4



 彼女の言葉は有推の心に棘のように刺さっている。それが彼女の目論見だったとしたら、大成功している。





 大学3年に上がり、周りが続々と就活を始める時期になった。

 有推は部屋を出て、植物みたいにベランダで日の光を浴びるようになった。

 大学に向かう俺を呼び止め、ベランダから手を振って送り出してくれる有推は、天に召されそうな儚さがあった。外に出ないのかと聞いたら、女がいるところは無理だと言った。

 つまり、有推は大学に行けなくなった。

 口座には引き続き、有推の配信の収益が送り込まれてきていた。

 有推が何かを削って得ていた金が俺の元に入ってくるのは健全じゃない気がしたが、有推に言っても「どうせ家の金じゃん、家賃は折半だろ」と返ってくるだけだった。生活費には困らなかったが、過剰ではあった。有推なりの謝罪のつもりだったんだと思う。額が段々と少なくなっていることには、嫌でも気づいた。

 就活が始まる時期は教育実習の時期でもあった。

 地元の小学校に行って、授業をする。俺に何を教えられることがあるのかと冷ややかに考えていたが、指導案を毎日練るために絶えず頭を動かして、斜に構える余裕はなかった。がむしゃらに考えて、動いて、子供に自分を示す日々。

「嫌な雰囲気になってきたよな」と佐藤が言った。

「んー…」

 教育実習先の職員室のテレビでは遠い海外で暴動が起きていた。少し前には不景気で、男性キャスターが戦争が始まるんじゃないかと煽っていた。

「給食って意外と美味いもんだよな、昔はまずいと思ってたけど」

「昔は家でいいもの食べてたからだろ?今は自炊でいいもの食べてない」

「言えてる、ほぼコンビニ飯だぜ」

 テレビは流行りのスイーツを特集し始めた。構成を考えてるやつって何を考えてるのか、ニュースの落差にも何も思うことはない。

「こう言うのってブームに乗っかって粗悪品が出回るから嫌な印象になるんだろうな、ほら、タピオカとかもさ、俺あれ流行る前から好きだったのに、流行ってからミーハー扱いされて嫌な思いしたぜ」

 俺は相槌のように軽く笑った。

「佐藤は余裕そうに見えるな」

「んなわけねえよ」

 人生なんてほとんど運で出来ているようなものだが、教育実習の当たり外れは激しい。学校も、担当クラスも、指導につく担当もガチャだ。6年生の子どもは冷めていて反応が悪く、自分の指導方法が間違っているのかと不安になった。佐藤は2年生を任されており、子供は可愛いと俺の前で言い切ってみせた。

 遊びに来てるワケじゃないから当然だが、教育実習はほとんど仕事と変わりなかった。

 自分が子供の頃と、今見る小学校は違うものに見えた。指導の先生に給食指導をしっかりやってください、と言われた時はなんだそれ、とびっくりした。当番のご飯の配分が均等かどうか、仕事の役割分担が偏っていないか、などを見るらしい。給食当番っていうのは社会に出る前に、仕事の責任感を養う意味もあったんだなと思った。俺たちが本当の意味で自由でいられたのは、保育園が最後なのかもしれない。

 教科指導よりは給食の時間は休息になった。教育実習生として学校を見ると、構成する生徒の分類が分かる。クラスヒエラルキー上位のいかにも一軍に話しかけると、くすくす、と媚びるような笑顔を向けられた。俺が教師に向いてないっていう話だが、世渡りの上手そうな彼女たちを見て一度だって可愛いと思わなかった。

「先生は教師になるために来たのー?」

「なんでなりたいって思ったのー?」

 授業への反応に比べて、大人を揶揄うことには興味があるようだった。

 なんとなく、以前の有推なら打ち解けるんじゃないかと思った。

 最初は流していたが、鈴のように高い音はどことなく有野を思い出させ、給食の最中に言ってやった。

「いいや、資格が欲しくてきたんだよ」

「資格?」

 班を囲む1人が目を開いたように見えた。他の4人は首を傾げた。言わなきゃよかったな、と軽く反省したところで「武くん!」と太い女性の声で呼ばれた。大人気ない発言を聞かれてたかと思ったが、次の授業の準備だった。

 指導の先生は40.50代くらいのベテラン先生で、批判すべきところを探すような鋭い目が苦手だった。

 初日に他の先生から「頑張ってね」と憐れみまじりに肩を叩かれたもんだから、担当ガチャに外れたことを理解した。

 とにかく返事ははっきり返すようにして、怒られればすぐに謝って取り組むようにした。佐藤からのアドバイス通りに立ち回ってみただけだったが、佐藤ってすごいな、と実感した。

「おつかれー、明日も頑張ろうぜ」

「まじで、お前がいるからやれてるよ」

「嬉しいこと言ってくれんじゃん」

 教育実習の時間は表面上8:00から16:00となっているのに、会議や準備や日誌提出でなぜか終わる時間は20時を越えることが多かった。常に頭も体も動かすため、1日の長さが5倍くらいに感じた。佐藤は帰り際、救われたように足取りが軽かったが、俺はそうではなかった。

 夜の空気がする電車でサラリーマンに囲まれ揺られていると、暗い水の底に進んでいくような気分になった。

 教育実習から帰ってくると有推はソファに座っていた。

 服が変わっているのでまた出かけたんだろう。出かけられるのに、大学に行けないのはよく分からなかった。俺は買い置きのレトルトを雑に茹でて、有推の分もテーブルに並べた。

 食事中にも明日の課題の準備のため、ルーズリーフを広げボールペンの先をつけていた夜。

 有推は急に変なことを言い出した。

「1999年7月に世界が終わるんだって」

 凛とした声に「は?」と思わず口から出た。

 テレビでは全然関係ない危機一髪事故特集という映像が流れていて、クラッシュする車を見つめたまま、有推はバグったように言葉を続けた。

「事件と一緒だよ」と言った。

「いままで溜まっていた不満が爆発するみたいに、世界の滅亡って形で、今まで人間が溜め込んできた毒が弾けるんだよ」

 ああ、すげえ嫌だ。

 俺はまだ底があるのかと放心した。

「んー…」

「タケはどう思う?」

「…今は2020年だろ、予言は外れてんじゃん」

「ズレたんだよ」

 有推はきっぱりと断言し、また続けた。

「タケはジョンタイターって知ってる?その人が言うにはこの世界には世界線っていう概念があって、未来人とか預言者が現実に対して干渉した場合、世界線が変化して未来が切り変わるって言うんだ」

「予言したくらいで時期がずれたって言うのか?」

「池に小石を投げ込むと池全体に波紋が広がるでしょ。よく言うバタフライエフェクトだよ」

 その理屈が罷り通るなら、預言者ってのは随分無責任だ。

 有推が本気で言ってたかは分からないが、俺の目には、有推はテレビの画面を見ながら、世界の終わりを見据えているように見えた。ズレた時期がすぐ先の未来に重なっていることを、夢見ているようだと思った。

「…」

 心中には同情と、苛立ちが混ざった。

 元凶は絶った、と思っていた、俺なりのやり方で、有推になんとかしてやれたと驕っていた。

 有推のヒラヒラと飛び回るのような態度は現実には通用しなかった。単位が足りなくて留年が確定して、有推は2年のままだった。

 人間が自分の人生を悲観した時、反応は二分すると思う。

 生に希望を見出すか、死に希望を見出すかだ。

 有推は死に希望を見出した。

 有推に基準が吹き込こまれた、と俺は思った。

 絵の具を塗りたくった紙がどうあがいても元の白には戻れないように、有推は自分がいかに先のない人間か吹き込まれて、自暴自棄になった。

 俺は持っていたペンをテーブルに置いた。有推の話に乗ろうとしたが、声には棘が混じった。

「どうやって防ぐんだよ。ウイルス?隕石?地球温暖化?わかってても防ぎようがないな、シェルターなんか俺ら庶民には作れねーし」

「それは分からないけど、危険だって自覚することが大切なんだよ」

 この頃の有推は元の話し方に戻っていた。

 不自然で演技じみていて、浮世だって聞こえた、現実から足を浮かせて、浮遊している。

「んー」と曖昧に返事して、受け入れてる風を装うのも限界だと思えた。頭の中には授業と、指導の先生と、教壇に立って上手く立ち回る佐藤の姿が浮かんでいた。

 溜め込んでいた疲労は、ストッパーの締まりを緩くした。

「いい加減、現実見ろよ」

 有推は反撃もせずに黙った。

 静かになった食卓。

 皿にスプーンが当たる音だけが響いた。

 これを機に落ち着いてくれればいいと思ったが、有推は閉められた扉の奥から、聞こえるくらいの声で配信するようになった。

「だからさ、地球は滅亡するんだよ、すぐ近くに」

 やめときゃいいのに。

 ネットなんて誰もが都合がいいものを求めて、都合が悪くなれば去っていくのに。長い間ネットをやってて、そんなことも気づかないんだろうか。

 泥のように眠ると、ガラスのプレパラートにシミが広がっていく夢を見た。 

「……ん」

 ピコン、という音で目が覚めた。

 窓の外は塗りつぶしたように真っ暗だった。

 テーブルに突っ伏して寝ていたようだ、無理な体制で寝ていたから肩に痛みが走る。静かすぎる空間に、部屋の中の有推ももう寝てるのだと判断できたが、目が覚めたと同時に絶望的な現状を認識して、両手で頭を抱えた。

「うわ、ぁ、まだ終わってねぇ…」

 テーブルには明日の授業の教材が散乱していていた。舌打ちをして立ち上がると、ぱさ、と薄い布団が体から滑り落ちた。寝る前は布団はかけていなかったはずだ、有推がかけてくれたのか。

(…)

 俺は刺し違えるつもりで、無防備な体に言葉のナイフを突き刺した。

 俺にだって許容量はある。教師になるつもりもない俺は一般企業への就活のため、面接の練習、履歴書の作成なんかも同時並行でこなさなければならなかった。

 切羽詰まっている自分以外の人間は器用に事を運んでいる気がしていた、あらゆる現実が俺の日常を地面に押し潰している気がした。

 ライターとタバコを手に取りベランダに行こうとして、テーブルの端の有推のスマホに目が止まった。また置きっぱなしにしている。色んなことが急速に変わっていったのに、こんなところは相変わらずだった。

 

 

 


「悪いな」

「いや、息抜きになるからいいけどさ」

 教育実習の貴重な日曜の休みに、佐藤に車を出してもらった。

 地元に骨を埋める覚悟を決めた佐藤は、彼女を乗せるために背伸びをして車を買っていた。公務員となって、毎月振り込まれてくる金をあてにした10年ローンだと言う、どこまでも気持ちいいやつだった。

 生きていることに確固たる自信があり、俺に足りないモノを佐藤は持っていた。俺には歪んで見える視界も、こいつなら正常に判断してくれるんじゃないか。

「一応言っとくけど、俺の愛車は禁煙だからな」

 新車の匂いがする助手席に乗り込むと、佐藤は釘を刺してきた。

「さすがに吸わねえよ」

「最近スパスパしてるからさぁ、あんま吸うと体悪くするぞ」

「分かってるけど、言うなよ」

「あれ、気にしてたのか」

 タバコが毒であるとは分かっていたが、肝臓だって肺だって、鏡の前に立っても汚れているかどうかは分からない。目に見える恐怖がないから、ストッパーがないのだ。

「そういう佐藤はストレス発散どうしてんだよ」

「ドライブだな、ドライブ好きなんだよなあ、俺」

 佐藤のスマホからBluetoothで繋ぎ、車内には流行っている曲のプレイリストが流れていた。

「健全ー、じゃあ3時間くらいかかる場所のがよかったか」

「おい、限度があるだろ。流石にそんな遠かったら俺も付き合わねえよ」

 開けた窓から入ってくる風に吹かれながら、佐藤は快活に笑った。

「今から行くところに知り合いがいるんだっけ?」

「親戚がいるかもしれないんだ。音信不通になってて心配でさ、ちょっと覗いて確認したい」

「後でなんか奢れよ?」ニヤリと笑われ「帰りにサイゼ行こうぜ」と言うとふむ、と承諾してくれた。佐藤は友達甲斐のあるやつだった。流行りの音楽が流れる車内は明るく、穏やかな揺れ心地で実習で酷使していた体は癒された。

 俺は有推に染み込んでしまった毒を、どうやれば抜き去ることができるか考えた。

 大学に引っ張り出して、女が怖くないことを知らしめれば良かったんだろうが、俺は有推に強く出れなかった。理由はいくつか浮かぶが、簡単に言えば嫌われたくなかったんだと思う。

 一時の気の迷いみたいなもので、自然に落ち着くんじゃないかという希望的観測は打ち砕かれた。

 有推がコソコソとどこに行っているのか、聞いたところでヘラヘラとはぐらかすので、俺も途中から聞かないでいた。不審感がなかったか、といえば、帰ってくると大体、体育座りになって沈むので心配には思っていたが、有推にとって命綱のような気がしていた。大学には行けないかもしれないが外には出ている、その事実が俺にとっても安心する材料になっていた。有推はまだ大丈夫だと。

「にしても、この町にそんな会館があったんだな」

「ああ」

「気づかないもんだな」

 もっと早く気づくべきだった。

 太陽の光によって波面が光る海の横を走っていくと、佐藤が「お」と声を上げた。アパートから車で20分、海に面した場所に、薄茶色の公民館のような建物が見えた。

 俺はテーブルに置かれていた有推のスマホを覗き見た、Twitterじゃなく、気になったのはサーチエンジンの閲覧履歴だ。スマホにはパソコンと同じようにパスワードはかかっておらず、不用心だと思いながらも、それらしいワードは検索していないと確認できた。

 俺はアプローチを変えた、終末思想、有推の出かける日付で検索し、この辺りで開かれていたセミナーがヒットした。

 会館は広く、100台は収容できるであろう横の駐車場に車が停まり、降りると溢れんばかりの潮の匂いがした。

「車、かっこいいじゃん」

 駐車場に停まっているいくつかの車と並んで見た時に、素直に思ったことを言うと「割と高かったんだぜ?」と、佐藤は満更ではなさそうにニヤついた。

 会館に入れば、一般的な市民センターと同じく、白い蛍光灯に照らされた清潔感のある内装だった。

 まず、俺たちは少なからず動揺した。

 佐藤は今にも帰りたそうにこちらを見たが、遠慮なしに進んでいく俺に観念してついてきてくれた。どこにも行けない有推がここには行ける理由が、俺には入ってすぐに分かった。

 みんな顔に頭巾、体にローブをまとっているから、男か女か分からないのだ。

 見せかけでしかないが、平等な世界を錯覚した。

 受付に行き、初回だと伝えると手厚い歓迎を受けた。

 おびえきった佐藤に「やることやったら走って車に逃げるぞ」と言えば、コクコクと心境を貼り付けた顔でうなづいた。その様は逃げ場を失った羊みたいに哀れだったが、俺は佐藤がいてよかったと思った。

 人の流れに従い、セミナーというには仰々しいホールに移動した。俺たち以外にも私服の人間をちらほらといるみたいだ。横で震える佐藤の背を軽く叩き、落ち着かせながら待っていると、前方、高い位置にある壇上に白いローブを着た人が厳かに登場した。

『審判の日は近い。私たちにできることは祈ること、そして、信じることです』

 マイクを通した声は電子的で加工されていて、声の主人が男か女かはわからなかった。

『時の原理、時間は不可逆であると言うことが、人間が縛られている絶対的なルールであり、私たちが幸せに、あるいは平等に生きていくことが不可能であることの障害なのです。救世主だけはこのルールを外れ、私たちを次のステージ、新しい世界に連れて行ってくださいます』

 紡がれていく散文的な文章は、ただ聞いているだけでも脳を締め付けた。

『暴力、知力、権力、それら低俗なものではなく、信じる力こそが真に尊い力なのです。警告はされていたにもかかわらず、世界の見解に惑わされ、背を向けられた真実に、私たちだけは目を向けています。今もなお、アナグラムで我々に、真実を伝えようとしてくれているのです。なんといじらしく、真なる愛なのでしょう』

「何言ってんだ、…あの人」

 途中でついていけなくなったのか、佐藤が耳打ちしてきた。俺は有推の話を聞いていたので、なんとなく理解してしまえた。

 この世界はある段階から決定的に間違えてしまったから、神が滅ぼして再構成してくれるという考えだった。そして新しい世界に生まれ変わることができるのは、信仰心を持った人間だけ。という元ネタとは離れた宗教的思想を追加していた。救世主が別の世界に連れていってくれるなど、細かな設定はあるようだったが、40分ほどのご高説は端的に要約するとその説明で足りる。

 隣で「おかしいんじゃねえのかな、よっぽど不安なのかな?」と心配そうな佐藤の声は、強烈な毒に当てられて沈んでいた気分を正常に和らげてくれた。

 儀式の一部のように淑やかな拍手がホール内に響き渡り、セミナーが終わった。俺はそそくさと帰路につく佐藤に詫びを入れ、車の中で待ってもらうように頼んだ。

「はあっ?!早く帰ろうぜ?!」

 腕を掴まれたが「親戚を見つけたから話しかけてくる」と言うと複雑な顔をして「エンジンつけてすぐに出れるようにしとくからな!」と走って行ってくれた。

 受付に名前を伝えて呼んで貰う、笑ってるか無表情かもわからない白のローブを見に纏った受付の人の、袖から覗いた細い腕にはミサンガが見えた。

 ネットの閲覧履歴にはここに関連するワードはなかった。

 ネットからじゃない、直接的な関わりの中で有推はここを知ったということだ。

 有推には薄い膜のようなものがあり、周りとは表面的な付き合いをしていたことは分かっていた。

 有推が人に見せることが出来るのは取り繕った明るい箇所だけで、今の弱い自分を見せられる人間は限りなくいない。

 誰かから誘われて通っているなら、有推の気質を知っている近しい男性からに決まっている。

 奥から出てきたスーツ姿のおじさんは俺を見て、興味がなさそうに「ああ」と言った。

 

 

 

 

 外に出ようと言われ、ブロックに打ち寄せる波が見える、会館の裏に回った。

 そこは、むせるほどの潮の香りが充満していた。鼻を抑えた俺の前で、おじさんは品のない仕草で会館の壁に背を預けた。タバコに火をつけ煙を吐き、腕に何重もつけられたミサンガが、動作に従い揺れた。

 ちゃぷん、と波の音がする、さざめきの中でおじさんは言葉を漏らした。

「武君はこっち側だと思ってたんだけどなぁ」

 その言葉が全てだった。

 おじさんはタバコを咥え、空いた手でもう一本取り出し、気安く俺に向けた。

「いい立地だろう、この町には何にもいいところがないけど、海がある点だけは評価できる」

「なんで、有推を巻き込むんですか」

 俺が聞きたいのはそれだけだった。

 どれだけ歪に見えても、ここにいる人たちは何も悪いことはしていない。誰が何を信じて何を拠り所にしようが、俺には関係ない。

「あの子はそういう子だろう?」

 おじさんは、ふ、とかすかに笑い、悪びれもせずに言った。タバコを胸ポケットに戻し、つまらなそうに腕を組んだ。

「そういうって、なんですか」

「親からもらえなかった愛を、代わりのモノで満たそうとする子だよ。君もそうだろ」

 続く言葉に否定は追いつかなかった。

「君らは自分たちがとんでもなく不幸だと思ってるかもしれないけど、君みたいなタイプはありふれてるよ、今じゃスタンダードって言ってもいい。この国は信仰心が薄いからね」

 淡々とした口調に、自然と口から声が出ていた。

「あんたらの、せいだろ」

「おや、君が神を信じることができないのは君自身のせいだ、人のせいにしちゃいけない。君は神を信じることができる純粋な人間が、羨ましいんだろう?」

「…なんなんだよ、あんた」

 俺は、心につけ入ってくるような、この人の言葉が嫌いだった。

 俺の勘もバカにできない。

 教師になるつもりがないのに教職を取ろうとする俺の迷いを、この人は図書館で会ったあの数分で見抜いていた。

 この人は本質的に、人が触られたくない箇所が分かるんだ。

 優しく諭すように不安に寄り添い、希望を誤認させて心に付け入る、そう言う意味では、大学なんて将来への絶望を抱えた人間の温床だ。俺や有推だけが運悪くこの人に惑わされたとは思えない。俺がこの人の言葉を突き返すことができたのは、ただ俺が大人に対して築いていた心理的なバリアが強かっただけにすぎない。

 カウンセラーや教師などであれば、人を導くことが出来る素晴らしい力だと褒めたえられるべきものなのだろう。

 おじさんはその力で、ボロボロの有推の心につけ込んだ。

「俺はね、あの子みたいな子供が世界で一番不幸なんじゃないかって思うんだ。傍目から見れば、普通に見えてしまうんだもの」

 おじさんは祈るように空を見上げた。

 染み込んでくるように脳みそに溶けこむ優しい言葉は、有推を運命の人だと信仰する彼女とは違う毒だった。

「彼らの心には肉体的な損傷となんらかわりない致命傷を負っているのに、社会的には認識されにくいものだから、血を流しながらも走り続けさせられる。にんじんを鼻先に吊り下げられたロバみたいにね。それで駄目になってしまったら、なんで普通のことが出来ないのかしら、なんて言われるんだよ」

 何度も読んだ聖書の一節のように、スラスラと紡がれる言葉に悪意はない。

 探究し続けて達した境地に、重ねてきた年月に自信さえ持っているような、彼女と同じように独善的で、主観的ではあるが、慈愛に満ちている。

 同調するものが少しもなかったと言えば嘘になる。

 おじさんが、信者勧誘のノルマのために有推を誘ったのであったら、まだマシだっただろう。

 聞いていると、俺は何かに急かされているような不快な気分になった。

「有推は普通ですよ」

「いやいや」

 おじさんは俺の言葉を一蹴した。

「あの子は違うだろ。普通に親からの愛情を受けて育った子は、あんなに人からの承認を求めないよ、病的だよ、あれは」

 その言葉に、おじさんは有推のことが嫌いなのか?と俺は考えてしまった、でも多分、そんな次元の話じゃないと理解できていた。おじさんは冷徹なほど博愛なだけだ。

 神様が人間一人一人を区別できないように、おじさんは俯瞰的に物事を見て、機械的に振り分けるように、他人と同じだけ有推のことを考えるのだと思うと、やるせない気持ちになった。

 有推がおかしい?

 そんなことは言われなくても分かってる、俺だって、きっと有推だって。

 それがなんなんだ?

 壇上の上の神様みたいな白い存在は言った。

 時間は不可逆で、それこそが不幸なのだと。その通りだと思った。有推の傷は肉体と違って治らない、別の何かで埋めて、騙し騙し生きていくしかない。

 有推が記憶喪失にでもなって、過去を忘れることができれば心の穴に苦しむことはなくなるかもしれない。

 でもそんな劇的な出来事は起きない。

 世界は生きているうちに滅亡しない。

「心配なら武くんも来るかい?就職活動はきついだろう、不安なら話し相手はいくらでもいるよ」

 ぶん殴ってやりたかった。

「ここは人が人として接して、寄り添える場所だよ。あの子もここに来始めて、世界に蔓延する弱さに理解を示したみたいだ」

「“あの子”って、言うのをやめてください」

 喉から掠れた声が出た。

 俺はおじさんの声を止めたかった。

 まるで何事もなかったように正常な語り口を聞いていると、自分の価値観を塗り替えられそうだった。

「あいつは妬です」

 おじさんがあの子と呼ぶたびにイラついていた。

 ずいぶん他人事だと思ったのかもしれない。

 薄く笑う声が波の音に溶けた。

「あの子はその名前が嫌いなんだよ」

 馬鹿にするような笑みは、ある日の有推にそっくりだった。

「妬なんて、子供につける名前じゃないだろう、あの子の親は学がないから知らないんだね。君も知らなかったのかな?」

 

 

 

 

「君は自分がいるからあの子は不幸なんじゃないかと考えたことはないのかい。君があの子にしてきたことは、本当に正しいと言えるのかな。助けたいと思うなら、君はあの子からは離れるべきだ、そうだろ、君は他と何が違うと言うんだ、君に」

 

 

 

 

 呪詛のような言葉から逃げるように車に戻った。よっぽど酷い顔をしていたのか。佐藤はハンドルを握りながら「サイゼはまた今度でいいよ」と言ってくれた。俺には勿体無いくらい、いいやつだったと思う。

 有推に関して、俺が正常だったのかは分からない。俺には判断する基準がなかった、同居している男のために部屋を出る日を張り込んだり、どこにいってるか突き止めるものだろうか。

 何も知らないくせに、俺は有推が大切だった、それだけは間違いなく言えた。

 俺なりにかけがえのないものを守っているつもりだった、一万円を見えないように回収するのも、真冬に何時間も立ち続けたのも、ストーカーをブロックしたのも、スマホを覗いたのだって、おかしいんじゃないかと片隅でもう一人の自分が思っていたけど、それでも俺は進んでいた。

 佐藤は上まで登ると気を遣ってくれたが、大通りで降ろしてもらった。

 信号を渡り、住宅に挟まれたアスファルト製の曲がった坂道を登っていくとアパートが見え、一階のベランダに小さく金色が光った。

 ベランダ側に茂る草を踏んで近づき、声をかける前に有推は振り返った。

 昼の温かい日差しに照らされ、柵に背中をつけてゆったりと座っている姿は、コンクリートに囲まれているのに御伽話に出てくる風景のようだと思った。横の室外機の上にお茶の入ったコップを置いて、どう見てもくつろいでいた。

「汚ねえぞ」と当たり前のことを言うと。

「どうせ洗濯するからいいよ」と、こともなげに言った。

「おかえり」

 俺は、窒息状態からやっと息を吸えたように、有推がここにいることに安心した。

 有推の膝にはいつかのスケッチブック、手には赤色の花があった。

 茎を掴み、指の平でくるくると遊んで見せた。柔らかな花弁は傘のように回った。

「なんだ、それ」

「さっきもらったんだ」

 有推は(配信は毎日続けているようだったので)見た目に合わずハリがある声でそう言った。

「花を?」

「うん、小学校一年生って言ってたよ。こうやって座ってたら柵の間から差し込まれてきて、動物園で餌あげるみたいな感じで」

「いやな例えだな」

「俺もあんまりいい気はしなかったから、もうすぐ世界は終わるって言ったら逃げたよ」

「…怖がらすなよ」

「はは」

 気分がいい日だったんだろう、軽やかな笑い声が心地よく空気を舞った。

 有推は茎の部分がくたびれた花を室外機のコップの横に置いて、膝元のスケッチブックをめくった。長い前髪が風で揺れ、しゃがんだ俺と並行になった目を合わせた。

「なんでアパート描いてたの?」

 俺は間も置かず適当に答えた。

「なんとなく、気分」

「タケ、変なことするね」

 納得する有推もどうかと思う。

「結構うまいじゃん」

 下手な線を目の前でまじまじと見られると恥ずかしくなり「あんま見るなよ」と諌めると、片手でスケッチブックを閉じた。

 有推の細い腕にミサンガはなかった。

 それが希望なのか、俺は瞬時に判断できなかった。

 黒い柔らかそうな髪の毛がサラリと風に揺れる、有推は「よいしょ」と言い姿勢を起こし、右手で室外機の上に置いた花を掴んだ。緩やかな動きを目で追っていると、赤いそれは柵の間から差し込まれてきた。

「これ、可哀想だから土に戻してくれないかな、もう痛んで、ダメになってる」

「…いいよ」

 思うところはあったが手を伸ばした。

 よれた花を柵の間で受け取ろうとした瞬間、有推の白い人差し指に赤色を見た。

 反射的に手を掴むと、有推の手から花が落ちた。

「うわ、指、紙で切ったんじゃねえの」

 人差し指の腹から血が滲んでいる。傷が深くないことを確認し、薄い切れ方から紙で切ったのだと推測するのは容易かった。

 有推は元々自分自身に対しては無頓着なところがあったが、ポカンとした顔をされて、俺は呆れた。

「大丈夫か?」

「え、うん」

「バンソーコー、家にあったっけ」

「どうだっけ…」と、思い出すように目を下に向けた。

「タケ、なんか、あった?」 

 俺は細い腕に力を入れていることを自覚して、離した。

 落ちた花を拾い、立ち上がると有推は顔を上げた。

「…いや」

 俺は有推を見下ろすことが多かったので、顔を上げる仕草は何度も見たし、今でも想像しやすい。カーテンみたいに長い前髪がでこで二手に割れて、21にしては澄んだ目で覗き込まれた。

「水に入れたら、もつかな」

 なんのことかと思ったが、手の中の花のことだと気づいた。

 花は子供と有推と俺の体温によって萎れていた。

 切り先も雑で、茎の繊維が荒々しく引きちぎられていた。

 一眼でもたないだろうとは思ったが、俺は掴む手の力を抜いた。

「コップに水入れて漬けとくか?何日かしかもたないだろうけど」

「うん、少しでも」

 家に入り、お茶を飲み切ったコップに俺が水を入れ、花を浸して置いた。

 有推は何が面白いのか、テーブルに腕をついてそれを見ていた。

 ただの花をスケッチブックで絵を描いたり、写真を撮ったり。

 茶色くなって水に濁りができて捨てるまでに、地獄のような3週間の教育実習は終わった。

 エピソードを抽出しても大したものはない、毎日、平均的に辛さを含んでいた。

 最終日には寄せ書きをもらったりして。武先生頑張って、と、一人が花をくれた。資格のためだと言うと驚いていた女の子だった。「大人って辛いですか?」なんて一丁前に聞いてきたので、子供に囲まれる中、思わず笑ってしまった。

 俺っていつから大人になったんだろう。


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