6



 入社して二ヶ月、茶封筒は送られ続けた。

 有推の親は、まだこの家に有推がいると思っているということだった。それは有推は実家にはいないということで、どこにいるのか伝えてないってことだ。退学を知らず、まだ大学生活を送ってると思ってるのか、そんなこと、あり得るんだろうか。

 あちらは住所を知っているのだ。

 親なら心配してこの家に来るもんじゃないんだろうか、そうすれば俺も有推がどうなったのか知ることができるのに。

 有推のチャンネルは出て行ってから1ヶ月ほどで消えたので、生きてるかどうかも俺には分からなかった。





 毎日スーツを着て、電車に乗った。

 毎日乗っていると、電車を早いとも思わなくなった。 

 吊り革に掴まって揺られている中、ホームに高校生や中学生を目にすると、何故か有推を思い出した。

 会社では、社会の基本的なことを教えられた。

 社会で価値が保証されているものを吸収して、仕事終わりには脳は疲れ切っていたが、家にいれば有推のことを考えた。今何をしているのだろう、飯は食べてるのか、一人で生活していける資金は得られているのか、どの問いにも俺の頭は悲観的な妄想しか生まなかった。静寂が気になるようになり、寝ている時もテレビをつけるようになった。有推の動画を何度も見たいと思ったが、消えていたから見ることはできなかった。部屋にも、リビングにも、ソファにも、ベランダにも、トイレにも、有推がいないことに慣れなかった。有推の残したパソコンや漫画を捨てるなんて、考えたこともなかった。

 同僚も、先輩も、誰も疑問にも思っていないように、定められた仕事を定められた基準に達するために、毎日働いているようだった。

 時間は平坦にも、何事もなかったように確実に過ぎていく。

 休憩室で昼食を食べながら、テレビを見ている時だった。

 

『隕石の衝突は回避できないとの見解を示しています』

 

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 休憩室にいるみんなの談笑は続き、キャスターの隕石落下を告げる声が続き、あまりにテレビがそればかり言うものだから、仕方なく興味をテレビに移した従業員達の声は次第に小さくなっていった。そして、けたたましいサイレンが外に響いた。地面を蹴破るような、とにかく聞こえない人がいないように、としか考えられていないような、バカみたいな音量だった。

 世界は滅亡するらしい。

 俺はカレンダーの日付を見た、7月の下旬だと確認し、テレビに視線を戻す。

 キャスターは憔悴した顔で、半年前から隕石の存在は確認できており、その際に軌道の目算を誤った可能性を伝えていた。

『早ければ核ミサイルによって軌道を逸らすなどの対策がとれたものの、現段階では間に合わないと専門家の意見は一致しています。先ほど、情報規制が解かれ』

 無責任じゃないか、と誰かがつぶやいたのを皮切りに、ぽつりぽつりと声がした。

「いやいや」「え?まじ?」「嘘でしょ、馬鹿馬鹿しい」「外!外見て!」「は?なに?」

 誰かがカーテンを開け、窓から空が見えた。

 外の光景に、誰かが笑った。想像力のない神様が仕組んだのか、真っ赤な空はフィクションでありふれた世界の終わりだった。

 世界の滅亡が、目の前に突如として現れた。

 パニック映画みたいに混沌とするかと思えば、会社の中の大抵の人間はボーとその場から動かなかった。何人かは外を見て、急に思いついたように鞄を持って立ち上がった。どうにかなるか、という正常性バイアスか、逃げないと、という危機管理意識か。どっちにしたって、すでに昼休みは過ぎているが、仕事なんかしてる場合じゃないという結論は共通しているようだった。

 俺は椅子にしばらく座った。

 状況の整理、なんてやっても意味がないと思った。もうすぐ世界は終わるらしい、赤い空を見れば、目と鼻の先にある死だと認識するに十分だった。1999年の7月に、世界が滅亡することを信じて全財産を使い込んだ人がいると聞いたことがあるが、気持ちが分かった。この空が頭上にあるなら、世界が終わるなら破滅したって同じことだと思えた。

 だから俺の頭は冷静で、やっぱり有推の顔が浮かんだ。

 謝ろうかな、と思った。

 心残りというやつだろうか。

 滅亡の予言が本当だったこと、よりも。家に放置してある一万円札の束のことだ。

 あの茶封筒に込められていたのは愛情なんかじゃなかった、情なんかじゃなくて、無機質で、心の通っていない何かだった。

 それが愛情のような顔をして来ていたから、有推は怒っていたのだ。

 俺はスマホで有推の電話の画面を開いた。

 押しても、出ない。電話が繋がらない事はわかってた。無言のコール音が切れ、ツー、ツー、と無機質な電子音がした。もう何度かけても繋がらない。俺はあいつにとってなんでもないから、関係性に名前が無いから。あいつが、たとえどっかでくたばってても知らせなんか来ない。

 もしかして、有推は形を与えて欲しかったのか、と思った。

 好きって言われて、好きって返したけど、それじゃあ安心できなかったんだろうか。俺は有推に試されていたんだろうか。

  

 俺ってなんなの?

 

 お前のなんなの?

 

 知らねーよ、お前って俺のなんなんだよ。

 

 そういえば、父親が母親のことを役立たずだって罵ったこともあったっけ、母親の方が有推より家事もできてパートにも行ってるのに、父親もひどいことを言うもんだ。俺は有推をそんな、血の通っていないカテゴライズなんかしない、心の通っていない振り分けなんか絶対にしない。俺にとって有推はもっとよく分からない、真綿みたいな曖昧で優しい何かだ。

 会社を出ると、街は阿鼻叫喚で、飛んだり、座り込んだり、職場よりも混乱して、伝染して、道路の真ん中で分かりやすいパニックを起こしていた。日常ではお目にかかれない白い衣装を着た人たちがずらりと一列に並び、役割を失った赤信号の横断歩道を渡っている。

 俺は無感情に彼らを横切り、電車が止まっていたため徒歩で家に戻った。

 アパートは静かなもので、何の音もしなかった。一万円札の束をかきむしって出て、コンクリートと、舗装されてない土の道を歩いた、Googleマップを見て、人工衛星がまだ生きていることに感謝した。

 がむしゃらに歩いてると、痛みが刺激になるのか無駄に頭が回転した。有推と過ごした時間が走馬灯みたいに駆け回って、時間にして1時間もなかったと思うが、ずいぶん長く感じた。

 茂みを抜けて、草木をわけた。

 虫が頬について、振り払うことも忘れ、前に、前に進んだ、たどり着けるかも分からない場所に向かってひたすらに動いた。案外すぐに、俺の探していたものは予感してた通りにそこにあった。

 山の森の中。

 有推は木から垂れたロープで首を吊っていた。

 真っ白な頭で、第一発見者になってしまった、と思った。

 ああ、でもさあ有推。

 今、見つかっても世界はそれどころじゃねえよ。

 通報したところで誰も来てくれないだろう、みんな、見知らぬ他人にかける関心よりも自分と、自分の大切な人に心を寄せているだろう。

 手の中のお金が滑り落ちていく。

 価値を失った紙切れは地面に吸い込まれていった。

 首が変な方向に曲がって、どう見ても死んでたけど、予想よりも綺麗だった。最近吊ったのだろう、俺には有推だと判断できたし、手首にはダメ押しのようにあのミサンガがついていた。地面におろそうと手を伸ばしたが一人の力じゃ無理だった。伸びた首、ちぎれた肉の隙間に虫が蠢いているのを見て飛び退くと、有推は地面から20cmほど浮いた地点でギシ、と揺れた。

 足元には黄色、赤、白の花が咲き、有推だけがグロテスクに景色から浮いていた。

 また遠くでサイレンが鳴った。

 頭上から、土石流みたいな音を立てて終わりが近づいてくる。土と草にまみれた地面にしゃがみ込み、人形になった彼を見上げた。

 有推に欲しかった言葉をもらったように、俺は有推に欲しそうな言葉をやった。言葉には責任がついてくることも知らない軽率な言葉は、染み込んでいく遅効性の毒みたいに有推を縛った。

 どっちが悪いとかいう話じゃない、相性の問題だ、有推に俺は合わない、お互いの存在がどうしようもない現状を肯定してしまうような、共依存関係にしか発展しない。

 有推はその歪な関係を何とか理解できる形にしようとしたが、正直に言えば、俺はクズだからそのままでも良いと思ってた。つまるところ、俺と有推に差があるとしたらそれだ。俺は有推という綺麗な人間の取り扱いを間違えた、有推は耐えられなくて、死んでしまった。

 俺はここで有推と死ねる。

 何度も口にした名前を呼んだ。

 嫌だとは思わなかった。

 ずっと願ってた、みんな、俺と一緒に死んでくれよって。

 俺はずっと、もういつからか分からないくらい、昔から病んでたから。

 有推より恵まれて生きてきたはずなのに、客観的にそう自己認識もできるのに、なぜこんなに死にたいのか分からなかった。ただ、1人でいると心の底から叫び出しそうになった。有推のいない家の壁を叩いて、名前を叫びたかった。

 俺を置いていくなよ。

 空っぽの人生に耐えられないんだ、誰かがそばにいないと。

 お前もそうなんだろ、有推。





 光が走った。

 閃光のように、瞬く間。

 ばくばくばく

 心臓の音がうるさい。暑苦しくて、虫の鳴く音がする。肌が、絹のような質感に包まれている。天国ってこんな感じなんだろうか、でも、心臓の音?

「っ!」

 目を開けて、映り込んできた天井を見て、起き上がった。

 ベットに腰掛けて、足、手を見る、弾け飛んだはずの体を触る。体のどこにも痛みを感じないが、手に伝わる服の感触はリアルだ。真っ赤な空、目を焼く強烈な熱、記憶ははっきりと思い出せるのに、その事実が綺麗に無くなっている。おかしくなったのか、頭に手を当て、考えを巡らせる。

 長い夢だったのか?

 俺は地球滅亡を、ベットの上で夢を見ていたのか?

 いや、そう仮定しても状況に当てはまらない、部屋だ、部屋がおかしい。有推の家じゃない。

 俺は立ち上がり、落ち着きなくグルグルと部屋を回る。

 クローゼット、勉強机、全てに馴染みがある、俺はここがどこか知っている。今、俺がいるということがおかしい場所だ。壁に貼られたカレンダーの数字が目に入る。瞬時に、あまりの非現実的な答えを出した脳に「おいおい」と、思わず声が出る。

 シナプスが弾け、声が思い起こされた。



『時の原理、時間は不可逆であると言うことが、人間が縛られている絶対的なルールであり、私たちが幸せに、あるいは平等に生きていくことが不可能であることの障害なのです』

 

『救世主だけはこのルールを外れ、私たちを次のステージ、新しい世界に連れて行ってくださいます』

 

 

「タイムリープ…」

 神様、俺でいいのかよ。

 振り返った勉強机の上にはノートがある、駆け寄り、めくって広げた。

 白い紙には幾つもの数字。暗号解読に苦労した跡がある。

 2015年7月。

 俺は高校生になっていた。

 

 



 自転車で坂を走る。ペンキで塗ったような青い空が広がり、眩しさに目を細めた。実家に自転車があったことをすっかり忘れていたが、体は感覚を覚えている。ペダルを踏む反動が全くない、うわ、確実に若返ってる。

 俺は自転車を漕いだ。

 今、この世界で、俺が一番速いかもしれない、と思うくらい。漕いだ。

 汗が体表面から湧き出してくる健康的な感覚に、忘れかけていた思いも新鮮に思い出せる。

 有推がいなくなって、一つ意外なことがあった。

 頭に浮かぶ有推の顔は笑顔じゃなくて、テレビを見る寂しそうな顔なんだ。

 まるで世界に拒絶された子供のような顔を思い出すたび、俺は無性に悲しくなった。

 なんでそうなったかなんて、誰も聞いてくれない、でも、俺は聞けたんだよな。

(聞いてやればよかった)

 俺は有推に、感情を吐き出されても対処できないと思って、怖くて踏み込めなかった。

 俺は人の感情が怖い。

 だから最初は、有推のことも怖かった。いつ爆発するかわからない時限爆弾と一緒に過ごすのは、神経をすり減らした。

 一万円を見えないように回収するのも、真冬に何時間も経ち続けたのも、ストーカーをブロックしたのも、スマホを覗いたのも、守ってるつもりで、感情を避けられるように動いてた。全部、自分のためだった。

 『タケ!』

 優しい声は思い出せるのに、なんでそんなに悲しい顔をするんだよ。

 『偶然は運命』であると名前も知らない女は言った、何一つ真実を持ち得なかった女の言葉の、それだけは信じられる。

 聞いたことはなかった、ただ、vtuerが活動休止をした時期と有推に出会ったタイミングは重なる。でも聞かなかった、あいつは聞かれたら病んじゃうと思ったから、俺だって、そばに気が弱い奴がいたら気も使うんだ。会ったら発声方法も変わってて世にいうイケボの声だったわけで、しばらくは気づかなくたっておかしくないだろ。

 全速力で漕ぐ、汗も、息も止まらない。

 予感というより、信頼に近い。神なんてこれっぽっちも信じたこともないが、今なら信じてもいい。俺がこの日、この時間に戻されたのは意味がある。世界を救うとか救世主だとか、そんな大仰なものは置いて、俺だけができる、やらなきゃいけないことがこの先にある。使命感。責任感。いろんな言葉が浮かんで消えるが、どれも違って、そんな複雑なものじゃなくて。

 ただ、会いたかった。

 ずっとずっと会いたかった。

 声が聞きたかった。

 車通りの少ない車道を進み、自転車から降りる。はずみで自転車が林道に激しく倒れたが、息を肺に吸い込み、歩いた。

 こんな車道から見えやすい場所で、1人。首を吊ろうとする男がいる。

 俺は知ってる。

 ここで助けなくても、有推は助かる。

 木の枝は折れるかどうかして、有推は死ねなかった。

 そして2年後、大学で俺に会うんだ。

 木の下の台に立ち、1人、細い腕を紐に伸ばす黒髪の後ろ姿に目を背けたくなる。目の前の光景は有推の傷だ。今にも刃物で自身を傷つけようとする場面を、誰が見続けることができるんだ。

 いつかの有推は言った『神様が生きろって言えば生きなきゃいけないし、死ねって言えば死ななきゃいけない、神様が決めてるんだから、それ以上の理由はいらないし、全部単純に納得できるよ』誰も助けてくれないって、この時有推は悟ったんだ。

 自分がちっぽけで、誰からも興味を持たれてないって受け入れるには十分だったんだろう。

 バタフライエフェクト。

 この言葉は不思議な希望を感じさせる。だが蝶の羽ばたきは小さすぎて、トルネードを発生させる影響を与えることはないらしい、調べて初めて知った時、俺は落胆した。

 一体、俺の行動が世界にどんな影響を与えられるのか。

 考えるより先に体は動き出していた。

「有推!」

 顎を輪っかに引っ掛け、爪先立ちになる男の名前を呼んだ。

「は?」と細い声があがる。

「馬鹿野郎!何してんだよ!」

 服を掴んで、足をのせている土台から引っ張る、よろけた有推が慌てて裸足で立とうとして転び、地面に落ちた。黒髪の前髪に縁取られた、憔悴したような顔が俺を見上げる。

 その顔に苛立ちが芽生えた。かなりムカついて、土台にしていた木箱を蹴り上げる。反動で振った足の分体が倒れ、疲労した片足は支えることができずによろけ、草の生い茂る地面に倒れる。尻に響く痛みに舌打ちをして、右手で地面の草をむしり、有推に投げつけた。

 有推は目を閉じて緩慢に腕で覆ったが、防ぎきれず頬に草をつけて俺を見た。目をパチクリとさせる顔に溜飲が下がった。

「ざまあみろ」

 俺を置いて行った罰だ。

 俺を残して死にやがって。

 あと5年、俺が体験した5年なんてあっという間だった、好きなこととかしたいこととか、自分でやりたいと思ってたことも知らななかったようなことを、片っ端からやろうとしても、足りなくて無意味に死ぬ。そんなに短い生なんだから、生き生きと過ごせばよかったのに。

 変な女にネットストーカーされて、心が壊れる前に、傷つけてくる言葉なんか無視すればよかったのに。全て受け入れて消化しようとしたからああなった。求められる理想と現実の違いに打ちのめされて、ボロボロになった。

 だから、今なら、今の段階ならまだ。

 

「…なんで、俺の名前、知ってるんだ」

 

 声に考えを裂かれ、前を向くと有推の幼い頬が引き攣った。

 疑惑の色に濁り、暗い髪色から覗く暗い目が、俺に対して心を閉ざしていると分かる。

「だ、誰だよ、お前」

「……」

 俺は、有推から向けられる知らない人間を見る目に傷ついたから黙ったんじゃない。

 有推の正常な反応を、久しぶりに目の当たりにした気がしていた。

 普通に考えて、汗まみれで走ってきて、知り合いでもないのに名前を呼ぶ俺は、初対面の有推にとっておかしい奴だろう。

 正常さ、普通さを、有推は有している、と、そんなことを今更ながら実感した。

 普通のことだ、それが本来の反応なのだ、一人の人間として生きてきたなら見知らぬ他者から向けられる一方的で独善的な感情に対して、自分を守るために拒絶してしかるべきだ。

 大学一年の頃の明るい有推の持っていた正常さ、俺と一緒に家にいる時の有推の普通さ。

 有推はおかしかったが、それと同時に俺と同じただのありふれた人間だった。なのに、俺は社会で受け止められ、有推は社会から目を背けた、その違いとは何なのか。

 俺は”過剰適応”という精神学での用語があることを思い出していた。

 承認欲求を抱えた人間が、外部から求められたことに対して過剰に適応しようとして自分の心と乖離するというものだ。有推は女へのトラウマのため、過剰に応えようとした結果ああなったんじゃないか。

 反応を見る限り、男の俺がストーカーだった場合そうはならない。

 普通に怖がり、拒絶し、否定することができる。

 そこにあるのは男か、女かの違いだけ。

 有推は彼女の無意味な言葉の羅列に、答えがあるんじゃないかと思ったのかもしれない。

 なぜ自分が愛されないのか。…バカな行為だ。誰もが誰かの特別になれるわけじゃなくて、その理不尽に理由なんかないと俺は知ってる。でも有推は納得できなくて答えを求めた、理由を求めた。

(……どうしようもないよな、有推)

 息を吐くと、有推の肩は大袈裟に動いた。

 なんでこうなったかなんて、気にしなくてもいいと言ってやればよかった。変えられない過去よりも未来が大事なんだって、言ってやればよかった。俺にはお前が必要だって、抱きしめて言ってやればよかった。

 難しく考えすぎなくたって、舞台の上の有推は間違いなく本物だった。スポットライトに照らされてキラキラと光り輝いた金色にみんな見惚れていた、俺だって、どんな些細な脇役でも、舞台の上に必ずお前を見つけ出せたんだ。

「………」

 有推にできることはなんだ、と風が囁いた気がした。

「ああ、俺はお前を知ってるぜ」

「なに…」

 気付いたのはいつだっただろうか、イメージする人間に寄せようと冷静に繕おうとしたが、声は荒くなっていく。

「お前両親が離婚して、本当の母親は一切連絡をよこして来なくて、再婚した母親に脅されて、逆レイプされてたんだろ。そりゃ、吐きたくもなるよな!

 そのくせ、毎月一万円なんか送ってきやがって、あれ謝罪でも、愛情でもないぜ。口止め料だよ!気持ち悪りぃ!」

「…なに、言ってんだ?」

 高校生なのに酒飲みながら泣きながら言ってたのはお前だ。有推は出会う前から、俺の知らないところで汚されていた。自分勝手な人間の欲望を満たすためだけの道具にされて、自尊心を踏み躙られた。過去に戻ったところで、それはどうしようもないことだ。

 俺の気配が変わったことに気づいたのか、今にも逃げ出しそうに後退する有推に言い放つ。

「俺さぁ、お前のファンなんだよ」

「っ」

 顔を見せるために一歩踏み出し近寄ると、有推は怯えたように身をすくめた。それは意識しないと分からないくらいだったけど、怖がらせていると思うと胸が痛くなる。

「お前の声が悪いから発生練習をしたらいいって送ったのも俺だ。なんか、ムシャクシャしててさ、お前、リスナーに囲われて慰めてもらって、調子乗ってるみたいだったから、ちょうどいいから送ったんだよ。傷ついたか?残念だったな、ネカマと女の区別もつかないならネット向いてないぜ?」

「…なん、だよ、お前」

 有推は身の危険を感じ始めたのか、立ち上がった、顕になった白く細い手首にミサンガはない。

 整った顔が苦しそうに歪み、怯えがだんだん苛立ちに変わっていくのが分かる。

「ふ、ふざけんな!す、ストーカーかよ、頭おかしいんじゃねえの!?」

「ああ」

 そうだ、俺はお前のストーカーだ。

 とち狂ったストーカーがずっとお前を見てたんだぞ。

 有推は地面に無造作に転がった靴の中に足を入れた。慌てていて危なっかしかったが数秒で履き終わり、二、三歩後退して、警戒したように身を固くする。

「怖いのか?気持ち悪い?俺はお前のことが好きなのに、気持ち悪い母親にやったみたいに、応えてくれないのかよ」

「は、はぁ?…お前、…誰なんだよ」

 よく知る声よりも、鼻にかかっていて聞き取りづらい声が森に響く。

「誰だっていいだろ、なあ、何が違うんだよ、俺と女で」

「…なに」

「なんも変わらないだろ、俺だってお前を傷つけることができる。お前の不幸にも理由はなくて、ただ運が悪かっただけ、いい人間もいれば、悪い人間もいるって話なだけ、…お前さ、マジで運ないよ、俺みたいなクズに見つかってさ、お前の人生ってマジで、なんだったんだろうな」

 言いながら、今まで見た有推の顔が頭に浮かんだ。

 笑ってたり、怒ってたり、泣いてたり、忙しいやつだった。

 有推の顔を見たから、世界から取り残されたような悲しい表情だけじゃなくて、万華鏡みたいに目まぐるしい、たくさんの表情を思い出せるようになった。足りなかったパズルのピースがかっちりとハマったみたいに、その事実が俺の心を満たしてくれる。

 目の前の現実の有推は、俺の言葉に困惑しているようだ。

 そりゃそうだ、と思う。

 俺が頭の中で、勝手にこねくり回した計算式だ。

 ネットストーカーの彼女の今までと、これからの言葉を、男である俺の言葉に置き換える、この行為がどれだけ効果的に意味を持つかは分からない。単純明快な引き算のように、綺麗に毒を抜くことができるとは思っていない。人間の心は俺が思っているよりも複雑で、手に負えないものだと分かってる。

 俺は意味のある何かのために動いていないのかもしれない。

 湧き上がってくる感情に従って、シンプルに。

 誰かが有推の心を汚しているのが、ただ許せなかった。

「……俺はいい人間だ。お前をネットで見つけて、運命を感じて、お前が好きになったんだよ、俺のいうとおりにすれば、もっと愛されると思うよ。お前は、愛してくれるなら誰でもいいんだろ?」

 軽く笑うと、黒髪の隙間に明確な嫌悪を浮かべた。

 有推は下を向いたまま足を踏み出した、小さな歩幅で一歩ずつ、けれどしっかりとした足取りで俺に近づいてきて。

 パン、と頬を叩かれた。

「……」

「誰でもいいわけ、ないだろ」

 顕になった意思のこもった瞳に、嬉しくなる。

「おんなじだ、お前らは」

 睨みつける綺麗な目と目が合い、吸い込まれそうだと思う。

「…分かってんじゃん」

「っ何様なんだよ!!俺はお前らの、憂さ晴らしの道具じゃない!」

 切り裂くような声、期待以上の反応に、俺は呼吸を整えた。

「俺も、この近くに住んでるんだよ」

 有推はクシャ、と顔を顰めた。

 謝ろうかと思ったが、これ以上は余計だと思い口をつぐんだ。

 有推は地面を蹴って去って行く。

 余韻を残さず、足音は消えていく。

 草むらに一人残され、じわじわと現実の感触が襲って来る。じんじんと、地面を蹴りすぎて響く足から、思いっきり叩かれた頬から、生きてる痛みを伝えてくる。

 どこにでも行ってしまえ。

 『タケ!』

 ふわりと風に舞うような、柔らかい声がした気がした。

 タバコを吸おうとして、ポケットにないことに気づいた。どうしようもなく今この地点が現在であり、未来には戻れないと思い知る。

 俺は手足を広げ、草むらに寝転がった。

 すぐそばの車道を通る車にギョッとされるかもしれないと思ったが、空の突き抜ける青さに目を奪われ、どうでも良くなった。

 …本当に終わるのか、世界。

 これからのことを考える。あの地獄のような就活をまたしないといけないと思うとダルい。俺の行動が世界を5年後からも続くように変えた可能性があるから、やらないわけにもいかないっていうのが世知辛い、ああその前に大学受験があるのか、今が高二だから、まだセンター試験までちょっとある。

 別のところを受けてもいいかもしれない。

 隕石の衝突を回避する要因になれるくらいに、頑張ってみてもいいかもしれない。

 寝転んで見た世界は綺麗に見えて、滅びるには惜しい気がする。

 

 有推が生きている未来のことを考えた。

 ポピーの上をヒラヒラ舞う黄色い蝶を見ていると、不思議と、全てがうまくいく気がした。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

デトックスラブ @derara12124

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ