5



「本当に俺がやっていいのか?」

「うん、後ろ髪はどうしてもできないんだよね」

 ベランダから見える緑の木々はいつの間にか茶色くなり、時折、ノイズのように葉が流れた。

「思い切り、バッサリいってよ」

「やったことない俺にやらすかよ」

 朝、リビングでエントリーシートを眺めていると部屋から出てきた有推に髪を切ってよ、と頼まれた。手には準備よくハサミと手鏡が握られており「コメントで髪の毛がうざいって言われるんだ」と言ってきた。美容院に行けばいいだろ、なんて無遠慮な文句を言えるわけもなく、俺は有推の手からハサミを受け取った。

 ポストに容赦なく詰め込まれる、一度も目を通したことのないチラシを10枚くらい床に敷いて、テーブルの椅子を上に乗せるのは俺がやった。

 椅子に座った無防備な背中。

 首元を覆えるくらいに伸びた髪の毛を刃で恐る恐る挟み、力を入れるとパラパラと紙に当たる音がした。美容師でもなし、当然人の髪に刃物を通すことなんか初めてだった俺は刃先が震え、後ろ髪の先端5cmほどを切り揃えたあたりでハサミを閉じた。

「無理、これ以上、こええ」

「別に男の髪なんだし、変になっても構わないよ」

 そう言って、振り返って有推が見上げてきた。ハサミを閉じていたから良かったものの、あらわになったうなじに刃が当たりそうになり「危ないだろ」と上擦った声で怒った。

 反省する素振りもなく、有推は前を向いた。後ろであたふたする同い年を揶揄うように笑う声が聞こえた。

「ちげえよ、傷つけそうで怖えんだよ」

「優しいなあ、タケは」

 ハリのない声は、誰が見ても健康的でないように映っただろう。

「後ろ髪はこれでいいからさ、ついでに前髪もやってよ」

 自分でできるだろ、と思ったが、俺は黙って正面に回った。

 中腰になり、つむじから前髪を纏め掴み、束ねた髪の切る位置を人差し指で測る。指が当たってくすぐったそうにまつ毛を揺らす有推に「目閉じて、動くなよ」と念押ししてから、切った。


 はらり。


 伏せた長いまつ毛に降りかかる金色が、スローモーションに見えた。





 俺があの会館に行ったのは、理由を探すためだったんじゃないか、なんて思うことがある。

 客観的に止めるべきだと確信できる理由、元の道に戻すべきだと説得できる理由を見つけるために乗り込み、いざ、と当たって、大人の言葉に砕かれ、帰ってきた。

 有推にとってどちらが希望なのか、俺は自信を得ることができなかった。

 

 

 

 

 就活ピークの5月からの遅れを取り戻すように、7月から就職活動を始めた。

 就活と並行して、大学ではゼミで卒論の準備をした。3年からは猛烈に忙しくなるから2年までに単位は詰め込んだ方がいいと、大学院の兄がいる友達が言っていたからそのようにしていたが、まさしく正解だった。毎週1限にゼミがあり出席が義務づけられていたのだが、前日は準備に追われた。

 ゼミでは、全員が同じ本を読み本の内容について話し合うディスカッションもあった。「有野さんはなにか質問はない?」グループで席を囲み意見を交わしていると早口の教授が捲し立てるように言い、名指しされた有野も虚をつかれたようだった。

「いえ、…特には」

 グループディスカッションでは、有野は序盤は乗っていた。自身の意見を堂々と表現して、合わない感想には自身の意見と共にNOを突きつけた。俺は有野の気質を嫌というほど知っていたが、他の人たちは対処に困ったようだった。意見同士を昇華させていくアウフベーヘンは合わないのだろうか。徐々に有野は人の意見の影に隠れてやり過ごすようになった。

「有野、最近おとなしいじゃん」

「本読むの嫌いなのよ。もー、からかわないで」

 場をしきることの多いゼミの中心的な男と有野が話している光景をよく見た。背の高いそいつと有野の身長差はかなりあり、易々と頭を撫でられても満更ではなさそうな有野と目が合えばそらされた。20人ほどのゼミの中で特定の人物から避けられると言う状況は予想以上に支障があったが、佐藤もいたし、歩み寄る気もなかった。その日分のレポートを書き、提出する際、ゼミの教授に声をかけられた。

「君さぁ、今まで何やってたの?」

 就活セミナーの扉を開けると、しわがれた声が聞こえてきた。

「普通さ、3年のこの時期にもなったら」

「…すみません」

 病院の診察室のように椅子に座って向き合っていた二人が、俺の声に会話をやめた。一人はいかつい顔をした初老の先生で、一人はどこかで見たことがある、茶髪の女生徒だった。タイミングが悪かったか、と頭を下げると、先生は女生徒に「とりあえず受けてみて」と紙の束を渡し、すれ違いに出ていった。どこで見たのだったか、微かな記憶を探る前に先生に呼ばれたので、俺は空いた椅子に座った。

 ゼミの教授に相談するように言われたので来てみたが、じろりと怪訝そうに顔を見られるのはいい気持ちはしない。

 社会に出て働きたいという明確な意欲もない、世間に、親にアピールするための義務的な就活であれば無理もないことだったが、はっきり言って俺の就活は上手くいってなかった。就活の現状を話すうちに、値踏みするような目は剣呑さを和らげていった。

「そう、片っ端から受ければ良いってわけでもないから、難しいよねぇ。せっかく教職とか、他にも資格持ってるんだし、やりたいこととかないの?」

「自分が何に向いてるか、分からないんですよね」

「武くん、みんなそんなもんだよ。100%自分にあった職探しってのは難しいさ。企業も、学生側が他に何社も受けてるってのは分かってるんだ、面接では熱意、みたいなものを求められてると思ったほうがいいかもね」

「はぁ」

 猛烈に帰りたくなったが、腕を組んで真剣に考えてくれてるようだったので「頑張ります」と頭を下げた。

 こんなところにいれば色んな生徒を目にしてきているだろう。先生の中で俺はまだ、救いようがある生徒なんだろう、と感じた。

 シワシワの手が書類がたくさん積み上げられた机の上の紙を束ね、黒い縁メガネを目の上に持ち上げた。老眼なんだろう、眉間に力を入れて紙と睨めっこをして、そのうち一枚を俺に渡した。ふぅ、と息をつき、横の机に置かれた湯呑みを飲む先生から受け取った紙には、新卒募集の文字と、この辺りの中小企業がリストアップされていた。

「とりあえず受けてみて、この会社さん達は去年もうちから採ってくれたから」

「ありがとうございます…すみません」

「君はまだいいよ」

 先生は疲れを滲ませた顔で湯呑みを机に置いた。

「知ってる?先月一人退学したんだよ、その子留年してたらしいんだけどねぇ」

 

 

 

 

 有推の中退について、俺は関わっていない。

 正確な月日は思い出せないが、秋の空模様になってきた矢先のことだったと思う。午後の講義が終わり、就活について頭を悩ませる前にリフレッシュでリビングでテレビを見ていたら玄関が開いた。有推がいないことには気づいていたがまた例の会館に参加していたのだと考えて何も聞かずにいた俺に、死にそうな顔で「やめてきた」と一言告げた。有推は固まった俺の返事を聞く間も無く、ばたばたとトイレに駆け込んで吐いた。俺は唖然としたまま立ち上がり、開いたままの玄関を閉める時に、パラパラという小雨の音を聞いた。

「ぅ、え」

 口に突っ込まれた有推の右手の指には吐き蛸と呼ばれるタコができていた。苦しさによる生理的なものか、目に涙を浮かべる有推の歪に曲がった背中を摩りながら、俺は男だから有推の近くにいれるんだな、と思った。

 有推は、配信外の時間は部屋にいるよりリビングにいるのが長くなって、そのうち、リビングのソファで丸まって寝るようになった。

 吐き終わってから静かになって、小さくなって。丸まる有推は胎児のようにも、猫のようにも見えた。

 俺は有推の限りなく黒に近い髪を撫でた。

 風呂から上がると、リビングのテレビから男の凛々しい声が聞こえてきた。寝たのなら部屋のベットに運ばないとなと考えていたが有推は起きあがってソファに座り、テレビをじっと見ていた。

 大学に行った帰りにDVDをレンタルしてきたと言った(有推に頼まれ、俺が返却した)有推が配信機材を実家から持ってきた時に一緒に家に持ってきたDVDレコーダーを使用し、俺も知ってる劇の脚本がプロによって映画化された映像が流れていた。俺はテーブルに座り酒を飲みながら、横目で有推の横顔を見た。

 『これが俺の人生だ!』

 聞いたのは二回目だったが、嫌なセリフだと改めて思った。

「タケって、意外と表情にでるよね」

 有推は幾分か血の気が戻った顔をこちらに向け「嫌な映画だった?」と軽く聞いてきた。

 俺は、有推は演劇サークルにいた時を思い出してに自虐的な気分になってるんじゃないかと思っていたのだが、そういった感傷はないみたいだった。わざわざ自分を傷つけるために映画を借りる人間もいないか、と思い「バッドエンドは気分が下がるだろ」と言うと「バッドエンドなのかな?これ」と疲れたのか白い腕を前に伸ばした。

「こんなんなら実家に戻らないだろ、俺なら逃げる」

「ええ、タケ、逃げるかなぁ」

「なんだよ」

「タケは優しいから、逃げないよ」

 に、とチャシャ猫みたいに笑う有推に、俺は酒の缶を持って近づいた。

「俺はこうはならねえよ」

「えー、タケはあんなやつだよ?」

 有推は俺もソファに座れるように身を動かしてくれたが、言い分を譲る気はなさそうだった。

「ちげえよ」

「そうだよ」

「ちげえ」

「そう」

 しつこさに折れて、腕を伸ばしクシャ、ときめ細やかな前髪を乱暴に撫でた。「ふふ」と溢れるような笑い声がして、有推は細い指で乱れた髪をそっと戻した。俺は隣に座り、横にある小さなテーブルに缶を置いた。

「俺はあんなの嫌だぜ、頑張った意味がないだろ」

 リビングには映画のエンドロールが流れていた。がむしゃらに家のために働いていた青年を見て思った感想に、有推は視線を静かに前に移した。

「タケはさ、もう未来は確定してるって思ったことないの?」

 すぐに返答しない俺に、有推は「ノストラダムスの話はしないよ、タケ、そういうの嫌いみたいだし」と力ない声で言ってくれた。

「…俺は、運命論は好きじゃねーな」

 答えとして合っているか分からなかったが「そう、だからかなぁ」と、有推は納得したようだった。

 ソファまで来たのはエンドロールが仄暗く、気分の下がる音楽だったため止めたいと思ったからだった。リモコンを取り、真っ黒なエンドロールを止め、ニュース番組に切り替えた。

 流れる映像は映画の内容よりもつまらなかったが、部屋の静かさを埋める音としてなら許せた。

 有推と暮らし始めてから、俺は実家で慣れきっていたと思っていた静寂がやけに気になるようになった。有推のいない時間帯になると、気になってもいないのにYouTubeで馬鹿みたいなチャンネルのどうでもいい動画を音量を上げて視聴するという、落ち着かない気分を紛らわすための雑音を耳に取り込むのが癖になった。

「運命論って楽だよ?世界で起こること全部、神様が決めてるって思える」

「…楽か?それ」

 公共放送に切り替わったテレビからは、キャスターが異国の暴動を伝えていた。少子化問題が騒がれ、一週間前に通った法案が都合が悪くなり否決された。

 忙しなく移り変わる現実の物事を目に映す有推の横顔は、テレビで見るどんな綺麗な芸能人の顔よりも透明だと思った。

「あの人もさ、そういうもんだって受け入れたんだよ。頑張ったり、抗ったりしても疲れるじゃん?

 神様が生きろって言えば生きなきゃいけないし、死ねって言えば死ななきゃいけない、神様が決めてるんだから、それ以上の理由はいらないし、全部単純に納得できるよ」

 淡々とした有推の言葉のBGMに、世界のニュースが流れていた。

 二つの音を聴きながら俺は、まるでニュースで流れている映像が俺たちとはなんの関係もない世界で起きているような、不思議な錯覚を覚えた。

 時速60kmの電車に乗る乗客が、自身も同じ速度で動いているのに窓枠の景色を速いと思うように。家で有推と過ごしている間は、外の世界よりもゆっくり時が流れていると感じた。もうすぐ消え去ると思っていたほのかな万能感を、その感覚は辛うじて有していた。

 大学を辞めた有推の細い体は、俺には重荷を取り払ったように見えた。

 俺たちの背後に常に付き纏ってくる世間の目から逃げ切ったようで、俺はそれを羨ましくもあったし、有推に対して抱いていた反逆者への尊さのようなものを、一層強く感じた。

 俺は有推に、自分にないものを見ていたのだと思う。

「有推は違うだろ」

 俺は有推に反論した。有推の言っていることは難しくもなく理解はできたが、有推が”諦めている人間”だと解釈もできる、言葉の裏に隠れた自虐的なニュアンスに対して、訂正をしたつもりだった。

「お前はすげぇよ、みんなが諦めてることに抗ってる」

「なにそれ、みんなが諦めてることって何?」

「大人になったら就職して社会人になるってレールから、なんていうか、特別な人間として外れること」

 有推は「ああ」と呟いた。

「タケも諦めてるの?」

「俺は」

 違うと思った。俺はそこまで行ってない、圧倒的な才能への嫉妬もなければ、特別な人間になりたいとも思ったこともない。最初から世界にとって自分はこんなものなんだって受け入れてた。乾いた空っぽな人間だと、何かになろうとする有推のそばにいると思わされた。

「有推は、すげえよ」

 言葉にするのが難しく、俺はもう一度同じ言葉を吐いた。 

「なんか、タケはなんか勘違いしてるよ」

 この頃にしてはめずらしく感情が乗った声に横を向くと、血色のない薄い唇が煩わしそうに動いた。

「多分違う、みんなは社会に適応したんだよ」

 黒髪がゆっくりと下に流れた。俯き、髪の間から覗く口元が薄く笑ったのが見えた。

 俺は、あ、と思った。

 よく有推は、瞬きする間に、パッと切り替わるようにこうなった。

「あの人たちは俺と考え方が似てるんだよ。俺は、全部運命だって考えたほうが楽なんだ、ダメになった環境に適応するよりも、ダメになったらリセットして、やり直すほうが楽なんだ」

 有推はおもむろに、ソファの肘掛けに顔を埋めてうずくまった。

「俺だって、こんなふうになりたくなんかなかったよ。明るくて、楽しくて、みんなから求められる人間に、なりたかったよ」

「…落ち着けって」

 俺は絞り出すように言葉を紡ぐ有推の、丸まった背中に手を伸ばし。

「そうやって、いつも、押さえつけようとするなよ」

 覇気のない声だったのに、弾かれたように手を引っ込めた。

 有推は俺の手を空な目で見つめた。

 お互いに何も声に出さず、しばらくして有推はすくりとソファから立ち上がり、扉を開けて部屋に入った。

 閉められた扉から微かに聞こえてくる声は、テレビの音にかき消されず耳に届いた。

「なんで、なんで、なんで」

 ボスン、ボスン、布団や枕が有推の感情を受け止める音がしていた。茶封筒を目にしなくても、配信でうまくいかなかったのか理由は知らないが有推はたまに感情を抑えられなくなった時にこうなった。対処には慣れていたが、癇癪を起こした子供の泣き声みたいな悲痛な声は胸をざわつかせた。

「飯、出来たぞ」

 扉を開けると、掛け布団があちこちに捲れ、パソコンの機器こそ壊れていなかったが強盗でも入ったかのような有様だった。乱れたベットの横にいた有推は、床にへたり込んで俺を見あげた。真っ赤になった目が痛々しいのに、まだ右手で目を擦ろうとするから、細い腕を掴んで顔から離した。

「違うんだ」と掠れた声で有推は言った。

「俺は、忘れられたくないんだ、忘れられたら、俺っていう存在も一緒に死ぬ気がして、怖いんだよ、なのに…」

「…そっか」

 俺は、なんで有推があの映画を借りたくなったのか、少し分かった気がした。

 晩飯を部屋の中に置いて、リビングのテーブルで履歴書をまとめていると、深夜に扉の方からガタ、と音がした。

 ノックしても返事がなかったので中を覗くと有推が机に突っ伏していた。血の気が引いて駆け寄ると、小さく寝息が聞こえてきた。こういうのを寝落ちというらしい。息を吐いたその後に、パソコンの画面を見て配信中だと気づき焦ったが、コメントではおやすみと流れ、映像も音声も切れていると分かった。

 画面に表示されている視聴人数は、12人だった。

『アルカロイド』の配信は一度も見たことはなかったが、登録はしていたのでチャンネル登録者数が減っているのには気づいていた。こんなに弱り切った有推を見たいと思う人が、この時間に、まだこんなにいたのだ。

 一時期の俺と同じなんだろうか。

 弱った人間を見て癒されるもの。

 突っ伏した有推の背中は、寝ているはずなのに押し潰されそうに力が入り縮こまっていた。

 あんなにキラキラしていた有推がいなくなったのに、現実は変わらなかったことに苛立ちを覚える資格は俺にない。

 俺も、以前と何も変わらなかったからだ。

 変わらずに、レールに乗り続けていた。

 有推はあんなに弱り切っていたのに、一緒にいると安心した、だからずっと同居してた。

 不意におじさんの顔が脳裏をチラついた、あの全てを見通すような笑みで『君は他と何が違うと言うんだ』と俺を蔑む妄想が、自己嫌悪を湧き立たせた。

 この頃の俺は就活で荒んでいた。社会という感情のないでかい壁に押しつぶされて、あるがままを見せろと要求され疲弊していた。本当の自分にたいそうなものはないのに求められることにストレスを感じ、死にたいという気持ちが強くなった。

 


 トントン



 トントン



 変に記憶力がいい俺の脳は、何回も聞いたから音は覚えていた。指で机を叩いてもどうせ音は聞こえない。分かってもただの山が表示される、意味のない暗号。

 こんな気持ちだったんだろうか。

 パソコンをシャットダウンして、背中に布団をかけた。


 

 

 

 

 もう何件目かわからないお祈りメールが来た。先生が言うには、面接が下手なのかもね。もっと自分をアピールしないと。何か好きなこととか、得意なこととかないの。

 言われるたび、自分なんかない、と思った。

 グツグツとマグマみたいに、俺の中に何かが蓄積していった。

 

 

 


 卒論の最終調節のためのゼミの終わり、廊下を歩いているとロビーから見える広場には賑やかに話をしている集団を見た。

 群がるように集まる人たちを目でなぞっても光る金色はない。

 何が面白いのか時折湧き立つように笑い声がする。しばらく見ていると広場の草むらで猫が走っている様子を見て笑っているのだと分かった。

 猫は飛び回る黄色い蝶を追いかけていた。

 円を描くように旋回し、しなやかな体躯が広場を伸びやかに駆け回っていた。動きから、おそらく若い猫だ。猫が口の届くギリギリまで追い詰めたと思った瞬間、蝶は逃げる角度を変えた。

 捕まえられるわけもない高さまで飛んでいき、上がる落胆の声に機敏に反応したのか猫は踵を返して逃げていった。

「あ、武!こんなとこで何してんの?」

 猫と蝶の一部始終を見終わり、通り過ぎようとすると横から声をかけられた。

 一瞥して無視すると、意地になったように追いかけてきた。

「ねぇ、話し合わせて」

「…」

 有野は「用がないなら見てこないでよ」とまで言ってきたにもかかわらず腕に絡みついてきた。はっきり言って口も聞きたくなかったが、有野が走ってきた先には茶髪の女性がいて、顔を下げられたので止まってしまった。

 女性の手首にはミサンガがついていた。

 鮮やかなミサンガの色が、俺の意識をその場に留めさせた。

「あの子、知り合いか?」

 有野に引きずられるようにある程度歩き、後ろを確認して立ち止まった。

「なに?顔見知り?」

「いや…」

 歯切れの悪い俺に、有野は女性の方向を見た後に腕を組んだ。

「あの子、地味だけど優秀な子だったから友達になったんだけど、いきなり変になっちゃって、噂では、変な宗教にハマってるみたいなのよ。就活がうまくいかなくて現実逃避してるのね」

 ほとんど推定で物事を語る有野の言葉に、彼女がカウンセリングにいたのは就活より前の話だ、と思った。あの時はすれ違いざまに頭を伏せていたから彼女の顔をしっかり把握していなかった。手首についた鮮やかなミサンガはおじさんと、あの会館の人達がつけていた物と同じもので、俺は彼女が誰であるのか思い当たることができた。

「……」

 カウンセリングは口実で、渡していた名刺にはあの場所が書かれていたのだと想像がついた。

 有野は付き合っていた頃より濃くなった化粧で、赤い口紅を引いた口を尖らせていた。

 自分の預かり知らないところで一人の人間がどうなろうと、危害さえなければどうでもいい、というような態度だった。裏返せば、危害があるなら不快ということだ。単純で分かりやすかったが、俺は所在なさげに立つ小さくなった彼女を見ていると、どうしたって有推を思い出した。

「何かあったか、話聞いたのか?」

 つい声に力がこもり、有野は眉を上げた。

「あたしが?なんで?」

「友達なんだろ」

「やめてよ、洗脳済みって感じよ。怖いから避けてるの」

 返ってきたのは無責任な言葉だった。一度は付き合った仲だ、そう言う奴だと理解していたが冷静さよりも苛立ちが優った。

「…あっそ」

「ちょ、話くらいしようよ、最近どうなの?」

 受かったところで上がったらしい有野は、就活の進捗について上から目線で聞いてきた。廊下の壁に背をつけあからさまに退路を塞がれたため、俺はそれに付き合うしかなかった。

「てか有推くんさあ、どうすんのよ」

 どうせその話を聞くために引き留めたのだと思っていたが、俺は「どうって?」と素っ気なく返した。

「大学中退したじゃない」

「知らない」というと「なに、冷たくない?」と責めるように言われた。

 有推が大学を中退したという噂は、演劇サークルの連中には知れ渡っていた。

 有推が中退してから、もう何度聞かれたかわからない質問だった。

 全然面識のない後輩にまで話しかけられたこともあるくらいだ。

 辺鄙な片田舎の大学演劇サークルの中で、有推は何者かになるかもしれないという輝きを持って、共有されていたのだ。

 だったらもっと早く有推の才能を煽てて、あいつの自信になるように接っしてくれればよかったのに。見限って離脱した有推が悪いのであって、サークルのせいではないことは分かっているのに、俺はそう思わずにはいられなかった。

「あんたって、そう言うところあるよ」

 甘ったるい刺々しい声が、釘を刺すようにそう言った。

「なにが」

「優しそうに接するくせに、人に興味がないところ。他人なんてどうでもいいんでしょ」

 知った風な口調だった。言い返さない俺にため息をついて、有野は再び口を開いた。

「あのね、有推くん、病んでるんじゃないかってみんな言ってるのよ。突然大学に来なくなったし、サークルだって、普通、やめる前に顔出したり、やめても誘われたら会うくらいするじゃない。わたしも、他の人だってライン無視されて連絡つかないって心配してる」

「考えすぎだろ。単に人間関係が嫌になっただけじゃないか」

「そうなの?でも普通さ、何もなかったらそんな風にはならないじゃない、学校も辞めなくない?」

「普通って、なにが?そう考える有野が異常なんじゃないか」

 有野は変な顔をした。

 久しぶりに会った友達が別人になり変わってたような反応だった。

「あんた達ってやっぱり、変」

「そんなことねえだろ」

「みんな言ってるわよ、ねえ、おかしいって」

 

 みんな みんな みんな

 

 普通 普通 普通

 

 気持ち悪い。

 なんなんだ、こいつら。

 抑えきれない嫌悪感が湧き上がってくる。

 なんで自分が当たり前に普通側にいると思えるのか、問いただしてみたかった。

 なんで平然と人の人生に口出ししてこれるんだ。

 俺は有推に何も言ってやれないのに、なんで遠くのお前らはベタベタと干渉してくるんだ。

 社会で認められる普通を振り翳して、今の有推を否定するんだ、自分に他者に口出しする権利があると考えられるんだ。

 社会にはさまざまな基準があって、有推は誰かが敷いた基準に弾かれたのだと薄々思っていたことを、こいつらは、人生の勝ち負けとか、才能の有る無しだとか、手垢のついた幼稚な優劣でパッキリと線引きして、柔らかな有推の心に爪を立てるのだと思った。それを俺は、ある種の横暴だと感じ、握った拳に力が入った。

「もう帰っていいか」

「何怒ってんの?心配してるだけじゃん!」

 俺の態度をどう受け取ったのか、有野は耳障りな声で、腕を掴んできた。

 遠くに数人いる男女が話し声を止め、穏やかだった空気がピンと張ったのを感じた。

「武、あんた勝手すぎ。そんなんじゃゼミで浮くよ」

「…」

 俺にとって笑えるほど馬鹿馬鹿しいことだったが、有野はゼミ内で規律を正す役割をあの背の高い男と中心になってやっていた。飲み会の開催や提出物のチェックなど、常に男の後ろに位置して意欲的に取り組んでいた。

 責任感なのか知らないが、それらに対し非積極的な俺を見る有野の目は非難の色が強かった。

「有野は俺にどうして欲しいんだよ」

「どうって、昔みたいにすればいいだけじゃん!なんなの?!」

「あいつに仲良くしろって言われただけだろ」

「っ」

「どっちが勝手なんだよ」

 俺の言葉に有野はめづらしく狼狽えた、言うべき言葉を探すように、大きな目を左右に動かした。

 数秒を待っているだけでも我慢ならないほど長く感じて、腕に伝わる温い柔らかな肌の感触にも癪に触った。

「わたしは、ただ。ね、ねえ、まだ一緒に住んでんの?」

「そうだよ」

 有野は抜け道を見つけたように、空気を正すように。

 冗談めかして赤い口を歪めた。

「もしかして、ホモ?」

 俺は、頭が沸騰したかと思った。

「都合がいいんだよ、お前らは!」

 振り払って怒鳴ると、有野は傷ついた顔をした。

 俺は、清々した、ずっと前から、有推を取り巻くやつらには怒鳴ってやりたかった。

 有推の代わりに。

 午後の講義を放り出して、振り返らずに大学を出た。家に帰って、小さくソファに座る有推に「言ってやった」と言ったら、有推は驚いた顔をした。

 昔からイラついてた、と言った。

 社会の仕組みに迎合したくせに、子供に可能性を求めて来る大人。

 誰でもよかったくせに、まともな顔して非難してきた女。

 どいつもこいつも、他人に理想を押し付けて、それが当然だと思い込んでる。

 だれが有推をこんなふうにしたんだ?

 それは、他人に興味を持ってもらうことでしか自分を肯定できない有推自身の弱さだし、人間一人の生を蔑ろにする周りの人間の身勝手さからだ。

 言い終わると、少しカサついた薄い唇が「好きだ」と力なく動いた。

「…え?」

 夕暮れが部屋を包む、オレンジ色に包まれる有推は映画のワンシーンのように綺麗だった。

「好きだ」

 もう一度確かめるように言われて、俺は何を言えばいいか分からなかった。

「…俺の、どこが?」

「何にも、興味がなさそうなところ、かな」

 酷い話だ、そう思うだろ。

 有推に対して恋愛感情を抱いたことはないと思っていた、あくまでルームシェアしている同居人に情をかけるのは当たり前なのだと思っていたし、俺の激昂もその延長だと思っていた。

 有推はやっぱり世間とずれている。

 俺の話を聞いて、好きと言って、理由がそれじゃあ誰だって本気だとは思わないだろう。告白されたのに、俺は有野に言われた言葉を思い出して嫌な気持ちになった。

 有推は以前の見る影もなかった。

 金髪の部分を切ってしまって、染め直しもしないからつむじから黒1色になっていた。

 有推は人に期待をされることを恐れているみたいだった。

 メッキが剥がれるように本当の自分を見せて、人が離れていって律儀に傷ついていた。

 

 

 

 

 面接の朝、鏡の前に立って、死人みたいだと思った。

 

 

 

 

 就活が終わった、どうにかつつがなく内定が決まり、印刷機器の営業に就いた。

 卒論も終え、卒業まであと一ヶ月を切った頃、入社前の研修があった。スーツを着てやる気なくホームで電車を待っていると、スマホが震えた。

 ディスプレイには『研修頑張れよー』の文字。佐藤だ。教員試験に見事合格し、教育実習でお世話になった小学校に内定した佐藤は人生に余裕があるようで、まめにラインをくれるようになった。

 あまり考えずに返事をして、ラインを何気なくさかのぼると、彼女見せろよって言ったら送ってくれた画像が出てきた。

 車と海を背景に二人で写っている、幸せの象徴のような画像だ。

 普通の幸せを、俺たちは手に入れることができるんだろうか、と考えた。

 少なくとも今のままじゃ無理だろう。正常な判断のできる方の脳でそう考えて、それでもいいかと甘く囁く脳に従って生きていた。現実逃避をして逃げていたバチは、正当に当たった。

 研修を終わると駅の外は大雨だった。行き交う人々は色とりどりの傘を差し、何人かホームに足止めを食っていた。天気予報をみる習慣のなかった俺は、高くつくがコンビニで買うか迷っていた時、電話が鳴った。

「なに?」

『いつ帰ってくる?』

 有推からの電話だった。

「わかんね、雨やばくてさ、聞こえるだろ?駅から出られん」

『傘は?』

「忘れた」

『迎え行こうか?』

「いいよ、どうせすぐやむだろ」

 言って、あ、来て貰えば良かった、と思った。普通の用事で、家の外に出るチャンスだったのに。

 また言い直すのもどうかと思い、黙って。あっちも黙った。

 ザアアア、俺たちの間の静寂を埋めるように雨音がして、隙間を縫うように『なあ』と言われた。

『好きなんだけど』

 有推の声は、雨音に消されず染み込んできた。

「俺も好きだよ」

『へへ』

 有推は、媚びる子供みたいに笑うようになった。

 俺はこの日、将来のことを初めて考えた。

 これから有推が家にずっといたら、どうなるのだろう、と。終末思想にやられてなければ配信者として人気が出たかもしれないのに、登録者はどんどん減っていく。それを一番肌に感じてるのは有推だろうに、有推は止まることはなく、俺も止めることはない。俺はそれでも根拠もなく、有推と一緒に暮らしていくのだろうな、なんて思っていた。

 時が流れるように、桜の花びらが舞う。

 入社式を終えた。

 気が引けるような快晴だった。

 想像していたものと少し違ったのは、高校、大学とまとわりつくようだった周りの大人から期待の目が、会社の入社式にはなかったことだ。

 俺はもう、何者かになると期待されることはない。

 気が楽だと思ったが、これはこれで味気なかった。

 家に帰ると、有推がスーツについた柔らかなサクラの花びらを指でつまんで取ってくれた。有推はそれをゴミ箱に捨て、テレビを見て夕飯ができるまで大人しくしていた。俺はスーツから部屋着に着替えて、スパゲッティと簡単なサラダの皿をテーブルに並べた、テーブルに座り、有推が何もつけていない白い手を行儀良く合わせたその後に「そんな目で見るなよ」と言われた。

「なに?」

 俺の間抜けな声を背に、有推は扉を開け、出て行った。

 それからなんの連絡もない。

 あっけない終わりだった。

 有推はいなくなった。

 フードをかぶって、宗教団体でよろしくやっていたりして。ストレスが高じて記憶喪失にでもなって、誰かに拾われてたりして。

 どんな妄想も漠然とした不安を振り払うことはなかった。

 配信のお金はピッタリ止まったが、本人がいないのに茶封筒は来続けた。

 連絡しようにも連絡先が載っていないし、住所も知らないので送り返せずに、一万円札は貯まっていった。

 俺はいつでも返せるように金をまとめて、札束を人質に有推を待った。

 


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