3

 



 無菌環境で育った人間がいざ世界に放り投げられると、免疫がなくて病気になる、という話を聞いたことがある。人間はある程度汚い環境で育ったほうが、免疫や耐性がある分長生きするらしい。

 有推と接していると、俺は度々その話を思い出すことがあった。

 

 

 

「武、こっちこいよ」

 大学2年の冬、ゼミの初日。集合時間ギリギリにゼミ室に入ると、教室の奥に座っていた佐藤が呼んでくれた。パッと見た感じでもゼミ内には何人か顔見知りがいるようだった。運がいいと見渡していると、手前に座る女子と目が合った。

「なに」

「別に」

「用がないなら見ないでよ」

 振られて以来、有野は会えばこんな調子だった。

 後ろに座りマフラーを外すと「気にすんなよ」と事情を知っている佐藤から苦笑いでこづかれた。

 佐藤は彼女とのいざこざをなんとか乗りこなしたようだった。彼女と実直に向き合って、本心を曝け出した喧嘩をしたらしい。目に見える面だけ見ていれば佐藤は普段通りだったから、物を投げ合ったという話を聞いてそんな酷いことになってたのか、と俺を驚かせた。

「えー、ゼミでは自主性と協調性が必要になります、えー、グループディスカッションのために、予習はきちんとした方がいいと思いますが…」

 シャツのヨレが目立つ、見た目通りのひょろひょろした教授の声は20人ほどが入るゼミ室では聞き取れた。大学の講義とは違い人が少なく、居眠りなどしようものならすぐにバレる。みんなそれなりに真面目に受けているようだった。

「毎週課題を出して、グループに分かれてディスカッションなどをします、えー、人数が少ないので、声は大きくなくても大丈夫ですからね」

 先生が前から紙を回し、前に座る女子が振り返った。1人と目が合って、隣の有野に何かを言って笑っているように見えた。

 被害妄想だとは思えない。少なからず嫌な気持ちになったし、有推があんなふうになってしまったのだって有野の、と考えて、胸中の不快感はベクトルを変えた。

 普通、女の髪の毛が家に落ちていたくらいで、ああはならない。

 猫は自分の身を綺麗にするために毛繕いをして、口に入ってきた毛が胃に溜まり吐くことがある。実家で飼っていた猫はよく吐いていたので見慣れてはいるが、人が吐く場面なんて、小学校の遠足のバスで酔った女の子が吐いたのを離れた座席から見てしまった時以来だった。

 何もできない俺の前で、便器の前に座り込む有推の引き攣りは激しかった。吐き終えれば口を濯いで部屋に戻り、朝は姿を見ていない。口に三本指を突っ込み、処理をする動作は痛々しくも慣れていた。

 ゼミが終わり、背の高い男が立ち上がり声をかけた。

「この後ゼミのみんなで昼食べにいこうかってなってるんだけど、どうかな?」

 女子のくすくす声がして、賛同の目配せをし合う雰囲気があった。

「悪い、昼飯約束してる奴いるんだ」

 俺は席を立った、全員の目が集まるのを感じたが、発案者はすんなりと送り出してくれた。

「そっか、じゃあまたな」

「次は行くよ、また来週」

 去り際、有野が何かを呟き、顔を顰めているのが見えた。

 ゼミ終わりに、吐き出されるように他の講義室から出てくる人混みをかき分けた。生徒は階段を降り、出口に向かって一様に進んでいく。その流れを堰き止めるように出口前の講義室の前で、何人かが一列になって留まっていた。

 扉横のホワイトボードには簡素に“無料カウンセリング“と書かれており、俺は佐藤が言っていたことを思い出して歩速を緩めた。あけっぴろげになっている中を覗けば、献血のお礼のように、お菓子をもらった人が出てきた。

「過剰適応じゃないかな」

 聞き慣れないワードを耳が拾った。

「人から求められたことに過剰に適応しようとして自分の心と離れて、鬱病や、適応障害になるものだよ」

「…心当たり、あります。わ、わたし、自分の意思がなくて」

 女性の声が不安げに揺れた。

「大丈夫、いまは聞こえないだけ。無理に自分自身と向き合おうとすると苦しくなっちゃうから、慣らすみたいに、徐々に、自分にはそう言うところがあるんだって自覚していけばいいね。そうすれば、自分と向き合えるようになると思う」

 声は小さいが、カウンセリング内容が丸聞こえだった。講義室の中、3箇所に距離を取って分かれて対話してるようだったが、学生は後ろ向きでも遮蔽物はなく隠されてない。

 こういうのって個室でやるもんじゃないだろうか。俺はそう思ったが、並ぶ何人かは平然としていて、スマホを触っているだけだ。入り口側に座る、茶髪の髪の長い女性が頭を下げた。

「また苦しくなったらおいで」

 背広を着た品のある男性が名刺を渡し、受け取った女性に気安く手を振った。すれ違う茶髪の女性の弱々しい瞳は下を向けられていた。目で追い、導線を辿るように自然と、おじさんと目が合った。

「ああ」と上げた手を一度空中で握って見せた。

「タケくんも来てくれたんだね」

 躊躇いなく、おじさんもこっちに歩いて来た。まさか来るとは思わなかったので反応が遅れ、押し出されるように廊下に2人で並ぶことになってしまった。

「…いえ、たまたま通っただけで。いいんですか?」

「30分交代でやってるんだ、そろそろ休憩タイムだったから、いいきっかけだったよ」

 おじさんは中のスタッフに手を上げた。

「最近はどう?教職は順調かな」

「…はい、なんとかやってますよ」

 気が知れないが、おじさんは俺と話がしたいらしい。

「偉いなあ、カウンセリングには興味があって立ち寄ったの?」

 俺は適当に話を合わせ切り上げようと思った。

「カウンセリングなのに扉を閉めないって、ちょっと変わってると思っただけです」

「ああ、たまに言われるけどね、オープンスペースで話せるだけ話すって環境が緊張しなくていいみたいなんだよ。個人的な考えだけど、他のところもこうするべきだと思うよ。個室で2人きりで、最初から他人に悩みを打ち明けられるわけないだろう?」

「……はぁ」

 問いかけられても困る質問だった。

「詳しく話したい子は別の部屋を紹介してるんだ、ここは、悩みを打ち明ける足がかりみたいなものかな」

 ペラペラと流暢に話すおじさんが「吸える?」と胸ポケットからタバコの箱を見せてきた。どんな印象を与えるかなんて考えずに「なんで俺に構うんですか」と突き放すことに抵抗はなかった。この頃、昼休みには一度家に帰って有推の様子を確認するようにしていたから、俺は早く帰りたかった。

 しかしおじさんは失礼な態度を諌める様子はなく、むしろ穏やかに話し始めた。

「あの子には手を焼くだろう」

「いいえ」

 俺は反射的に否定した。

「俺は焼いたよ」

 目が合うと、合図のようにシワの寄った目尻が薄くなった。

 おじさんは通り過ぎる生徒に頭を下げられ、手を上げた。

「吸ってもいいかな」

 有推の過去を餌にされていると分かっていたが、歩き出す後ろに着いて行った。大学の玄関口から出ると雪こそ降ってなかったが肌寒く、寒々しい空はグレーに沈んでいた。

 おじさんはタバコの灰皿がある壁に滑らかに背を預けた。タバコをトン、と一つ取り出し、ライターで先を炙る、全ての所作に品があり育ちの良さを窺わせた。

「俺の家とあの子の家は近かったから、嫌になったら来てもいいと言っていたんだ。あの子は素直に受け取って、よく書斎に篭ってたよ。おじさんこれどう言う意味?って子供が持つには分厚い本を手に、仕事してるこっちの都合もお構いなしについてくるんだ。勤勉な子供のフリをするのは上手だったが、聞く用事なんて二の次さ」

 構って欲しいんだ、と言うおじさんは淡々としているように見えた。

 おじさんは会社を営む傍ら、本作家も兼業しているらしかった。ずいぶん昔の書物を読み解いて、研究の成果として本を出版する、思考を煮詰める作業の中で有推の存在は邪魔ではあっただろうが、揺るぎないペースで構っていたことは想像できる。

 有推のことを心配してるのか、どうなのか。計りかねたが俺は、構って欲しい、なんてペットみたいな言い方はないだろ、と身勝手に思った。

 リビングから見る有推の部屋の扉が思い出された。朝もテーブルの上に簡単な朝食を置いたが、食べたのかは分からない。

 静かになった部屋で生活するのは実家みたいだった。

 犬も猫も喋らずに大きくもないから飼い続けられるんであって、結局、都合がいいから可愛いのだと、考える脳みそが嫌だった。

「有推と話はしないんですか」

「たまに話すよ。あの子が演劇サークルをやめてからは、会う機会も減ったかな。あの子がいないとサークルも心なしか、元気がなくなったね」

 おじさんの吐く灰が冷ややかな空気を舞った。

「あの子のことを聞きたいなら俺は役不足だと思うけど。君自身は、誰かに話したい悩みとかないのかな?就職活動の不安とか、話をするだけで楽になるものだよ」

(そうじゃなくて)

 おじさんは俺を見て肩をすくめた。

「そんな顔をしないでくれ、時間は限られてる。俺は、助けを求める人をより多く助けたいと思ってるだけだよ」

 有推に関して、話口は全て過去形で、おじさんの言葉はいつだって博愛的だった。

「ああ、そうですか」

 別に、自分の力だけで有推をなんとかできるとは思っていなかった、カウンセリング室の前で立ち止まったのだって、おじさんに有推について聞いたのだって、自分の手には負えないと分かっていたからだ。

 おじさんの言葉は期待していたものではなかった。

 元々、大人を信用したことなんか無かったが、とにかく俺はおじさんには頼れないと感じた。

 頬に張り付く寒さが痛い。白い息を吐き、話を切り替えた。

「カウンセリングって、どんなことを話すんですか?なにか、やり方とかがあるんですか」

「いくつかあるけど…、興味があるのかな?」

「はぁ、まぁ、立派な役割だと思います」

 おじさんはもう一度タバコを口に当て、吸い込んで吐いた。煙が空に溶ける間に、タバコを灰皿に押し付けた。

「認知行動療法っていう治療方法がある」

 言いながら、また胸ポケットからタバコを取り出した、箱から1つ掴み、差し出してきた。なんだ?と思ったが、それを受け取った。

「タケくんがベビースモーカーだとして、スモーカー?」

「いえ」

「そう、タバコを吸って気分が楽になるのが大好きだとする。そんなタケくんが俺に「タバコやめたら?」と言われて「タバコをやめられない自分はダメなやつなんだ」と考えてストレスを感じるなら、認知が歪んでいる。「タバコやめたら?」には他意はなくて、体を心配して言ってるだけなのかもしれないよね?」

「そう考えてしまうことがダメなんですか?」

「ストレスを感じてることが、本人にとってよくないだろう?」

「…まぁ、」

「この方法は対象者がストレスを感じる物事をどのように認知しているか理解して、認知の仕方や、行動を変えることで、ストレスを無くそうとするものだよ。ストレスを感じる出来事を4つに分けて」

「嫌いで、困ってる人はどうするんですか」

 俺は結論を急いだ。

「いるでしょう、特定のモノを避けて、日常生活に支障がでてるような、そんな人」

「過去に負ったトラウマのせいで、トラウマに関連する要素を避けようとする子はいるね」

 おじさんは俺の言いたいことを理解しているようだった。

「あの子の場合は母親だろう」

 有推は女という存在に対して明確な嫌悪があるのだと、異常な反応を見れば誰だって理解できてしまうだろう。

 有数は女と関係を持った俺も気持ち悪くなり、会えなくて部屋に引きこもったというわけだ。整理してみると、どうしようもなさに拍車がかかった。

 有野と付き合わなければよかった、と思った。有野に聞かれればぶっ飛ばされそうだが、水族館でのデートも、家でのデートも能動的な有野とだから出来た思い出ではあったが、付き合っていなければ、俺は有推と普通に接することができていたんじゃないかと考えてしまう。

 おじさんはもう一本タバコを取り出し、胸の位置に上げクルクルと指の腹で回した。

「ニコチンは人間の寿命を縮める毒でもあれば、昆虫に食べられないようにタバコ葉が作り出した自己防衛でもあるように、モノにはいろんな側面があるよね。

 なんだってそうなんだ。無害だと思いこんでいるものだって時として何かを傷つけることもある。恐れすぎず、物事を理解することが大事じゃないかと思うよ」

 言い終え、しなやかにライターに火をつけ、口に咥えた。そのままライターを持った手が近付いてきて、俺を見て、小さくうなづいた。

 人差し指と親指で持っていたタバコの先をそれに近づけると、カチ、と音と共に火がついた。冷気の中で、炎の暖かさが空気を伝って指先に感じられた。

「元凶を断つのが1番の近道だが、なかなかそれも難しいから、ままならないね」

 細い煙をあげ始めたそれを口に咥えて、吸い込む。

「聞いてなかったけど、20超えてるよね?」

「…タバコは初めて吸いました」

 おじさんはむせかえる俺を見て、はは、と笑った。

「豊かな時代になったよ、タバコに限らず、娯楽がたくさんあるだろう?俺が子供の頃なんて、今と比べれば何にもなかったさ」

 おじさんの言う通り肺を膨らませて吸い込むと、血液に浸透し、脳に染み渡るように思考がクリアになった。

 俺の知る有推は、引きこもる前まで男女が往来する大学生活を普通に送っていた。

 確かに女性と2人きりになる状況は避けていたかもしれないが、サークルやバイトなど、接する機会は俺よりも断然に多かったはずだ。であるのに、女嫌いだという噂は聞いたことがなかった。

 完璧に、上手くやれていたのだ。

 俺が有野を部屋に呼んだのは半年前で、落ちていたと言う髪の毛に気づいたタイミングが最近だとは思えなかった、有推が髪の毛にきづいたのはおそらく以前の話だろう。

 有推の病的な潔癖が、唐突に激しくなった理由があるはずだ。

 そう、兆候はあった。

 そうなるなんて微塵も感じたことありません、なんて無責任に無関係を装うつもりはなかった。

 

 

 

 有推が引きこもり初めて唯一の利点は、有推の目から避けるための行動に時間を気にしなくてよくなったことだ。昼でもいいし、なんなら夜でも全く問題なく、時間のある時に回収するようになった。

 古いアパートの壁に設置されたポストから何枚かのチラシと間に挟まる茶封筒をカバンに入れこみ、鍵を開けた。

「ただいまー」

 俺の声だけが虚しく反響する家は、正月にしか帰らない実家を思い出させた。

「有推ー、薬は飲めるか?置いとくぞー」

 コンビニで買った薬と冷やしうどんをテーブルに置く。閉まっている扉に声をかけ、扉から微かに聞こえる声を確認した。

「俺、大学いくからなー」

 家を出て、大学に行く道とは真逆の坂を登った。

 山を切り崩したようなアパートの裏は、坂を上がれば道路に繋がった。車一台が通れるほどの狭い道路から白いガードレールを挟み、見下ろすとアパートの玄関側の面が見渡せた。

 有推の行動は服を見て判断できた。有推が部屋着以外の服に着替えていたらその日は出かけている。俺がリビングで待つ中、扉を開けて帰ってくることもあった、どちらも俺が大学から帰ってきてからの話だ。俺はこの頃、昼に一度家に帰るようにしていたので、昼時には部屋にいることを確認していた。

 出て行く時間は午後、俺が講義を受けている最中だと簡単に分かった。

 問題は日付だった。

 昼休みには一度家に帰り、午後は102号室を見張るようにした。

 午後にはいくつか講義を入れていたが、単位を取るための出席率は60%、3/2さえ出ればいい。4回は休んでも提出物、テストをきちんとしていれば安全圏内だ。

 長期戦のつもりだった。

 ガードレール沿いに生える太い木々のおかげで、葉っぱは禿げていてもあちら側から気づかれにくい良い位置ではあったが、ガードレールは低すぎて腰をかける場所がなく、寒空の下に3時間ほど立たなければならなかった。夏だったなら虫とか別の不快な要素もあっただろうが、冬というのは結構辛かった。

「ここで何してるの?」

 近所の人が通報したのか、自転車に乗った警察に声をかけられた際には勘弁しろよと思った。こんなこと出来れば経験したくなかったが、初めての職質だった。

「あ、えーと、スケッチしてて」

「すけっち?」

「芸術学部なんです、卒業制作が近くて」

 学生証を見せれば硬い表情は幾分かほぐれた。

「スケッチブックを…持ってないみたいだけど」と、さすがに怪しまれたが「あー、最初はその、心のスケッチ的な、俺のやり方なんです」と答えた。

「へえー、そんなもんなの?」

 かなり苦しかったと思うが、駐在所の警察も仕事だから確認した、くらいらしく適当に世間話をして誤魔化せた。自分で言うのもなんだが、人相が平均的で、人畜無害そうではあると思う。

「紛らわしいことはしないでね」

 連日張り込んでいれば、ストーカーか不審者と思われても仕方がないだろう。

 咄嗟に嘘をついたもんだから、次の日にはスケッチブックを買って描く真似をしなければいけなくなった。

 タバコを買い、ふかしながら慣れない鉛筆を走らせてみたが、下手なりに気が紛れものだった。

 寒さはかなり身体に染みていたようで、耳のひりつく痛みを今でも克明に思い出せる。

 カサついた画用紙、鉛筆で引かれた下手な線、息の白さでぼやける視界、悴んで赤くなった指先、2週間目。

 唐突に、102号室の扉が開いた。

 シャクリ、サクリ

 雪を踏む音が微かに聞こえてきた。

 遠目に小さな足跡を残しながら去って行く後ろ姿を見遣り、坂を降りた。

 あんな状態でも行く場所がどこかは知りたかったが、ともかく俺は有推が外に出る日を待つ必要があった。有推は俺に対しても心を閉ざしており、真正面から話したところで、事態の解決は見込めないと思った故の行動だった。

 悴んだ手で鍵がうまく穴にはまらない、乱雑に開けて、三重に巻いたマフラーを脱ぎ捨て、部屋に直行した。

 俺は有推のTwitterを後ろから覗きこんだことがあった。

「こたつ買うかー」と俺が提案するくらい、寒さが身に染みてきた時期だったと思う。返事のない有推を変に思い、テーブルを回り込む際、それを目にした。

 DMの画面だ。

 画面のほとんどを埋める相手側からの長文メッセージ。思いの丈をぶちまけたような文章量にまず驚いたが、有推はじっくり読んでいて俺に気づかないようで、その集中力にも驚いた。

 部屋の中は案外綺麗だった。

 夜に蛇口を捻って洗い物をする音は把握できていたが、ゴミなどもきちんとしていたようだ。

 電源が付いたままのパソコンのマウスを動かす。真っ青なブルースクリーンを見ていると、この配信機材や、パソコンが元凶なんじゃないかと思えてきた。やったら?なんて無責任に言わなければよかった、後悔にも懺悔にも似た気持ちでマウスを動かした。パスワードのアテはあったが、パスワード認証もなくデスクトップに移った。

 それは有推の、俺への信頼だったのかもしれない。好都合だとエクスプローラーを起動し、Twitterにアクセスした。

 

 

 

 『あなたは裏切ってるんですよ』

 

 


 画面の文字に、ドキリ、とした。

 2と未読を表す数字が書かれたDMを開いて飛び込んできた文字、受信日時を確認して、昨日まで目を通してると分かった。

 俺は努めて冷静にマウスを動かした。遡り、画面をスクロールしていった。

 

 『言うとおりにすれば有名になれるのに、なんでそうしないんですか』

 

 『昨日の配信でも、同じ人にばかり反応を返してましたよね。私が見てること分かってるのに、わざと?』

 

 『平等に接することができないなら、嘘をついて貢がせるのを辞めてください』

 

 『思ってたのと違う』

 

 画面には、悪意とも善意ともつかない言葉が並べ立てられていた。

 

 『私の言うとおりにすれば、愛されるよ』

 

 これか、と思った。

 禍々しい、生々しい、独善的な言葉。

 初めの頃は穏やかだった口調が、帰ってこない返事に苛立ち、どんどんとヒートアップしてる様が見てとれた。

 目にするだけでも体力を使う文字列を一通り読んで、アカウントのツイートを見た。DMの醜悪さとは反して、アイコンやヘッダーはキラキラしたアカウントだと思った、プロフィール欄に、有推のハンドルネームが書かれていた。ツイートを遡っても、内容は別に普通の女の子だ。特筆すべき異様さはなく、それが返って違和感があった。大学生活を満喫し、ご飯の写真を載せて、どちらかといえば明るいツイートが多いのだ。その中で『偶然は運命』と始まるツイートは浮いていて、目についた。

 『運命の相手なら、推しのために死んでもいいと思うのは当然』

 ピコン、とまた送られてくるDMに目を通すより先に、俺はカマをかけた。

『以前にも送ってきましたよね、もう送ってこないでください』

 すぐに返信が来た。

『声が悪いから発声練習でもしたらどうかと伝えましたが、それだけでしょう』

 彼女はネットストーカーというやつだった。

 ツイートを見ていれば、以前から有推を監視して、生まれ変わるたびに追いかけているようだと分かった。そんなことが可能なのか、と思ったが、彼女が言うところの“運命“なのだろう。

『姿形を変えて、私たちを騙しているのと変わりませんよね』

 勝手な話だと思った。

 彼女は有推が推しであると書いているのに、こんな言葉をぶつけるのは、どういったワケなんだろうか。こんな調子で、彼女は本当に推しのために死ねるんだろうか、信じ難い気持ちになった。

 俺には前から、推しという概念は共有できなかった。推しとか、ファンとか、そういった熱意のある姿を見ても、俺の頭はスイッチがつくようにアイデンティティについて考え始めることが多かった。

 それじゃあ推しが炎上したらどうするんだろうか、なんて考えた。

 彼女は有推が好きで愛している、そして多分、推しは彼女のアイデンティティに組み込まれる。

 彼女の心には有推のクローンがいて、有推の知らない言葉や知らない想いを口に出す。傍から見れば思い込みの激しいネットストーカーでも、本人の中では真実で生きづいている。だから多分、推しが炎上すれば彼女も傷つくのだろう。

 俺にはそんなものはない、と思い至り、いつも思考を放棄する。言いようのない感覚が腹で渦を巻き、

 ガチャ、と玄関が開く音がした。

 時計を見れば、有推が出て2時間が経過していた。

 俺は彼女のアカウントをブロックをして、パソコンを閉じ、部屋の扉を開けた。

 有推は突然開いた扉に大きな目を開いて、視線を合わせないまま言いづらそうに呟いた。

「…なに、してんの」

「何も、掃除しようと思って」

 それだけ言ってすぐに出た。

 冷蔵庫から肉を取り出し、包丁を握るとムカムカとしてきた。食材を切って、まな板の上で混ぜて、いたぶることで発散した。

 有推が俺のしたことに気づいて、余計なことをするなって怒鳴ってきたって構わないと思った。そうすることで有推が発散されるなら、その方がいい。

 飯を運ぼうとすると、するりと、見ない間に細くなった体が部屋から出てきた。

「タケ、ありがとう」とだけ言ってきた。

「何が?」

 俺はとぼけた。有推は押し黙るように綺麗に笑みを作った。

 俺は、有推に喚いて欲しかった。

 こいつはモノには苛烈にあたるが、俺に直接ぶつけられたことはなかった。

 ただ一言、「助けて」と求められたら、俺は多分、遠回しなやり方を捨てて、どうすればいいのか本気で考えることも、行動することもできたかもしれない。

 久々に囲んだ食事だった。

「なあ、出かけようぜ」

「どこに?」

「ディズニーとか」

「本気で言ってんの?」

 静かな有推は素直だった、ローの日だったんだろう。

「いいよ、…タケに迷惑かけたくない」

 なら早く元に戻れよ。

「なら、普通にこうやってご飯食べようぜ、別に、吐いてるところ見ても何とも思わねえよ」

「…タケはその方がいい?」

「当たり前だろ。静かな家は、不安になる」

 カーテンから西陽が刺していた、真っ赤に染まる金色がつむじから黒くなっているのが見えた。

「ごめんな」

 棚に置いたスケッチブックが置物になる未来が容易に浮かぶ、俺がやったことって、一体なんだったんだろうと考えた。

 鈍い痛みを発する指先を擦った。

 俺にとって不都合な痛みだった。

 あの痛みが愛でなくて、恋でなくて、なんだったと言うんだろう。

 実家に帰ったら、とか、おじさんに相談したら、とか、心理カウンセラーのところに行こう、とか。

 頭を駆け巡って、俺は有推に何も言うことはなかった。




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