デトックスラブ

@derara12124

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 これを読んでるあなたは高校の入学式の記憶を覚えているだろうか、ちなみに俺は覚えていない。



 入学式。

 桜が咲いていただろうことは予測できる、思い出そうとしてまずサクラを思い浮かべ、これって俺の記憶ではなく、想像で作ったサクラなんじゃないか?とすぐに気づいてやめた。

 高校2年の夏だった。

 その頃にはもう入学式の記憶は遠い過去に思えた。

 俺はいつからか俗に言うスレた子供だった。

 入学式なんて何がおめでたいんだ、と考えていた。当事者意識もなく、むしろ当事者からそれらのおめでたいとされる行事の数々を冷ややかに見下していた。

 先生がルーティンで決めた行事の数々をこなし、3年になれば同じような椅子の配置で体育館に敷き詰められ卒業式、どうせ大学でも似た感じで、四年過ごして入社式、晴れて立派な社会人。俺以外の誰も、こんなものは工場のベルトコンベアーだ、なんて思わないんだろうか。

 タチが悪いのは、それに並ぶ商品は大人から見てキラキラして見えるのだと言うことだった。

 大人は言う「あなたの未来は無限なんだから」と大嘘をつく。この世界の何億人の子供がそう言われ、大した夢もなく生を終えたことだろう。

 俺の両親は公務員だった。母親は教師で父親は市役所職員、よく言うお堅い職業というやつ。そんで仲も良くなかった。会話なんてほとんどなくて、母親はマシーンのように家事をこなして、父親は遅くに帰ってきて仏頂面。それぞれが自室に籠り、晩飯ができると母親の呼び声でテーブルを囲む。テレビの音だけがする食事中にふと、なんだか彼らの視線に、俺に対して何者かになるかもしれないと言う期待を持っているようだ、と感じたことがある。夢を失った大人は子供に夢を見る。俺はそれがどうしようもなく気持ち悪くて、彼らと将来について話をしたことはない。

 俺の成績は割といいみたいで、先生に何度か褒められたことはあった。本気で言ってるのかもよく分からない大人の褒め言葉を受け流して、それなりに勉強はできるのは2人の頭が良かったからで、そこに俺である必要はないと考えていた。子供は親2人を足して割って出来たクローンだ。俺が俺である必要性はこの世のどこにあるんだろうか。なんて痛々しくも高尚なことさえ考え始めていた、夏の日だ。

 俺はクーラーの効いた自室のベットに寝転がってYouTubeを見ていた。暇つぶしというカテゴリにおいて動画は最大シェアを誇っている。俺がただ生きている間にも健気に更新されるいくつかの動画を見終えても余る時間を、関連動画をスクロールして潰していると一つの飲酒配信が目に止まった。無数にも思える動画の中そこで手を止めたのは、見ている人数の少なさからだった。

 視聴人数30人のライブ配信。

 カメラの画角は顔が見えないようにテーブルの前に座る男を映している。画面の右側を覆うような酒の瓶。よほど母親に嫌な思い出があるのか。母親が馬鹿女だと言い捨て、恥ずかしげもなく喚く姿が映されていた。

 こんな配信をなんの因果か30人見てるとは。この内容ならむしろ30人は多いのかもしれない、そのうちの1人に俺が入ってることも新鮮だった。

 こんなに酔ってたらカメラがずれて顔が見えるんじゃないか、そうなったら少し面白いかもな、なんて思い、ブラウザバックをせず30分ほど見続けた。人でなしだと罵られることを覚悟してぶちまければ、見るからに弱い人間を見ていると自分の中で癒されるものがあったが、見続けても得られるものはなさそうだった。ただ共有もできない怒りを声に乗せ、酒をかきこむ哀れな男が映っているだけだ。話がループするようになり次第に飽き始めた頃、男の指が机を叩く音がやけに気になるようになった。「トントンやめてー」と女性っぽいコメントが流れるも男はやめない、しばらくそれを聞くうちに、ああ、これモールス信号だ。と気づいた。

 俺は以前中二病を患っていた時、暗号解読について多少の知識を得ていた。手旗信号もモールス信号も、生きる上で必要のない知識を無駄に知っていた俺は、すぐに画面の男の感情が手に取るように分かった。

 こいつはリスナーを馬鹿にしている、見てる女には暗号は解けないとたかを括っているのではないか、と。

 俺は知識を活かせるのではないかと思い、起き上がって、イヤホンから繰り返されるトントンと言う音をノートに書き写した。

 書き写すと程なく配信は終わった、「おつかれー」「明日もよろしく」と流れる無機質な文字。それを横に置きノートに向き合った。これは予想外ではあったんだが、モールス信号を文字に起こし、意味をなしていない文字列をシーザー暗号で50音順に一つずらすと住所になったときには、なんだやけに凝ってるな、と感心した。

 暗号解読を終え三日ほどして、YouTubeチャンネルは消えた。

 それから、俺はなんの変哲もない大学生になった。

 大学の入学式は高校時代に想像した退屈なものと寸分の狂いもなかった。県内のそこまで偏差値も高くない大学に入学し、決められているノルマのように校門前で写真なんかを撮った。高校3年から家では猫を飼い始めて、猫について交わされる言葉によって、時が止まったようだった家の中は正常さを取り戻し始めていた。大学を決める段階で高校の先生にも、親にもいろいろと小言を言われたが、3人の薦める大学に行きたい気持ちはかけらも沸かなかった。反抗期を変なタイミングで拗らせた結果なのかもしれないとも思ったが、そんなものか、と思うだけだった。

 ところで俺の人生初めての暗号解読がどうなったかについて、俺はサラサラ興味を失っていた。いや、とりあえずGoogleマップで調べてみたんだけど、住所を入力すると近くの山が映された。意外と近い山だと驚き、もしかして自殺場所を伝えてるのかと思ったら、そいつは死んでもないのに転生していた。なんと、vtuerになっていた。

 ネット用語で配信者がvtuerに生まれ変わることを転生というらしい、同時視聴人数は100人くらいになっていた。これはvtuerの中では割とすごいことらしく、個人勢やら企業勢やらなんやらコメントで言っていたが俺は詳しくなる前に見るのをやめた。俺がそれを見つけたのはまたもや偶然で、彼は声が特徴的なのですぐに分かったと言うわけだった。少し濁声でいわゆるイケボじゃない声が女の子の顔から発されてるのには流石に驚いたが、不満を世界に撒き散らせていた彼は元気でやっているようで明るくコメントを返していた。





 キャンパスでやけに整った顔のイケメンと知り合ったのは、入学して1週間後のことだった。

「タケ、講義行こうよ」

 有推 妬(うすい やく)

 ギラギラの金色に染めた髪がトレードマークの、目立つやつだ。

 俺たちは同じ学科で同じ授業をとっていて、入学早々に遅れて講義室へ入ってきた有推に、レジュメを見せてくれと頼まれたことが知り合ったきっかけだった。ヤンキーに金蔓と見込まれて声をかけられたかと警戒したが、見た目に反して人懐こい有推と打ち解けるのに、さほど時間はかからなかった。

 廊下で声をかけられ一緒に歩いていると、遠くから就活セミナーの声が聞こえてきた。有推は俺より少し低い位置から声を上げた。

「俺思うんだけどさ、就職試験に面接を設けるのって効率悪くない?それに一般企業に勤めるってさ、なんか夢ないよね」

 とまあ、有推はこういうところがあった。

 悪いやつではないのだが、一般的な労働に対する反発心があるようで、批判に同意を求めてくる。

 俺は有推と話していて嫌になると大体「んー」と曖昧に返していたのだが、そのニュアンスをうまく悟られたことはない。要は、空気が読めないのだ。有推はまた批判をする。

「俺、資格を取っておいた方が就活有利だよ、ってこないだ先輩に言われたんだ、なんか、そういうのが嫌なんだよな」

 ぶつぶつと言う有推に「お前は免許くらいは取った方がいいかもな」と返した。資格大国日本で、有推は将来どうするつもりだったんだろうか。

「なに、タケは他になんか取るの」

「教職の資格取るつもり」

「うえ、ほんと?」

 答えると、あからさまに嫌そうな顔をした。

 その顔もまた絵になるのだ。

 有推は金髪に目が行ってしまうが、容姿を活かせる職であればそこそこいけるだろうと思うほどだった。これは俺の主観に限らず、4.5人から囲まれてチヤホヤされているのを見たことがあった。

 でも、活かすと言っても営業は無理だろうな、多分。

 喋り方が独特なんだ。なんだろう。意図的にハキハキ喋っているんだろうが、不自然さが人によってはイライラするのかもしれない。

 それでも有推はやけに人懐っこくて、周りには人が集まっているみたいだった。

 隣にいてもよく誰かにラインをしていたし、俺も例に漏れず、意味のないラインが送られてきていた。何になりたかったのか、自作の詞を文節ごとに送ってきてどうかな?と聞いてくるなど、有推には痛々しいところもあった。どうもこうもない、と送ると、笑いのスタンプが返ってきたっけ。

 まあ、とにかく必ず返信するようにはしていた。

 浅く狭い交友関係で大学生活を送っていた俺にとっては、有推は付き合いの深い友達になっていった。

 入学から一ヶ月ほど経った頃。

 教職の資格取得課程についての説明を受けるために学内のロビーに集まっていた俺は、説明を終えて家に戻る途中、広場に人が集まっていのを見かけた。

 その頃の有推は演劇サークルに入っていた。

 容姿の整った者ばかりでなく、顔や身長のバリエーションが豊富な中、日の光に照らされた金髪は輝いて、周囲を照らしているようだった。

「タケ!」

 手を振られたので振り返し、昼ごはんがまだということで一緒に食堂に行った。

 食堂ではサークルの飲み会が多いことを愚痴られた。

 人と接することが好きな有推にとっては喜ばしいことなのではないかと思ったが、有推は頬に手をつき「金がないんだよね」と溢した。

 バイトをアホほどやってる事は知っていたが、有推は地元だというのに一人暮らしをしているため、バイトの稼ぎでは足りないらしかった。

 俺は実家暮らしだったが、一人暮らしともなると家賃、光熱費、食費、諸々と金がかかる事は想像がついた。

「家が近いんなら実家から通えばいいのに」

「大学って言えば、実家出て一人暮らしデビューだよ」

「分かるけど、仕送りとかないのかよ」

 難しい顔をしたので、無さそうだなと思った。厳しめの両親なのかと意外だったが、有推のしかめ面は一転、アイデアを閃いたように明るくなった。

「そうだ、一緒に住まない?」

「誰が?」

「誰って、俺とタケだよ」

「なんで?」

「家賃が半分になる」

 俺は、特に深くも考えず「いいよ」と言った。冗談だと思ったのだ。

「じゃあ、いつ引っ越してくる?」

 有推のはずむ声に、口に運ぼうとした箸を止めた。

「もしかしてマジで言ってんの?」

「うん、あ、どこに寝るのかとか決めようか、俺ん家の間取りは、ちょっと待って」

 有推はカバンからノートを取り出して、白紙のページに間取りを描いた。

 着々と進んでいく同居計画に相槌を打ちながら、どうやら有推の中で俺は、同居を申し出るほどには結構上のランクの友達らしい、と思った。

 有推は、大学に程近い3階だてアパートの102号に住んでいた。

 大学の近くのアパートは大学生向けに破格で賃貸を貸し出しており、家賃を聞くと相場をよく知らない俺でも安いと思えた。折半にすれば負担も半分、合理的で魅力的な誘いだ。

 改めて断る気にはならなかったし、特に障害もなかった。

 一人暮らしをすると親に告げると心配もされたが、友達とルームシェアだと教えると納得してくれた。母親は大学のうちは勉強をしてほしいと言い仕送りを約束してくれたので、俺は大学時代にバイトを経験することはなかった。今思えば少しくらいやっても良かったと思うが、どうせ社会人になれば嫌でも仕事をするので特に後悔もない。

 引っ越し業者に頼むほど大仰にしたくなかったので、本もゲームも、娯楽と呼べるほとんどのものは実家に置いて行った。少しの衣服と大学の教材を抱え、引っ越しは1日の午前中で終わった。

 トイレ掃除、風呂掃除、食事の準備、全ての当番をルーズリーフに書いて、日替わりで交互に振り分ける作業は俺がやった。急拵えの当番表を壁にテープで貼りながら、これでバイトを減らせるとニコニコ顔の有推に感謝されるのは、悪い気分じゃなかった。

「タケ、俺のスマホ知らない?」

「またかよ、テーブルに置いてたの見たぞー」

 起き上がり、有推はよくスマホがどこにあるか聞いてきた、目が合うと大きな目を細めて「おはよう」と言われた。

「…おはよ」

 朝起きて挨拶をするのは慣れなかったが、不自由はないと思っていた。 

 

 

 

 

 同居を始めて三日目にして、ああ軽率だったな、と思った。

 有推が荒れた。

 102号室は1LDKで、リビングの横に一つ扉で区切られた部屋があった。

 家賃は折半と言っても家主に遠慮して、部屋には有推がベットで、俺はリビングでフローリングに布団を敷いて寝ていた。

 真夜中の1時ごろだったと思う、ぼふ!ばすん!と何かが破裂するような鈍い音がした。なんだと思い、音のする部屋の扉を開けて覗いたら、有推がベットの布団を蹴りつけていた。電気を消した部屋で、1回や2回じゃなく何度も足をあげて蹴り続ける男の後ろ姿は、暗闇も手伝い異様だった。鶴の恩返しではないが、この世には見てはいけないものもある、ここが一階でよかった、と頭の片隅で考えてもいた。

「…話しかけていいか?」

 扉を開けてしまった手前、見て見ぬ振りもできず断ると、繰り返し蹴りを繰り出していた有推は足を下ろして黙った。息を整えた後、振り向かずにつぶやいた。

「タケはさあ、女と付き合ったことってある?」

「…ないな」

 正直に答えると「じゃあダメだな、多分」と言われた。

 有推は多分とか、なんかとか、曖昧な表現が好きなやつだった。

 最初は、有推にもそんな日があるんだな、と軽く考えていたが、月に一度はそうなった。月経と同じ周期だったので、まさか有推は実は女なのかなんて考えもよぎったくらいだ。

 俺は有推のそれについて関わる気はなかった、いや、何度かは言ったことはある。

「足が痛くなるぞ」とか「やめておいたら」とか、まあどんな関係でも言える言葉だ。そんな気休めで有推はベッドへの虐待を止めなかった。俺は次第にその日が来るのが嫌になっていった。誰でもそうなると思う。人間、近づきすぎると嫌な面を見ることだってある、それなら相応に、適度に距離を保って付き合った方が賢いと思える。

 同居をやめることを告げようかと考えていた矢先、何気なくポストを見ると、一通の封筒を見つけた。

 茶封筒だ。

 送り先にはここの住所と有推の名前が書いてあり、送った人の名前も住所も書いていなかった。郵便物をリビングのテーブルに置き、その日の夜、また有推は荒れた。

 謎の郵便物が月に一度送られてきて、その日に有推は荒れるのだと分かった。

 少し経って、大学内のコンビニで、ポストに同じ茶封筒を投函する有推を見かけた。有推は手間だろうに、送られてくる封筒に毎回律儀に切手を貼って、住所を書き、送り返していたのだ。一連の動きは奇行と言っていいだろう。

 段々と、有推を見るたびに、思考に封筒がちらつくようになった。

「封筒の中、見たことあんの?」

 テレビを囲んで晩飯を食べている時に、思い切って切り出してみた。

 有推は料理が全くできなかったので、俺が当番の時は有り合わせのものを作って、有推が当番の時はコンビニ飯というルーティンになっていた。

 焼いた鯖を美味いといい、テレビを見てケラケラと笑っていた有推は一瞬、表情をこわばらせた。久々に見た、ベットを蹴る時の有推の顔だ。二回目までは心配になって部屋を覗いていたが、三回目以降は今日もやってるな、と耳を塞いでいた。

 多分、有推は俺より付き合いの長い自分自身の気質について理解していたんだろう。アンガーマネジメントが全くできないタイプの人間は同居に向いてない、この辺りで有推は俺と同じように、同居解消を提案しようとしていたのかもしれない。

「ごめん、嫌だよな、俺。タケが気にしてんの、分かってるのに」と、暗い顔を俯かせた。

 俺はそっけないふりを装って、ほぐれた焼き鯖を箸で掴み上げて言った。

「見たくないなら、俺が開けてやろうか?」

 俺としてはかなり勇気を出した発言だったが、有推はこの世の全てを馬鹿にするように笑った。

「中に何が入ってるのかは知ってるよ、金だよ」

「金」と俺は反芻した。

「口座番号教えてないから、送ってくるんだ」

「ああ…、そう」

 封筒の中身は親からの仕送りか、謎が解けたが、スッキリもしなかった。金に色は付かないんだし、貰えばいいのに。俺にはイマイチよく分からなかった。暮らしていく中で親の話をした事はなかったが、反応から折り合いが悪いのだ、と察した。

「でもさ、今のままだとお前はマイナスだろ、切手代が勿体無い」と言うと、くっきりと眉間にしわを寄せた。

 苛立ったようにも、ポストに投函する姿を見られていたことへの恥もあるように感じた。

「じゃあおまえがもらってよ」

 なにがじゃあ、なのか分からなかったが、有推は箸をテーブルに叩きつけ、部屋の扉を開けて封筒を持って戻ってきた。何言い出すんだ、こいつ。俺は奇行もここに極まったと感じた。茶封筒を差し出してくる手を「いやいや…」と押し返しても「ゴミだよ、紙切れとおなじ」なんて罰当たりなことを言って、尚も渡そうとしてきた。

 金が紙切れと同じ価値なわけないだろ、といった正論を返したところで有推は機嫌を降下させたに違いない。俺は「んー」といい考えるフリをした。この時の有推の言動は終始感情論に振り切っており、手に負えなかった。

 俺の口座にも親からの仕送りは来ていたので、茶封筒の中にあるらしい金に短絡的に意味を見出すことはできた。この茶封筒には、有推への情がこめられてるんじゃないか、と。俺だってそんなものは受け取りたくなかったが「捨てようかな」と真顔でポツリと言われ、有推の奇行を目にしていた俺はやりかねないと焦り、それを受け取ってしまった。

 茶封筒には折り目がついた一万円札が1枚入っていた。

 念の為に中を確認したのだが、嫌に生々しくなった。

 預かってもいいけど、あとで返すからなと伝えたが、そっぽむく有推がちゃんと聞いていたは怪しい。俺は有推の態度に、金の管理は大丈夫なのかと不安になった。

「…有推、お前さぁ」

「なに」

「ここの家賃とか光熱費とか、ちゃんと払えてるよな」

「さあ、なんも言われてないからできてるんじゃない?」

 若干の苛立ち混じりに、箸を掴んで鯖を貪る有推はガキみたいだった。

 まどろっこしいが、俺の口座から引き落としへの変更を提案した。

 俺の口座からなら、無駄遣いをしなければ金が底をつくことはないので毎月正常に引き落とせて、アパートを追い出されることもないだろう、という考えだった。有推に金関係を任せたら家賃や光熱費などの折半が、本当に折半なのか疑わしくなる、という疑念もデカい。

 助かるよ、と言う有推に、こいつは一人暮らしをどう乗り切るつもりだったんだ、と呆れ返ったものだ。

 この時に俺は有推と、卒業まで同居する覚悟が決まったのだった。

 




 有推はその肩に怨念が乗っかっているのかと思うような激しいローの日もあれば、どちらかといえば元気な時が多かった。

 ハイな日といえば、演劇サークルの舞台の朝は随分と気合が入っていた。

 普段は食べない朝飯を用意して、パンを齧りながら立ち鏡の前で櫛をとくものだから、パンのカスが落ちると何度か注意したことがある。

 俺が誘われて見に行った劇の中で有推が目立った配役をしていた事はない(俺が思うに、一年のうちは派手な金髪に役を制限されていたんじゃないか)ちょい役でも凛々しい声で迫力があり、光る金髪をたなびかせる有推がどこにいるのか遠目からでも分かった。

 記憶に残っている演劇がある。

 ある街に住む青年の話だ。

 青年は勉強ができたが、家業を営んでいる実家が立て続けな不幸に会い、青年はあり得たかもしれない未来を捨て実家を継ぐ。これで結婚して地元で幸せに暮らしました、なら俺も忘れていたと思うが、それからの青年の人生は悲惨そのものだった。学生時代からの友人に裏切られ、親から引き継いだ借金は重み、仕事に忙殺され妻に愛想を尽かされる。こんなことなら実家を捨てた方がよかったんじゃないかと同情心さえ湧いてくる終わりには、青年が1人舞台の上で「これが俺の人生だ!」と叫びカーテンロール。映画もハッピーエンドの有名どころしか見ない人間だから、救いようがない物語もあるのだと戦慄した。脚本家は病んでいたに違いない。

 有推はこれがまたいやらしい役で、父親の残した借金を主人公にせびるのだ。「親の業は子供の業ですよ」といい始めた時はこんな分かりやすい三下悪役いるかよ、と顔を覆おいかけた。もちろん有推の勇姿は目に焼き付けたが、あんな役俺なら願い下げである。劇終わりの有推の表情が汗をかいてキラキラしていたので、まあよかったなと拍手した。

 芸術方面に興味のない俺がその劇だけよく覚えているのは、劇が終わり、出口まで出演者が互い違えに並ぶ道で(劇に行くたびにこの光景を見たが、なんと言う道なのかは知らない)有推が知らないおじさんと話していたことも大きいだろう。

「ああ、お友達かな」

 俺に気づいた有推が「タケー!」とうるさく手を振るもんだから、おじさんはこちらを向いた。

「タケくんって言うんだ」

「どうも…」

 50かそこらのおじさんだった。紳士的な身なりのいいおじさんは品のある会釈をして去っていった。親しげに手を振る有推に、俺は聞いた。

「誰だ?」

「お世話になった人、見に来てくれるんだ」

「ふーん」

 具体的な答えではなかったが、聞いて俺もすぐに去ろうと思った。ただでさえ道は狭く、話し込むと新しく劇場から出てきた人がつっかえてしまうのだ。立ち去ろうとすると有推はひょいと演者の横並びから抜け出して、会館の出口まで付いてきた。

「いいのか?」と聞くと「脇役だしいいよ」と開き直った。

「劇はどうだった?」

 演劇の感想を聞かれ、正直に「気分悪くなった」というとケラケラと笑った。汗をかき、血色の良い肌で、劇に出演する日の有推は1日を通して晴れやかだった。

「俺もあれ嫌いなんだ」

「え、そうなのか?」

 スッキリした顔をしてたから意外ではあった、演じることが好きなら内容は達成感に関係ないのだろうか。

「あれは才能のある奴が環境に食い潰される話だよ」

「言い方…」

 言葉にするのもどうかと思うが、もやもやの言語化として正しい気がして、俺は内心同意した。

「よっと」

 有推は好みなのか、体型が隠れるゆったりとした服を着こなすことが多かった。歩いてる俺の横、市民会館の広場に彩られた花壇の縁にトン、とジャンプし、ふわりと服が風に膨らんだ。

「うわ、あぶねえって」

 有推は俺より20cmくらい頭上から、平均台を渡るようにポピーの花の横を進んでいった。

 俺は有推のことを決して器用な人間だとは思っていなかったから、並行しながら、落ちても支えられるように神経を尖らせていた気がする。

「タケも演劇サークル入ればいいのに」

 有推は俺の気も知らないで、流れるようにそんなことを言った。

「は?やだよ」

「なんで?みんなタケのこと知ってるよ?」

 ズレたことを言う有推に「どうせ俺がいたら面倒見てくれるとか思ってんだろ」と言うと「そんなことないよ」と白々しく返ってきた。

 有推はスマホをリビングに置いても、置いたこと自体を忘れるようなルーズなやつだったから、俺は「どうだか」と言った後に「そもそも」と続けた。

「俺に演劇なんか無理だろ。あんな舞台で走り回ったり、みんなの前で大声上げたり、台本覚えて…無理だな、想像も無理」

「なるようになるよ」

「無理」

 もう一度言っても「えー」と有推は食い下がった。

「あ、演劇サークルに簡単に入れる方法、教えてあげようか?」

「なんだよ」

「タケも金髪にすればいい、そうすれば度胸つくよ」

 イタヅラじみた声が上から降ってきたので「バカかよ」と突っ込んだ。

「あはは」

 有推は上気した顔で満足げに笑った。ふわりと飛んで、地面に難なく着地した。今日の晩飯の話などを終えると、サークルに戻って行った。

 サークルの飲み会もあるだろう有推を置いて、家に帰ってソファで寝ていても、舞台に立つ有推が瞼の裏にこびりついていた。スポットライトのあかりに照らされる金色の、あの横に俺が並ぶことはないだろう、と、これはほとんど確信的にそう思った。

 演劇なんて感情表現の最たるものだ、俺にはできないだろう。

 俺は人より感情の起伏が弱いみたいだ、と感じたのは大学入学前だ。

 実家で飼っていた猫が急病で死んで、俺と両親は死体を近所の公園に埋葬した。猫は10年生きる生き物だと言われていたから、2年もしないうちのペットの死は唐突でショッキングなものであるはずだった。盛りあげられた土に合掌をして、悲しみよりも何秒くらい目を閉じるのが自然なのか考えている自分に気づいた。

 気づいてすぐに、無理もないかと他人事のように思った。

 俺の実家では誰もが、感情を殺してロボットみたいに過ごしている。そこで生まれて育った俺もそんな人間になるのは、ごく自然で当たり前のように思えた。

 

 

 

 

 同居し始めて半年も経つと有推の挙動に慣れはじめた。

 有推も落ち着いてきて、理解のできる範囲でテンションを上げ下げするようになった。

 ベッドへの虐待も無くなった。

 茶封筒の来る日付がわかるようになった俺が、朝イチにポストを確認して回収していたからだ。有推はおそらく気づいていたが、何も言われなかった。

 バイトもサークルもない暇な大学生の俺とは違って、有推は忙しなかった。俺と有推では、玄関の扉を開ける回数は三倍くらい違っただろうと思う。

 サークル内で有推は評判を上げているみたいだった、どうやら有推目当てのファンができ、演劇を観に来るようになったらしい。一概に顔の良さからというのもあれだが、大学の演劇サークルの演技力なんて俺には一緒に見えるのでなぜウケたか評価はしづらい。バイトでは店長に気に入られていたらしくシフト表なんかも作る仕事を任されていて、俺はよくリビングで愚痴を聞いていたので、演劇サークルとバイト先の居酒屋の内情に詳しくなった。

 くたくたになって帰ってきて、バイトや演劇の愚痴などをこぼす有推は、本人的にはどうだったか知らないが見てて眩しかったものだ。

 俺も俺で、暇とは言え教職の勉強を取り組んでいた。

 大学のビオトープのそばにある小さな一軒家ほどの図書館。人が少なく、勉強スペースも設けられた静かな図書館の3階で、授業の空きコマに居座ることは多かった。

 机に座り勉強していると、以前、劇の終わりに会ったおじさんと再会した。あちらも俺の顔を覚えていたようで「ああ」と声を上げた。

「わたしはあの子の叔父にあたるんだけど、聞いてないかな?」と、聞いてないことを言われた。

 おじさんはこの辺りの土地に根ざした会社を運営しており、大学の学生支援にも携わっているらしい。「演劇サークルにも出資をしてるんだよ、演劇が好きなんだよね」とのことで、何の会社を運営してるのかは分からなかったが、風体通りの金持ちの道楽というところだろう。

 おじさんの話を聞く限り、有推の実家は裕福な家系ではあるようだった。となれば、仕送りが一万円というのは少ないだろうか、と思ったが、受け取ってもらえないことを分かっていて金額を抑えている可能性を考えた。

 回収した茶封筒はクローゼットの中の見えない箇所に重ねて置いていた。

 相手側は封筒が帰ってこなくなったことに、有推に受け取ってもらえてるのだと勘違いしている可能性は考えられ、それに対する後ろめたい罪悪感は常にあった。

「教師になりたいの?」 

 挨拶を終えれば去ると思っていたおじさんは、横から机を覗き込んできた。細まった穏やかな目は、机に広げる教育論の本を見ていた。不躾にパラパラとめくる、右手首の飾りの鮮やかな色に目がいった。

「いえ、別に。教職は取りたいんですけど」

「そう。教師にならないなら教職は重荷だよ」

 にこやかに言われ「…はぁ」と返事するしかなかった。

「教職は途中で離脱する生徒が多いんだ、皆んな資格だからって飛びつこうとするんだけどね」

 教職の資格は座学と実習を入れて64単位、3年生になれば3週間の教育実習を受けなければならない。1年の頃は受ける生徒は多いが、サークルやバイトとの兼ね合いや、3年には就活も重なるため離脱する生徒は多い。

 俺も受け初めて半年もすると、周りの雰囲気から薄々勘付いてはいたので、他人にわざわざ言葉にされてもな、と冷めていた。

「そうなんですね」

 反応の薄い俺に、おじさんは手を戻して話題を切り替えた。

「あの子は、大学でうまくやれてるかな?」

 おじさんは有推のことを必ず”あの子“と呼んだ。

 親戚にしては言いようのない距離感があった。

「はぁ、やれてるんじゃないですか?」

「そうかな。ほらね、あの子、少し人と違うところがあるだろう?」

「はぁ」

 探るような言葉を躱し、捲られたページを元に戻した。

「トラブルを抱えやすい性格だと思うんだよ、特にほら、女性関係とか」

 失った青春に手を伸ばすようなおじさんの言葉に苦笑して「どうでしょう」と明言を避けた。

 

 

 

 

 有推の女性関係について、一つ言えるのは部屋に女が来たことはなかった。

 有推に「この時間、家にいないように調節できる?」と相談されたことはなかったし。じゃあ外で会ってたのか、と記憶を探っても学内で特定の女性と歩いている姿を見たことはない。大抵は大勢のグループの中で一人、金色を靡かせていた。同じ学部の女子に「武がいるから彼女作らないんじゃない?」なんて冷やかしで言われたこともある。

 俺が有推と同居していることは学部では知れた話だった。

 有推が周りに言いふらすのだ。おかげで演劇サークルのメンバーから声をかけられ、ある程度の交流もあった。

「ねー、聞いてるー?」

「聞いてるよ」

 演劇サークルに所属する、同い年の有野からは執拗に聞かれ、せがまれて二人で食事まで行ったことがあった。会うたびに有推の話を振られるので有推目当てだと分かっていたが、一般的な基準から見ても可愛い子だったので目の保養にはなった。あと、胸がデカかった。

 会うたびにコロコロと色形が変わる服装は新鮮で、柔らかな頬の薄いピンクがチークによるものだと教えてくれた女性でもあった。

 有野は、有推に何度かアピールをしたことがあると言ってのけた。

「普通、ちょっとは反応があるじゃない、嫌いでも好きでも。あたしちょっと自信無くしちゃった」

「興味がないんじゃね?」

「ひっど」

 そっけない言葉を言うと肩を上げて嬉しそうにしたので、そう言うのが好きなんだと思う。

「有推くんってノリいいの。飲み会でさ、冗談で脱いでみてって言ったら上半身裸になったって話、もう言ったっけ?」

「…まじ?」

「まじ、ふふ、写真も撮らせてくれたんだから。間違えてお酒飲んでたんじゃない?ちょっとやばいのかと思った」

 有野の語る有推の話には、嘘だろと思うこともあった。

「隙だらけなのよねえ、押せばいけると思ったのに。ね、有推くんと一緒に住んでるんだから、好きなタイプくらいは知ってるでしょ?」

 どいつもこいつも、俺に有推のことを聞いて来た。

 そんなに気になるなら直接聞けばいいだろと突き放しても「でもさあ」なんて誤魔化される。数が極端に多いわけではなかったけど、感覚的にはうんざりした。だって、俺に聞かれても何も知らないから。

 俺が有推について知ってることなんて、情緒不安定で、人が好きってことと、好きな食べ物とかゲームとか(モンブランとFFが好きだった)そのくらいのものだった。情緒が不安定だと伝えると「ああそういうところあるよね」なんて世間話のように軽く取り扱われたが、そいつらが想像しているよりおそらく病的なものだから、俺は理解する気がないなら聞いてくるなよって思ったこともあった。

 誰もが有推の表面のキラキラしたところを食べて、俺が割りを食っているように思えた。

 反面「今日も反応なかったのー」と愚痴を聞くだけの役割に、別にいいか、と甘んじてもいた。

 受動的な人間のダメなところが出ていたのだと思うのだが、食事を誘うラインが来て、講義終わりに馬鹿正直に向かった居酒屋で、有野は「ねえ、本当に気づかないの?」とぶすくれた。

 有野は途中から俺を狙っていたらしい。

 大学生活で初彼女ができた。

 有野は正直に伝えることが美徳だと思っているタイプの人間だった。

 付き合って3日目くらいで、経験人数を聞いてもないのに聞かされ、割と引いた。世に言うビッチだったんだと思う。心の底から好きってわけでもなかったが、誰かと恋人関係にあるっていうのは安心したし、有野はそばにいる分には楽だった。

 有推に女と付き合ったことがあるか聞かれて正直に答えたら「タケに相談できない」と言外に言われたことを、無自覚に気にしていたみたいだ。

 有推の奇行の真意が分かるようになるのかと考えたが、特段何も分からなかった。

 ただ、こういうものか、とは思った。

 柔らかい二の腕、桜貝みたいな小さな爪、折れそうな首の滑らかさ、男にはないものを持っていた。何気ない会話の中で鈴の音みたいにクスクス笑うのに、どうにかしてやりたいという衝動に襲われた。

 同時に、付き合っていく中で向いてないな、とは思い始めていた。

 気分が沈んだ状態の有野に接して「優しいね」と言われても、有推の対処に慣れてるからだと思うと嬉しくもなかった。

「優しいね」が「誰にでもそうなの?」になり、「私じゃなくてもいいよね」になった。言葉に詰まったら見たことのない恨みがましい鋭い目ですくめられ、女って怖いんだなとシンプルに思った。

 最後に、付き合ってくれたお礼のプレゼントのように「有推くんってさあ、YouTubeやってたって噂知ってる?」と教えてくれて、その日に振られた。

 

 

 

 

 例の劇ではないが、不幸ごとは重なるものだった。

 その日の有推は極端に疲れていた。いつもの労働の疲労とは種類が違う、精神的な疲労を感じているように見えた。

 有推は買ってきたコンビニのお好み焼きをチンして、湯気を上げる鰹節を見ながら「辞めようかな」と呟いた。

 話を聞くと、演劇の楽屋にファンが押し寄せるようになって、サークルから迷惑がられているらしい。1から100まで有推に落ち度はないと思えたが、この世の終わりかのように参っていた。「演劇に来るなら動員になっていいだろ、サークルだって利益がある」と俺が言っても、全く響かないようだった。

 会話が途切れたので「俺も、教職やめるかな」とノリで言ってみた。

「えっ」

 有推のセリフとおんなじことを言ったつもりだったが、驚いた声を上げられた。濃いまつ毛に縁取られた目が俺を見る。

「タケ、教師になりたいんじゃないの」

「いや、…別に」

 教師になりたいなんて思った事はない。

 有推にもそう思われてたことに気が抜けて、なんだか馬鹿らしく思えて来た。

 教師にならないのに何のために資格を取るか?

 資格を取らないと面接でアピールできなくて、つまり無価値になるってことだろ。

 おじさんの何気ない言葉は、自分の価値を保障するための行動だと自覚させられて、裏返せば自分自身には取り柄と呼べるものは何もないことを突きつけられた気分だった。

 振られたこともあいまって、積み上げてきた何かをリセットしたい心境になっていた。俺にしてみれば、どこか他人事のように考えて、辞めても、辞めなくても、どっちだっていいとすら思った。やめるなら早くやめたほうが得だろうと考える俺の前の、大きな目が逡巡するように右下に向き「やめないほうがいい、もったいないよ」と、止められた。言い返そうとする前に、有推の口が開いた。

「だって、タケはできるじゃん」

「………」

 この時の感情を、なんと表現していいか分からない。ただ、ずっと誰かにその言葉を言われたかった気がした。

 空いていたパズルの穴にピースがはまったみたいに、柄にもなく、浮かれてたんだと思う。

 冷静になれば、有推は俺に何が”できる”と思っているのか、言葉が足りなさすぎて伝わらない薄っぺらなセリフだったのだが、俺は曖昧な有推の言葉を頼りに、最後までやるほうに舵を切った。

 口内に広がるソースの味を噛み締めながら「有推って配信やってんの?」と聞いた。

 有推は箸を止めて黙った。地雷を踏んだのかもしれないと思ったが、すぐに顔を上げた。金色が蛍光灯に照らされ薄く白み、有野とデートで見た水槽の中の、ぎらつく鱗を想起させた。

「ちょっとやってたんだ。今は辞めた」

「なんでやろうと思ったんだ?」

 純粋な疑問だった、俺はやろうと思った事もないし、気になって聞いてみた。

 夢というやつだろうか、俺には分からないことだった、俺には、有推に関してはなんでもそうだったが。

 なんでそんなに感情の起伏が激しいのか、そういう病気なのか、親と何があったのか、なんで俺に同居を申し出たのか。俺はこんなに近い有推のことを何一つわかっていなかった。

 みんなそうだったんじゃないかと思う。おじさんだって有野だって、俺に聞いてくるのは、なにか有推自身に薄い膜のようなものを感じるからじゃないだろうか。人懐こいくせに、間合いが変なんだ。

「楽しかったから、かな?でも、ダメだった。1日やらないだけでも忘れられたんじゃないかって不安になって、それで日が経って、次やったら誰も来ないんじゃないかって、妄想して嫌になって辞めるんだ。馬鹿みたいだろ」

 バカというより、難儀なやつだと思った。

「別に誰も気にしてないだろ」

 有推は納得いってないような顔でうなづいた。

「でもさあ、なんか分かるんだよ。俺は何にもならないって、それなのに頑張るのって辛いよ」

 どっちのことだったんだろうか。

 俺は、体験したことのない悩みだと、少し困った。

 何かに向かって努力をしたことは断言できるが、ただの一度もなかった。全て自分のこなせる範囲のハードルを揃えてきたし、夢もなかった。何にもならない人生を抵抗もなく受け入れている人間には、有推の悩みは難解で複雑なものに思えた。

 普段うるさい有推が小さくなっているのを見ていると、かける言葉を持ち合わせない自分が不甲斐なくもあった。

 俺は馬鹿になることにした。

 無責任な馬鹿を装うことは楽で、周りもそれを求めているのだと、この歳にもなると理解していた。

「やりたいならやったらいいじゃん、俺はお前がやめても忘れないし」と言うと、驚いた顔をした。

 何がそんなに驚くことなのかよく分からなかったが「そうだよな」と言う有推に対して、それ以上言うことはなかった。

 

 

 次の日、有推は配信機材を両手に抱え帰ってきた。

 


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