第7話 今は亡き


「──董路さん…」


あたりが静まり返りしばらくぼうっと宙を見ていたふたりだが、先に沈黙を破ったのは吉景だった。

「ん?」

吉景の呼びかけに、董路はいつもと何ひとつ変わらない、──寧ろまるで何もなかったかのように自然な素振そぶりで振り返った。

「い、色々と順を追って伺いたいところですが、ひとまずあの幽霊たちは……?」

「さぁ。あの幽霊……、いや、母子の素性はおれも知らんよ。

…でも女人の方は、きっとあの赤ん坊が気がかりだったんだろうね」

「赤ん坊が……」

「聞いた通り、抱えていた子の方は病を患って先立ってしまったそうだから」

「そう……ですか………」

思うところがある様子の吉景。

妖や神仏の起こす障りと人の障りとは性質が異なる。

人の障りは人であるが故にその背景をいとも容易たやすく想像し得る反面、思いを馳せればそのいきさつを憐憫れんびんに思わずにはいられぬ事も少なくない。

董路には吉景の沈黙の理由が手に取るように解る。


”やっと笑ってくれた”


母子の傍にいた董路にははっきりと聞き取れた今わの際の言葉は、この上なく穏やかであったが故に一層切なくなる。

「しかし、史葉さんの夢占いは本当に凄いな」

ふと董路は思い出したように言った。

「史葉さんですか?」

唐突に出てきた名前に吉景はきょとんとする。

「この雀は史葉さんの夢では白い羽だったそうだ」

「あ、先程の…!……この雀は一体何なのです?」

「さっきも言ったが全くわからん。だがやはり俺の見立てもあながち間違ってねぇようだ」

「はぁ……。私には何やらさっぱり…」

董路は困惑しきりの吉景を横目で見ると、ふふ、といつもの柔らかい笑みを溢した。

何から何までわからないまま完全に蚊帳かやの外のように感じる吉景としても、董路から向けられたその温和な笑みに幾ばくか救われていた。


悪夢のような一夜が明け、いつのまにか空は月明かりの濃紺から東雲へと移り変わる。

横から差し込む朝日が、董路、吉景、春雲らを、夜の惨劇など何もなかったかの如く清々しく照り返した。

母子の亡霊の姿はあの夢のような出来事の後、露と消えてしまった。

「浦田様、あれは……」

これ以上何も起こらない事を確認し、離れたところで二人の様子を見守っていた春雲も近寄ってきた。

ふと春雲が門戸の外の方を見ると、足跡のような、黒い跡が点々と続いているのを見つけた。

めいめいに顔を見合わせた。

「この黒い跡はもともとあったものでは無いのですか?」

「ええ、私達の知る限りでは……」

春雲和尚も坊主もそろって首を横に振る。

「糞や泥の類でも無いようですし……、むしろこれは恐らく……。…私たちは跡を辿ってみますが、住職様たちはどうされますか?」

「…私は寺でお待ちしていても宜しいでしょうか。

 皆、話せば安心すると思いますので」

「ああそうだね、頼んだよ。では儂は浦田様と様子を見てこよう」

「では行ってみましょうか、春雲様、吉景」

痕跡を辿り寺を背にして歩き出した。




四半刻ほど歩いた先に見えてきた笹薮の中に、今にも崩れ落ちそうなぼろ屋がぽつりとあった。

外壁には蔦や苔が多く這い、所々には遠目で見てもわかるほどの穴が開き、人が住むには到底向かない様相であったが、寺から続く黒い跡は建物の中へと続いていた。

「…あの小屋はもともとここにあったのですか?」

「ええ。ですがもう何十年も前から空き家になっていたはずですが……」

春雲曰く、春雲の親の代には夫婦が細々暮らしていたが、彼らが年老いて二人での生活がむつかしくなると独立した子を頼って家を手放し、それからはずっと無人のまま空き家だったという話だった。

三名は黒い跡が続く屋内へ足を踏み入れると、そこには若い女性の遺体が力尽きるように壁にもたれ掛かっていた。

女性の腕には黒く変色したおくるみが抱かれ、中には例のこどもであろう遺体がやはりと鎮座していた。

枯れ木のように佇む亡骸には、蛆やらハエやら他にも見かけたこともないような虫が纏わりついていた。

見るに堪えない姿とひどい腐臭を気にも留めず、董路は女性の髪をそっと手の甲で払うと春雲へ目くばせした。

払いのけた髪の隙間から覗く顔は痩せこけている上に黒々と変わり果てている。

ふと目に入った赤子のおくるみが、あの亡霊の着物と同じ華やかな茶梅模様で、その場に似つかず目立って見えた。

春雲は少しの間を置き深いため息をつくと、

「ああ……、この子でしたか……」

と、ようやく縛り上げたように結んでいた口元から声を発した。


「…春雲殿のお知り合いで?」

春雲の瞳は女性と赤子を交互に見やると、悲しげにぽつりと語る。

「元々うちの檀家だったご夫婦のお嬢さんです。この子がまだ幼い頃は、うちにも度々いらしてましたが……」

女性の亡骸はあの肉片のずり落ちる『障り』と比べまるとまだ判別のつく顔をしていた。

春雲は所々に腐乱が見て取れる亡骸をまじまじと眺め、しばらく数珠を手に黙祷した。

ようやく顔を上げるものの、その表情は一段と曇るばかりである。


「実は最初にお見かけしてから、この茶梅の模様がずっと気になっておりまして。

……もう10年近くも前です。

金物屋をしていた彼女の父が借金を抱えまして、それも相手が悪く法外な利子をふっかけられたものだから、元よりも生活は立ち行かなくなってしまったそうです。

私が聞き及ぶ頃には時すでに遅く、彼女の二親揃って首を吊った翌日に、ようやくそんな事になっていたと知りました。

2人を弔った後私は残された彼女とその弟が不憫ふびんで…。

うちで世話をしようと申し出ましたが、彼女は借金のある身で厄介にはなれないし、仏門に入る覚悟もないからと、弟を連れて早晩ひっそりと村を去りました。

……その後の事は分かりかねますが、悲劇があったのは確かでしょう。

まさかこんな形で再会するとは。

ご夫婦がまだ豊かだった頃に奥様がこの茶梅模様の反物でお嬢さんに着物を仕立てられ、それを着たお嬢さんが嬉しそうに私にも見せてくだすったのです」


春雲は話終わってもなお名残惜しそうに亡骸を見つめ、再び数珠を強く握り合掌する。

「……仏門に入ろうと所詮しょせん私もただの人です。

人を人が救おうなど、どだい烏滸おこがましいことですが、やはりあの時無理にでも引き留めていればあるいは……」

「……」

「この期に及んで悔いても栓なき事です。

それでもこうして理不尽を目の当たりにしますと心苦しい限りです」

腐臭をまとう女と赤子の亡骸に、住職は深々と腰を折り手を合わせ続けた。

年輪のように刻まれた目元のしわは、一層深くなっているようにも見えた。

董路も春雲にならい数秒ほど合掌した。

「春雲殿、このような時に申し訳ありませんが後の事はお願いできますか。

………特に彼は、こういった惨状には慣れておりませんで……」

董路は少し後ろに控えていた吉景をちらりと見やる。

吉景の顔色は明らかに悪く、口元を押さえる手と肩の震えがどんどんと増し、額には脂汗がじっとり滲んでいた。

今や立っていられぬ程のようで、戸口から数歩出たところで蹲っていた。

一度胃の中身を出し落ち着かせる方が賢明のようだった。

「勿論です。この子らの為にきょうを供えてやれるなら、私にとってもいくらかなぐさめになりましょう。

…浦田様、和田様。この度は大変お世話様で御座いました」

春雲は董路と吉景に向かいなおし、深々と腰を折り頭を下げた。

「こちらこそ、ご厚意有り難く存じます」

董路も改めて春雲へと一礼した。



「うぇ……う、ごほっ……」

吉景が草むらに向かって胃の中のものを出し終えるまで、董路は背をさすっていた。

先程の小屋から暫く歩き、なんとか川縁に沿ってよろよろと歩いたところで吉景の内蔵は限界に達した。

出来れば動かずに小屋で少し休ませてやりたいところではあったが、悪心おしんの原因が側にあっては気も休まらないだろう。

清流の近くで二人は少しばかり休む事にした。

「吉景お前、普段えげつない妖怪どもとどんぱちやってる割にああいう手合いは苦手なのか」

「どんぱちとは何やら語弊が……。

それに生憎あいにく、貴方と違い若輩者ですので」

董路としては付き合わせて申し訳ないというつもりだったが、吉景には少々皮肉めいて聞こえたらしい。

普段の行いのせいである。

昨晩から続く一連の疲労により少しくすんだ目で、涼しげに隣に座る董路を一瞥いちべつする。

場数の違いとはいえ改めて格を見せつけられた吉景は覇気なく返答した。

「お手数をお掛けして面目めんぼくありません…」

「そういう意味じゃねぇよ、悪りぃな。

膝貸してやるから少し横になってな」

えづきが和らぎ董路の隣にいなおした吉景のこめかみを押さえ、半ば強制的に自分の膝に寝かせる。

「はぁ…、子供の様で気恥ずかしいですが正直有難いです。…姿もそうですがどうにも臭いにあてられまして。

胃がひっくり返るかと思いました。

…きちんと御供養も出来ずに、あの子等にも申し訳ない事をしてしまいました…」

幼いころから吉景を良く知る董路にはその心境が手に取るようにわかる。

望まずしてこの世を去った彼女らの最期の場からまかり出てしまったと気が咎めているのだろう。

「春雲殿が良きように計らって下さるさ。

俺たちは元々門外漢だ。もし気になるなら後で花でも手向けておやり」

董路はさほど気にしていない風に飄々と言った。

吉景は片手で困り眉をした額を覆い、目元を隠した。反対の手は依然自身の鳩尾あたりを撫でている。

顔面蒼白の割に耳だけはやや赤い。

まるで少年の頃のまま変わらない吉景を眺めて、董路は微笑んだ。

「ふふ、お前、昔は妖怪相手にもこんな感じだったな」

「……何を急に。

それこそお恥ずかしい話です」

「いや、こういうのも何年振りかねぇ。懐かしいよ。

吉景、お前は本当に昔から良くやってる」

「……董路さんには及びません」

虚をついて董路が吉景を労うものだから、吉景も有り難みより先に身構えてしまう。

「そもそも相手にしてるもんが違うんだから、比べようがねぇさ」

「霊性においても、今代董路さんに迫る者すら未だおりません」

きっぱりと言い切る吉景。

この男がこうも言い切るのは大抵照れ隠しである。

吉景の言葉の真意を汲みつつも、董路の視線は少し遠くを見た。

こうして見上げる董路の顔は、吉景が知る限りいつでも変わらずに美しいままだ。

「……今代限りになれば良いな」

「………皆が、そう願っております」

下からでは董路の表情はさほど窺えないが、普段から朗らかに振る舞う彼にしては珍しく感傷的な言葉だった。

少しずつ血の気の戻ってきた吉景の顔に、道草の細い影が風に合わせて時折落ちる。



夏を告げる生温なまぬるい風が、木陰を揺らして二人をあおいだ。




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