大人になることについて

ゆず

第1話

 私は3歳のときに福岡から越してきた。それから今でも東京のマンションに住んでいる。私が保育園に通い始めてから、大内さんとは遊ぶようになった。

 大内さんはマンションの二つ隣の家に住んでいた。その頃確か50半ばの人だった。身長はやや低く、いつも度の強い丸眼鏡をかけていた。大内さんはその旦那と大学を卒業したばかりだった娘さんと暮らしていた。本当は越してきた最初の頃に挨拶に行っていたらしいのだけれど、私の記憶があるのは保育園に通い、兄に連れられて一緒に大内さんの家で遊ぶようになったところからである。

 大内家では決まってカードゲームをしていた。そして顔ぶれも定まっていて、私・兄・大内さんの娘さん・大内さんの4人である。私は負けたくなかった。だけれどいつも負けるのは私だった。それを知ったのはずっとあとになってからだったが、兄はずるをしていたらしい。大内さんは負けた私に大粒なのを探ってチョコボールをくれた。これもお決まりだった。兄の方は見ないようにしていたが、どんな顔をしていたのだろうか。今となってはそれも分からない。私はチョコボールを口に含んだ。そういうときのチョコレートは、いやにカカオのきつい苦味がするのである。するとなぜだかその苦味によって負けたというのを噛み締めているようで涙がぽろぽろ落ちてくるのである。大内さんはそんな私を見ながら優しく微笑していた。

 私はいまでもチョコレートを食べることには少し躊躇ってしまう。なんだか自分が負けたような気がする。しかし、それでも私はチョコレートが嫌いではない。そして嫌いになってはならないと思う。チョコレートを見ると、大内さんの優しい顔がちらつく。

 大内さんは月に一度ほど、晩御飯を振る舞ってくれた。それも大内さんの家でご飯を食べる日は、私が必ず大内さんの家で泣いた日だった。大内さんの得意料理は春巻きだった。私が拗ねて机に座っている。隣には大内さんの娘が座り、机の対角線の私の一番遠ざかったところに兄は座っていた。私は出来るだけ不機嫌そうに兄をにらみつけ、また兄もそうしていた。娘はそれを面白そうに眺めていた。しかしそうであっても、豪快な湯気の立つ春巻きの前では、私も素直にならずにはいられなかった。私はその湯気を独占できるように一杯に吸い込んだ。兄も目を輝かせた。そうしていつの間にか私と兄は大内さんに見送られ、他愛もないおしゃべりをしながらマンションの階段を登るのである。


 私が年長になったとき、大内さんに孫が生まれた。これは大内さんにとっても、私にとっても大きな転換だった。いつもの変わりなく家に遊びに行っても、大内さんは孫が泣きわめく度、私のところから離れていった。私はそれが悔しく、そして不愉快でならなかった。

 大内さんが赤ん坊の脇腹をくすぐる。赤ん坊がきゃっきゃと身を捩る。私はその赤ん坊のどうしようもない可愛らしさが憎かった。

 ある時、私はたまたま赤ん坊と二人になることがあった。和室の座卓で赤ん坊は車の玩具を転がしていた。遊ぶのに夢中で、私など眼中にないようだった。その時、私はふと椅子から立ち上がって、赤ん坊の方へ近づいていった。そして赤ん坊の側まで来た。赤ん坊はやっと私に気づいたように顔を上げた。私は非常に純粋だった。私はその玩具を取り上げた。赤ん坊が瞬く間に表情を歪ませた。そうならなければならない気がした。

 私は急に我に返った。そして血の気が引くような感覚に襲われた。私は思わず車を赤ん坊の方へ放ったが、するする赤ん坊の手を抜けて、畳の上を転がった。私は泣く赤ん坊を前に呆然としていた。

 すぐに大内さんが入ってきて、赤ん坊を抱き寄せた。大内さんは私など見ている余裕はないようだった。やがて赤ん坊は泣きやみ、健やかな寝息を立て始めた。

 それから私は段々と大内さんの家に行かなくなった。兄はときたま行っていたが、私はとても行く気にはなれなかった。その頃は兄も言わなかったが、大内さんは私のことを心配してくれていたそうだった。

 

 私が中学二年になった時、大内さんは急逝した。癌だった。人はあまりに愕然とすることが起こると、そのあまりの衝撃に、知ったときにはただ呆然としてしまうらしい。けれどもすぐ後になって、ふとした瞬間に抱えきれない感情が堰を切ったように溢れてくるのだ。私にとってそのふとした瞬間が、大内さんの遺影を拝んだ瞬間だった。

 葬式に参列し、大内さんの微笑んだ遺影を見た時、私はやっとすべての自分の罪を自覚した。それからすぐ、耐え難い悔しさと、言い表しようもない寂しさが湧いてきた。

 皆、勘違いをしている。大人になるということについて。体が大きくなり、規定の年齢に達すれば大人になると思っている。しかし大人になるということはそんなに簡単なことではないだろうと、最近思うようになった。私も大人でない。大人は生きる中での苦味をより多く感じてきた人のことだと、切実に思う。


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大人になることについて ゆず @yunokimasanosuke

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