこまで歩いても、果てしなく続く黒一色の異次元空間。


 聖典は鳥町の異次元の中に、しまわれた————




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