2



 有推の行動は目を見張るほど早かった。

 ベット横のデスクにいそいそとパソコンを取り付ける有推に「買ってきたのか?」と話しかけると、実家に置いてあった機材だと返ってきた。黒黒しい大小の機器達を見ていると、ちょっとやってたくらいじゃないなと感じたが、言葉にはしなかった。

 ものの数分で設置が終わり、疲れた顔をした有推にお茶を出すとハンドルネームの案を出して欲しいと言われ困った。

 連日問いかけられたが、しばらくの間「んー」と返事してると、気づけば『アルカロイド』という名前でチャンネル開設をしていた。

「タケが出してくんないからさ」

 ぶすくれたように言う有推に由来を聞くと「聞いてて、よく眠れるような配信をしたい」とのことだ。

 なんだそれ、とは言わなかった。

「でさ、やるとしたら、今はゲーム配信しかないよね」

 有推にはこんな感じでよく相談をされた、即答できたことは少ない。「好きな配信者いる?」と聞かれて何人か答えたくらいか。

 俺は別に配信をめちゃくちゃ見てるわけじゃなかったし、一視聴者の視点でしかなく、配信者側の視点を持っているわけがなかったからだ。とはいえ問いかけの量に対して返答の数が少ないことに多少の申し訳なささはあり「お前ゲーム上手くないだろ」と返してみた。ゲーム配信となると、ゲームが上手くないといけないんじゃないだろうか、とは素人ながら思えた。

 有推と一緒にゲームもしたことがあるが、まあ別に普通だ。俺の対戦相手としてはちょうどよかったが、下手すぎるわけでも上手すぎるわけでもなかった。

「タケ、それもいいんだよ」と言われたが「そうか?」としか言えなかった。

「あ、そうだ宣伝用のSNSもはじめないとな、Twitterと、Instagramと、あと何がいるかな」

「そんな複数アカウント持ってたら、パスワードとか忘れないのか?」

「パスワードなんか誕生日の繰り返しでいいよ、覚えるの面倒だし」

「別に、好きにしたらいいけどさ」

 俺が返せるのはこのくらいのありきたりな言葉だった。

 反応の薄い俺に、昨今の動画配信者の傾向や流行りの動画スタイルなんかを語る有推の熱は、夢と呼ばれるものなのかもしれないと思った。

 夢。

 これほど陳腐で形のないものもないだろう。

 夢は叶えるもので、破れるものであるらしい。俺も叶えさせしなくても破れることができていれば、自分の生に多少の重みを付加することができたのかもしれない。

 そそくさと配信活動を始めた有推とは違って、俺は何者でもない一介の大学生のまま、狭い家の中で接し続けた。

 初めたての頃の伸び悩んでいた有推とは、まだ同じ目線で話もできていた。有推は自分の楽しいと思うことを人と共有できているというだけで楽しそうで、俺は相槌を打つだけで良かったからだ。

 YouTubeは今やレッドオーシャンだ、と嘆く有推を見て、大変そうだなと頬杖をついていた。

 

 

 

 

 プラットフォームを拡大しようと思う、と謎の宣言をされて数日経った頃だった。

 突然『アルカロイド』の名前はSNSに拡散されはじめた。Twitterだけはやっている俺が、タイムラインのリツイートでその名前を見た時は、本来の意味のアルカロイドかと早合点したものだ。

 急速に伸びた理由は単純明快だった。

 顔出しをするだけで良かったのだ。

 YouTubeとは別の配信サイトにて、その頃話題になった映画の俳優とそっくりになるというよく分からない配信が、需要とマッチし瞬く間に拡散されたようだ。目に止まりさえすれば、有推の顔の良さが、見た目の華やかさが、人懐こい話し方が、感染するようにファンを生み出し、アーカイブは3万再生を超えるようになった。配信を初めて一か月くらいの話だ。

 俺は喜ぶ有推を尻目に、決断に驚いていた。

 大半の人間はリスクとメリットを秤にかける。

 現代社会において顔を出してネットで活動することはメリットもあるがリスクが大きすぎる。

 まあ、俺は有推という人間を勘違いしていた訳だが、俺たちの共通の目下の壁は就活であると思っていた。就活で配信活動をしていることがバレれば、まず弾かれるだろう。会社の信用問題に発展しかねない要因を雇うところは少ないからだ。

 顔を出すならある程度配信を重ね、リスクに見合う利益が見込めると判断してからの大きな決断になると思うのだが、くだらないことは相談してくる有推に顔出しについて相談されたことはなかったし、ほとんど衝動的に見えた。

「何回か顔出したらさ、俺の顔があの俳優に似てるって言われたんだ、でやってみたんだよね」

 有推はリビングの机に座る俺に、予想以上の成果だと言わんばかりに俳優の画像を見せてきた。

 新進気鋭、大手事務所売り出し中の旬真っ只中の俳優の横に、有推の綺麗な顔が並んだ。

「そんな似てるかな?」

「…似てるっちゃ似てるな」

 金髪の有推には似てないが、黒髪のウィッグを被った有推には似てると感じるから不思議だ。顔がいいやつはパーツが似たような比率になると聞いたことがあるが、それだろうか。

 危機感を感じていない様子の有推は、俺とは別の価値基準で生きているように思えた。

「拡散されてるけど、いいのかよ」

「大丈夫だよ、この時は髪色とか違うし、化粧してるし」

「俺のところにも回ってきたぞ、大学の誰かが気づくんじゃないか?」

「べつに、バレても犯罪をしてる訳じゃないじゃん」

 そう言う表情は若干苛立っているように見え、俺は口を閉じた。有推は向けていたスマホを裏返し画面に目を張り付けた。

「いいんだよ。みんなも喜んでた」

 有推は自分以外への判断は正常なやつだったが、反比例するように、自分に関する判断は極端だった。

 勢いに乗った有推は、バイトから帰って来ると部屋に篭り飽きることなく配信をするようになった。

 俺は講義の空き時間に、思考の空白に忍び寄ってくる好奇心に負けて、有推のハンドルネームを検索してみたことがある。

 ある程度の再生数となると見ている人はいるようで、掲示板にスレッドも立っていた。『アルくん』なんて呼ばれて、環境音がうるさいと言われていた。俺はいくつかに目を通して、すぐにブラウザバックした。

 チャンネル登録はしたが、結局、一度も視聴することはなかった。

 

 

 

 

 同居して一年が経った。

「タケ、しばらく大会があるから夜は勝手に食べててよ」

「おー…」

 朝にそんなことを言われ、大会ってなんだよ、と言う前に部屋の扉を閉められた。チャンネル登録していたのでサムネを見ればこれか、と分かったが、夜、大人数で通話を繋げてるらしい有推の部屋から聞こえる音は小さかった。

 アパートはどちらかといえば壁が厚く、多少の声なら隣人に聞こえなかっただろうが、有推は声を抑えて配信しているようだった(声の音量を調節すればそれなりに聞こえるらしい)。リビングにいる俺にも聞こえないくらいで、生きてるのかどうかの確認に扉を開けたことが何度もある。

「再生とか支援とかで稼ぐんだ」

 配信終わり、部屋から出てきて倒れ込むようにソファに座った有推にどうやって生計を立てられてるのか聞くと、眠そうな目つきを向けそう返ってきた。

 成功すれば、普通に会社員としてせこせこと働くよりも短期間でお金を稼ぐことができる。配信のプラットフォームが再生回数に応じた分と、支援という投げ銭も懐にちゃんと入ってくる。還元率はそこそこいいらしく、世の中の仕組みがよくできていることに感心しながら、夢がある話だと思った。子供のなりたい職業にランクインするのもうなづけた。

「常に喋りながらゲームっていうのは大変だろうな、頭こんがらがりそう」

「俺はそのゲームで起きたことくらいしか話さないかな。リアルなこと話すとしても、あらかじめ盛ったりかなり変えたの用意してる」

「へー」

「一応、身バレ対策だよ」

「配信者ってのも、色々気遣ってんだな」

 有推がこれまで話してきた話を全部本当だと信じてる人もいるのだろうか、と思いついたので言ってみると、有推は「どうかな」と平坦に返してきた。

「でも、本当の俺なんか見せても冷めるだけだよ」

 有推曰く、配信は演劇をしている感覚と同じらしい。台本を読んで演技するように求められていることを考えてやるのだと言い、俺はいまいち腑に落ちなかった。

 演劇している時の有推は汗をかいてさっぱりしていたが、配信をしてる有推は終わった後も、余計なことを考えているように見えたからだ。

 返事に困ったので、俺は話を変えた。

「毎日やってればネタが切れそうだよな」

「俺は毎日やんないと辞めちゃうから」

 いい終わりに目を閉じた有推を見ながら、こいつは向いてないんじゃないかと思った。

 教職の講義室にいる生徒は初回に比べ半数に減った。周りの見切りの速さには感心する。少ない交友関係でも離脱者が続出していたが、俺だけが続けていた。 

 有推にリアルとネットとで両手で数えきれないほど大勢の友達がいるように、俺も学内では少ないが別の友達と過ごしていた。3限終わりに出くわせば、そのまま昼休みに食堂に集まることもあった。

「でさあ、そいつが漫画家になるために大学辞めるっていうんだよ」と、テーブルを囲んだうちの一人が言った。就活において何が一番当たりの職種か、から発展した会話だった。

「まじ?どうすんの」

「なんかの賞を受賞するまで自宅に籠るんだと」

 価値観が同様か確認するように顔を見合わせ、口角を歪め笑っていた。

 俺の周りに集まってくるやつなんてみんなどこか陰気で適当だったが、有推と逆で、一般的なルートから離れる人間を馬鹿にする節があった。俺もそれが居心地よくて、有推といるより楽だと思う時もあった。

「なんでそんなことするんだろうな、叶うかもわかんねえのに」

「そいつ才能あんの?」

「知らね、みたことねえもん。実際、友達の漫画って読まねえよ。感想求められても困るし」

「そりゃそうか」

 ははは、と食堂に笑い声が反響する。

 俺は聞きながら、グルーミングみたいな会話だなと思った。彼らが馬鹿にする人種に含まれるだろう有推と、同居していることに不思議な感覚を覚えた。

 有推が配信をしていることは学内では誰も知らなかったが、もし知られたら俺にもこの笑みを浮かべるんだろうか。

 有推と話をしていると、多分有推は社会人になるのではなく配信で生きていきたいと思ってるんじゃないかと思っていた。

「やってみたら分かるんじゃないか」

 腹の中の息を吐き出すように言ってみると、1人が「いやいや」と口窄んだ。もう1人が後ろめたいことがあるかのように話を切り出して、バイトの愚痴に移っていった。

「俺んところのバイト暇でさぁ、まじ、つまんねーんだよなぁ」

 羨ましさの裏返しなんだろうか。

 大学は人生の夏休みだという。たしかに夏休みも春休みも、高校とは段違いに自由で期間が長かった。大人としての優越感と、子供としての無敵感の両立ができる唯一の期間。でも楽園と言いきるには、モラトリアム期間には同じ量の不快さや、将来への不安がないまぜになっていた。

 俺たちは大学生活を相応に満喫しながら、レールに乗っている自覚があった。そしてレールに乗るっているのは、ある程度の終わり方が決まってるものらしいと知っていた。

 とりとめもない会話を交わしながら、有推はすごいやつなんじゃないか、とぼんやり考えた。

 少なくとも有推は、俺らが受け入れた普通の人生を跳ね返そうと抗っていた。

 ネットっていう評価基準の曖昧で、将来になんの保証もついてこない環境で毎日なにかと戦っているのを、俺だけが知っていた。

 

 

 

 

 20になる前に死ぬのかなと漠然と考えていた俺は、なんの変哲もなく成人を迎えた。

 バイトから帰ってきた有推が早々に「誕生日会!」と叫んだ。去年と同じようにコンビニで買ったショートケーキと、おでんと、チキンをテーブルに並べてくれた。

 この日の有推は鬱屈した何かが晴れたようににこやかだった。演劇の公演日よりも楽しげで、声も弾んで、今にも歌い出しそうに動作は軽やか。リビングのテレビでミュージカルの映像を見せられたことがあったが、そんな感じで部屋を一周した。

「えっまじ?!」

「店長緩いから余裕だった」

 仕上げのように、有推が店長の目を盗んでバイト先からくすねてきた、とレジ袋からチューハイを取り出して、2人で馬鹿みたいに騒いだ(この時の有推は19で、バイト先は居酒屋だった)。

 俺も初めての飲酒をして、ジュースより独特な苦い味は旨くもないのに、気分は軽くなった。

「バレたら面白いな」

 揶揄いで言うと、有推は「最後だし、バレてもいいんだよ」と言った。

 有推はバイトやサークルの時間が勿体無いと辞めてきたらしい。

 俺はまた衝動的だな、と思った。思っただけで、何も言わなかった、有推の生き方に首を突っ込む気はなかった。

 有推は「登録者が、1万人になったから、いいんだよー」と、何も言われてないのに弁明した。

「すごいな」

 純粋にそう思って、そう言った。

 酒が気分が良くなるものだっていうのは大人から聞いて知っていた。言う通りだと思った、思考がボーと濁って、ふわふわとした浮遊感が身を包んでくれた。そんな感じでえらく気分が良かったから、酒を掴んで開ける有推を止めなかった。プシュ、って音の後「本当はさあ、県外の大学に行くつもりだったんだ」と告白された。

「へー、どこの?」

「京都行ってみたくて、京都の大学」

「なんでこっちにしたんだ?」

「なんかー、多分、無理かなあって」

 有推は細い腕を回して首の辺りを掻きながら、曖昧な返事を返した。

「タケは、なんで大学こっちに来たんだよ?」

 出会った頃より口調は自然で、俺に対して砕けるようになった。

「なんでって、家が近いからしかねえよ」

「だってタケはさ、頭いいだろ」

「よくねーよ、別に」

「うっそだ、俺、タケの成績表見てるんだ」

 勝手に見んなよと軽く叩くと、有推はこっちが気後れするいい笑顔を浮かべた。

 穏やかに弧を描く目と目線が繋がる感覚がした。

「タケがいたから、ここに来て良かったよ」

 有推はこんなふうに、人の心をくすぐるのが上手いやつだった。

 俺の誕生日のお祝いか、登録者一万人のお祝いかごちゃごちゃになったが「どっちでもおめでたいじゃん」と笑う有推に、飲んでふわふわした脳で、いいな、と思った。

 実際のところ、俺たちにとって「おめでたいこと」が起きた、なんて言えるのはこの時が最後だっだ。

 俺の誕生日なんておめでたくもなんともなくて、弾き出されるロケット鉛筆みたいに強制的な大人への仲間入りだったが、有推に言われると「おめでたいこと」かもしれないと考えられた。先行きなんかわからないけど、なんとかなるんじゃないかと思えた。

 俺は有推の曖昧なところが好きだった、現実を軽くしてくれる。もしくは有推が、現実に対して軽すぎるのかもしれない。

 酒を喉に流し込みながら、一万人ってどのくらいなんだろう、と考えた。

 俺にはそんなに多くの人が俺を認知してくれる瞬間は訪れない。だって何にも活動はしていないから。地に足をつけて生きているなんていい言い方もできるだろうが、自分を試したことがないだけだった。

 多分、スタートラインに立てば、自分がどのくらいちっぽけな人間か分からせられるのだ。基準を思い知るから、優劣が明確になる。基準がなければ人は幸せになれるのかもしれない、と酔った頭が、パーティーの終わりかけに変なことを考えた。

「これ、入ってるぞ」

 机の上の缶を片付けていると、1つずしりと重かった。

「飲んでいいよ」

 ソファに寝そべって手伝いもしない有推が赤い顔でそう言った。「有推の飲みかけだろ」「俺もういいやー」「どうすんだよ、冷蔵庫入れとく?」俺が言うと、有推はあからさまに息を吐いた。ゆっくりと起き上がって、俺の手から缶をひょい、と取った。顔はニコニコしていたから不機嫌なわけではなかったんだろうが、有推のこう言うところは人に誤解を与えやすいだろう。

 ぺたぺた、ふらついた足取りで台所の冷蔵庫に向かい、ラップの筒を握って、冷蔵庫前にしゃがんだ。ラップを切る手は不器用でやりづらそうで、立ってすればいいのにとハラハラした。一人暮らし用の背の低い冷蔵庫を開ける時はいつもしゃがんでいたから(二人暮らしで使うには小さすぎた。中身は俺の買ってくる食材でパンパンなことが多かった)条件反射なのかもしれない。

 俺も有推の横にしゃがんだ。切ったラップを缶に貼り付ける手つきが落としそうで危なっかしく、俺がした方が早いと思ったが、酔った俺はぼけーとつむじを見てるだけだった。

「これ、あんま美味しくなかったんだよなぁ、ハズレだった」

「捨てるか?」

「えー、勿体無いだろ、飲みたくなる時もあるかも」

「好きにすりゃいいけど、酒って賞味期限ないんだっけ」

「アルコール度数が高いと、賞味期限ないんだぜ、アルコールが菌の繁殖を防ぐって、知らない?」

「ふーん」

「アルコールは、浄化してくれるのだー」

 有推は得意げに鼻歌を歌った。途切れ途切れの音が流行りの曲を歌っていると分かったのは奇跡に近い。

「なぁ」

「んー?」

 缶を冷蔵庫の中に入れ込む整った鼻筋を見ながら、ずっと思っていたことを口に出した。

「声、そうやって普通に喋れば?」

「…分かった?」

 そりゃあからさまに、とは言わなかった。

「なんとなく、ほら、お前ってたまに素で独り言言うから」

「ああー…」

 狭いリビングに声が響いた。

 舞台の上での凛々しい声とは違う発声で、弱々しくもはっきりと声を出した。

 有推は「あー」ともう一度言った。

「俺の声、変?」

「普通だろ」

 ニシ、と笑った有推は、可愛いと思った。

 有推はこれからどうなっていくんだろうと、俺は密かに気になっていた。




 

 これは俺の悪癖とも呼べることなのかも知らないが、適当なくせに日常の行動については気になった。当番表の前に立って、釈然としない感情を募らせていた。

 有推が部屋から出てこなくなった。

 大学2年の冬だった。

 最初はなんかの企画で部屋から出ないのかと思っていたが、1週間目を超えると異変に気づき始めた。

 有推の姿を見るタイミングが極端に少ないのだ。トイレも風呂も飯も、逃げ回るネズミみたいにコソコソと済ませているようだった。部屋から出てこないのだから当然、家の食事や掃除などの仕事は、俺が住み込みの家政婦が如く動くようになった。

 いつまでもこの状態が続くと当番表の意味がないな、とまず思った。夜ご飯ができたと呼んでも理由をつけて出てこないので、部屋の前に置くようになった。

 扉の前に飯を運んでると、実家で飼っていた猫を思い出した。

「よー寒いなあ」

「本当になあ」

 俺に手を降り挨拶をしてきたそいつがシャクリ、と地面の雪を踏む音がした。学内のアスファルトには微かに雪が積もって、ところどころに残ったまだ踏まれていない新雪を踏んだ音だろう。

 教職の過程で1人友達ができた。

 佐藤は周りにいなかった真っ直ぐなやつで、出会った時から教員になりたいと言っていた。

 教員なんて残業が多くてリスクの高い仕事をやりたい奴が本当にいるのだとつい思ったことは内緒だ。佐藤は中学時代に恩師と呼べる人と出会ったらしい、その人みたいになりたいのだと、公然と言い切る佐藤は眩しかった。

「彼女が、就職は東京も考えてるとか言うんだよ。なあ、これって遠回しの破局宣言だと思うか?」

 佐藤は雪道に足跡を残しながら、マフラーに埋めた顔を顰めた。

「いいじゃん」

「よくねーよ、話聞いてたか?すげーピンチだぜ」

 皮肉で返されたと勘違いした佐藤に、俺は訂正する。

「いや、まともだなーって思って」

「なんだそれ、武もまともじゃん」

 そうだろうか。

 いつから普通は離れていったんだろうか、と考えた。配信は上手くいっているようだった、コラボなんかして、たまに昔の友達と遊ぶと言って、ヒラリと出て行ってたはずなのに。

 有推はどこかに行ってはいるようだったが、どこなのか聞いてもヘラヘラと笑われた。大学ではないだろうとは思っていた。なんていうか、挙動がおかしいのだ。帰って来たらしばらくはリビングでニコニコしているのだが、5分もすれば地獄の底みたいな顔をして部屋に入っていく。

 外で怪しい薬でも飲んできて、バットトリップしてるのかと勘繰ったこともあった。

「お前のとこの彼女はどうなの?」

 佐藤はマフラーの隙間から漏れる白い息をふかし、ニヤニヤしながら聞いてきた。

「随分前に別れたって言ったろ」

「そっちじゃなくて、今同棲してるって子」

「…ああ、そっち」

 佐藤にどこに住んでいるか聞かれた際に、有推のことを話したことがあった。

 教育学部の佐藤は同居人が女だと思っているのだが、訂正もしなかった。有推のことを知らない人間に男と同居していると言うと、変な反応を返されることがあったからだ。

「ほら、サークルもバイトも辞めたって言ってたから、心配してただろ。なんか別のことやってんの?」

「んー、さあ」

 答えられなかった。

 有推は一体、どうしてしまったんだろう、とどこか他人事のように思った。

 買いたい雑誌があるという佐藤についてコンビニに寄り、ATMを触り入金履歴を確認した。心当たりのない数字が、見覚えのない文字から入金されているのにも慣れてきた。

 有推は家賃を俺の口座からの引き落としに変更した際に、通帳の口座番号を盗み見ていたのだと思う。

 いつからだったがもう覚えてないが、有推の稼いだ配信の金が、俺の口座に振り込まれるようになっていた。

 レジで光熱費の納付書を出し、支払った。その足で図書館に行き、佐藤と教職の勉強をしてるところで「あれ、タケくん」と声をかけられた。

 一年振りでも、おじさんは全然変わっていなかった。

 品のいい柔らかな目尻が、少しだけ有推を思わせた。

「教職ちゃんとやってるんだね、教師になることにしたの?」

「就活に使えると思ったからやってるだけです」

 佐藤がこちらを見る視線を感じた。

「使えるかなあ」

「普通に、使えるでしょう」

「もうすぐ就活だと思うけど、あの子はどんな感じかな」

「よくやってますよ」

 おじさんは「なんだか、嫌われちゃってるのかな」と言って、前に座る佐藤に目線を向けたようだった、佐藤は答えづらそうに唸った。

 俺は佐藤に申し訳なくなり「俺は誰にでもこうで、すみません」と頭を下げると、おじさんが薄く笑った音がした。自覚しているなら救いようがあると言わんばかりの態度だった。

「面接の対策はしっかりしておいた方がいいね。それと入る会社はちゃんと考えた方がいい。社会との関わりがないと、人間ダメになるから」

 うるせえよ。

「あの人、見たことあるんだよな、あ、ほら、A棟でたまに学生のカウンセリングとかやってなかったか?」

 おじさんが去ると、小声で佐藤が話しかけてきたが「知らない」と返した。

「俺も行ったことねえけどさ、結構人気だったと思うぜ」

「ふーん」

「なんだ、今日機嫌悪くないか?」

「いや…、そんなわけじゃないけど」

 佐藤は教科書に目を落とし、落ち着きなく右手でペンを回した。

「にしても、就活って、聞くだけで嫌になるワードだよなぁ」

 窓の外で小さな粉雪が舞っているのが見えた、教科書を目で追うより、思考が整理されていく感覚がした。

「どうすっかなぁ、マジで。教員で東京とかいう選択肢ねぇよ」

「なんとかなるだろ」

「武、そうやって甘く考えてたらいつか痛い目見るんだぜ」

 佐藤はこれ見よがしにはぁ、とため息をついた。真面目な佐藤らしくなく勉強に身が入っていないのは、例の彼女とのことが気がかりだったのだろう。

「話し合ってみるかぁ」

 不本意だったが、おじさんの言葉はきっかけになった。

 有推は部屋を出る理由がなくなったから、こんなことになってるんだとしたら、有推に必要なのは、サークルとか、バイトでの必然的な人との関わりなんじゃないか、という考えがまとまるきっかけだ。

 有推の引きこもりは一か月目に入っていた。

 餓死寸前の人間にまず固形物をあげてはいけないように。薄く溶かしたお粥からあげるように、一歩一歩復帰すればいい。有推は配信で多少のお金を得ている、社会的に自立していると言える。時間ならたくさんあるし、そんなやついくらでもいるだろう。この間20になったばかりの有推には些細なことだ。

 雪を踏みしめながら、コンビニで買ったケーキの入ったレジ袋が、傾かないように歩いた。

 扉を開けると、夜でもないのに室内は暗かった。

 また出ているのかと部屋に上がって、リビングに誰かが立っていると気づき体が跳ねた。

「な、なんで電気消してんだよ、びっくりした」

 俺は手探りで電気のスイッチを押した。明るくなった室内で、金色が所在なさげに立っていた。不気味だと一瞬感じて、振り払うように前に踏み出した。

「色々考えてたら、気持ち悪くなって」

 久しぶりに聞いた声だった。

「ええ、大丈夫か?」

 弱々しい声に体調が悪かったんだろうかと感じ、歩み寄ると、有推が足を一歩後退させた。

 俺は嫌な予感がした。

 予感なんて言い始めたらずっとしていたが、この時ばかりは核心に迫った心地だった。

「何が、そんなに気持ち悪いんだ?」

「タケ」

 ふた文字が、耳に残った。

「………」

 俺は、悲しめばいいのか怒ればいいのか分からなくなった。

「俺が、何したって言うんだよ」

 縋るような声が出た。

「どうしたんだよ、お前」 

 答えは簡潔だった。「髪の毛が落ちてたんだ」と一言だけ。

 それだけで俺は、ああ、と納得できてしまった。

 有推に感じていた違和感がすべて、この一言に凝縮され、あれほど分からなかった異変と原因をすんなりと結びつけた。

 有野からどうしてもとせがまれて、一度だけ家に入れたことがあった。

「…有推の部屋には入れてねえよ」

 それだけは断った。

「わかってるよ、タケはそんなんしないって。なんかさあ、なんか…」

 有推は言葉を探るように口を動かし、一息を置いて声に乗せた。

「なぁ、ヤった?」

 俺は言うべきか一瞬、迷った。

「一回、だけ」

「あはは」

 有推は俺の横を通り抜け、トイレの扉を開けて、しゃがみ込んだ。引き絞った嗚咽が聞こえてきて、俺は廊下に覗く小さな背中に、恐る恐る近づいた。

 細い体を丸めて毛玉を吐く猫みたいに、吐瀉物を便器に吐く有推を見た。

 

 ああ、やっぱり有推はおかしいんだ。

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る